とうに終わった過去の話
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──とうに終わった過去の話
ジョシュアの獲得後『アカデミー』は活動を活発化させている。
まだ大規模にメンバーを増やすようなことはしていないが、新しく仲間になった『神の叡智』やアルカード吸血鬼君主国との交流は増やしている。彼らは少しずつ『アカデミー』に加わっていてくれていた。
「退屈だ。クソみたいに退屈だ」
しかし、そうアレックスの部屋で文句をいうのはサタナエルだ。
「何か面白いことはないのか、アレックス?」
サタナエルはベッドで横になったままアレックスにそう尋ねてくる。
「では、面白い話をしよう」
「ほう」
アレックスが言い、サタナエルが半身を起こす。
「私はエレオノーラのことが好きだ」
「……それのどこが面白いんだ?」
アレックスがはっきりと言ったのにサタナエルがうんざりした表情。
「まあ最後まで聞きたまえよ。私と彼女の間には複雑な関係があるのだから」
「本当に面白い話ならば聞いてやる」
「では、語るとしよう。話は私がまだ地球で、日本で暮らしていたときにさかのぼる」
昔話がこうして始まった。
──20XX年。日本国神奈川県海宮市。
のちのアレックス・C・ファウストとなる日本人──九十九凪はこの首都圏のベッドタウンとでもいうべき場所で育った。
「お腹減った……」
凪はさほど恵まれた家庭で育ったわけではない。
凪の父は凪が生まれてから数か月後に事故に遭って死亡しており、今は母が女手ひとつで凪を育てていた。
しかし、経済的困窮からくる多忙さと初めての子育てというプレッシャーがずっと凪の母にのしかかっており、凪の母は凪に対する幾分かのネグレクトを無意識のうちに行ってしまっていた。
食事が酷く不規則であったり、病気をしてもすぐに病院に連れて行っていなかったり、凪はそういう環境で育っていた。
「まあいいや。今日も魔法使いごっこしよう!」
それでも凪は自分のことを不幸だとか、哀れだとかそうネガティブに思ってはいない。彼は彼の人生を精一杯楽しんでいた。
彼の最近の楽しみは魔法使いごっこだ。
父が残した遺産にあった一冊の本。凪の知らない外国語で書かれた本を魔導書に見立てて、あたかも魔法使いのように振る舞って遊ぶ。それが最近の凪にとってとても楽しい時間であった。
タブレットも、スマホも持たない凪はゲームもできないので、こうしてごっこ遊びをして多くの孤独な時間を過ごしていたのだ。
本に何が書いてあるのかを凪は知らない。ただ、本の見た目は確かに古い革の装丁であり、魔導書として十分な見た目をしていた。
「今日は悪魔を召喚するぞ」
凪はひとりそう言いながら母親から与えられた数少ない品のひとつであるスケッチブックにクレヨンででたらめに線を引き、円を描き、魔法陣と称するものを描いていく。
彼は自分は魔法使いだと思っている間は幸せであった。
「魔法の呪文を唱えると悪魔がやってきまーす」
魔導書に魔法陣に呪文。テレビでやっていた魔法使いのようにローブ代わりのタオルケットを羽織って魔法の杖の代わりにスプーンを振る。
子供は想像力が逞しい。大人よりも空想の世界を楽しめる。
だが、ときとして子供の空想が空想で終わらないということもあるものだ。
「え……?」
突然でたらめに描いてあった魔法陣が光り、硫黄の臭いが周囲に漂い始めた。部屋の照明であるLED電球が激しく点滅したのちに消え、周囲が暗闇に包まれる。
そして、何かが部屋の中に現れた。
「ふわあ。初めまして、幼い堕落者さん」
ゆっくりとした口調でそう挨拶するのは見たこともない少女だ。
年齢は10代前半ほどだろうか。燃えるような赤毛は長く、そして寝ぐせで跳ねており、ファンシーなピンク色のぶかぶかしたパジャマ姿。その目は眠たげに半開きになっており、そこから覗く赤い瞳が凪を見つめていた。
「……おお。あなたは悪魔………?」
凪は目を点にしながらもそう尋ねる。
「おや。失礼を。私はベルフェゴール。地獄の国王のひとりにして“怠惰”の大罪を司る大悪魔。以後お見知りおきを」
ベルフェゴールはそういって頭を下げた。
大罪を司る地獄の七大君主。その一柱が凪の前にいた。
「よろしくお願いします。えっと。僕は凪です。九十九凪と言います」
凪もよく分からないままにベルフェゴールに頭を下げた。
「さて、挨拶も済んだところですし、本題に入りましょう。どのようなことを願っていますか、小さな契約者さん? どのような願いを胸に私を召喚しましたか? 私に叶えられることならば喜んで叶えましょう」
「願いをかなえてくれるのですか!?」
「ええ。もちろんですとも。叶えて差し上げましょう」
凪が驚きに目を見開くのにベルフェゴールはにこにこと笑ってそう言う。
「……プリンが食べたい」
そう言われて凪はそうぼそりと呟いた。
「プリンですか? 本当にそれだけでいいのですか? もっともっと我がままを言っていいのですよ。もっと堕落していて、冒涜的な願いであろうとも私は喜んでかなえてあげますから」
「プリンは駄目? もっと悪いことがいい?」
「駄目とは言いませんが、これで終わりというのは寂しいです」
ベルフェゴールはそう言いながらも皿に乗ったプリンをどこからともなく取り出し、凪に差し出して見せた。
「なら、また来てはくれませんか? 別のお願いを考えておきます! もっともっと悪いお願いを!」
「分かりました。では、また会いましょう、小さな契約者さん」
ベルフェゴールは凪にそう言って現れた時と同じように唐突に姿を消した。
それから凪には楽しみが出来た。
また数日後、母の仕事が遅くなって帰ってこない中で凪はベルフェゴールを召喚。魔法陣に呪文を準備して、ベルフェゴールを地獄から呼び出した。
「ふわあ。さて、今回の願いは何ですか、小さな契約者さん?」
「地獄はどういう場所なのか教えてくれませんか?」
「ほう? 地獄に興味があるのですか?」
凪の言葉にベルフェゴールの目が怪しく輝いた。
「とっても、とーっても悪い悪魔たちがいるんですよね。僕にとって悪魔は悪いからカッコいいんです。そういうカッコいい存在がいる世界の話が聞けたらいいなと思って」
「なるほど、なるほど。なかなかよい価値観をしていますね。将来有望です」
ベルフェゴールはそう言って頷く。
「そうであるならば、実際に地獄を旅してはみませんか? 地獄にはいろいろと楽しいものがあるのですよ。それをあなたに紹介してあげたいと思います。もちろん、あなたが望むのであれば、ですが」
ベルフェゴールは地獄を旅することを提案。
「でも、地獄に行ったら戻ってこれないんじゃ……」
「そんなことはありませんよ。悪魔たちにとって食われたりしなければ、ちゃんと地上に戻ってこれます。どうしますか?」
「うーん」
凪がベルフェゴールの言葉に考え込む。
「行きます!」
「いい決断です。では、行きましょう。我らが背徳の王国へと」
それから凪の部屋の床に魔法陣が広がると、凪とベルフェゴールは姿を消した。
「ここが地獄……」
「『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』という有名な門は通りませんでしたが、確かにここは地獄です。そして、この地は地獄の国王である私の領地ですよ」
地獄。
そこは退廃と悪徳の千年王国。
ベルフェゴールの領地とされた場所にはいくつもの高層建築が並び、その多くが崩れかけている。まるで人々が死に絶えた世界の終りが訪れた場所が、そのまま地獄に引きずり込まれたかのようだ。
ひどく不気味な光景だったが、凪はワクワクしていた。
「そしてあれが私の城です。行きましょう」
ベルフェゴールに連れられて凪は彼女の城に向かう。
ベルフェゴールの城は華やかなもので、壮麗で巨大な建物が灯りが煌びやかに輝き、お祭りでも開かれているかのように活気に満ちている。
「とても賑やかな場所だ……」
「ええ。そうでしょう? 地獄とはこのように賑やかな場所なのです。ここでの楽しさを知れば何度でも遊びに来たくなりますよ」
ベルフェゴールは凪にそう言い、城に向けて通りを進む。
通りには様々な悪魔たちがいた。
明らかな異形から人に近い存在まで、様々だ。あるものは眠っており、あるものは酒のようなものを何杯も飲み続け、あるものはカラフルな煙を漂わせる煙管を咥えたまま死んだように動かない。
「今日はあなたの歓迎会をしましょう。歌も踊りもあって、ごちそうも食べ放題。楽しんでいってください」
ベルフェゴールはそう凪に向けて微笑んでいった。
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