決着とこれから
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──決着とこれから
ドラゴンたるバビロンが巨大化し、その憎悪に満ちた目でエレオノーラを見下ろす。
「私は負けない。そしてあなたを手に入れる!」
魔剣ダインスレイフが剣呑に輝き、その刃がバビロンに襲い掛かる。さらには周囲で純粋な黒魔術によって生成された魔力の刃が発生し、バビロンを狙う。
「素晴らしい。君は強い。どこまでも強い。私がこうも感服するのは君だけだろう。だが、その刃は未だ真の鋭さを得ていない。それでは私は倒せない!」
アレックスがそう言い、数多の刃に貫かれたバビロンが瞬時にまだ内なる地獄から復活する。そしてバビロンはその地獄の臭いを、硫黄の臭いを漂わせてエレオノーラに反撃を開始した。
「そのバビロンは幾度も死を経験している。悪魔は死なないというが、実際のところ、それは完全に正しいわけではない。彼らにも死がある。ただ人間の考える死とは少しばかり異なるだけなのだよ」
アレックスが再生と攻撃を続けるバビロンを見ながらそう語る。
「人間にとって死とは肉体に生じる不可逆な変化だ。そういう意味では悪魔もまた死んでいる。ただし、彼らの肉体は再生する。それに宿っている魂が不可逆に変化するのだ。魂が肉体から生じるものだとすればこれらは同じだと言える」
バビロンがまた死に内なる折りたたまれた地獄から戻る。エレオノーラは何度も何度もバビロンを殺し続けているが、バビロンは未だに彼女に立ちふさがり、アレックスの下に通さない。
「バビロンの魂は地獄に落ちる際に変化している。内なる地獄に押し込まれ、再び戻ってきているが、その過程は残酷なものだ。魂は無理やりその器より小さな地獄に押し込まれ、そこで焼かれ、そして戻る。その苦痛は想像できない」
バビロンの地獄はバビロンの内にある。つまりそれは彼の地獄はバビロンより小さなものであるということだ。
人間が自分の肺や心臓に押し込まれ、そこから再び元の体に引き伸ばされるのを想像すればいい。どれほどの苦痛なのかは具体的に思い浮かばずとも、自分は耐えられないと分かるものだろう。
「苦痛は精神と魂を歪める。多くの場合、それは無秩序な破綻に向かうものだが、そこは悪魔だ。バビロンは苦痛に満ちた死を迎えて憎悪をたぎらせる。彼は死ねば死ぬほど敵を憎み、力を増していくのだ!」
アレックスが説明したように“憤怒”の大罪を司るサタンが眷属であるバビロンはその根底に激しい怒りを有し、憎悪と激怒が彼を強くする。
アレックスはあえてバビロンに苦痛を与える復活のメカニズムを組み込み、そのことで彼を深い深い怒りと憎しみに突き落とした。そして、それによって彼をどこまでも強くしているのである。
「はあ、はあ、はあ……。まだやれる……!」
エレオノーラは殺傷力ではバビロンを遥かに上回っていたが、スタミナという継戦能力において優れていたのはバビロンの方であった。
どんな無敵の戦車でも燃料が切れれば鉄の棺桶であるように、魔剣ダインスレイフという最強の魔剣を有するエレオノーラも彼女自身が戦えなくなればそれまでだ。
「終わりにしよう。降伏したまえ、エレオノーラ。もうそれ以上は無理だ」
「いいえ。私はまだ諦めない。こんなに簡単に諦めてしまえるほど私の思いは弱くないのだから……!」
「そうか」
エレオノーラが力を振り絞って魔剣ダインスレイフを構えるのにアレックスの表情から笑みが消え、どこか悲し気なそれになった。
「そこまで君は私のことを思ってくれていたのか。だが、私は君に負けるわけにはいかないのだ。だから、負けてくれるだろうか」
アレックスがそう言ったときバビロンの召喚が突如として解除された。
バビロンが消えのだ。
「……!」
これが罠かと疑ったエレオノーラだが、頭が冷静な判断を下すよりも早く、闘争心が彼女を前に推し進めた。彼女は魔剣ダインスレイフを構えて突撃し、アレックスの懐に向けて飛び込む。
しかし、魔剣ダインスレイフの刃がアレックスを貫くことはなかった。
「君は結局そうするだろうと思ったよ」
エレオノーラも魔剣ダインスレイフの召喚を解除していた。彼女は何も持たずにアレックスの胸に飛び込んでいた。
「私はあなたを殺したいわけではないから……」
「そうだろう。私も君に殺されるわけにはいかなかった。君の負けだ」
「そうだね」
胸の中のエレオノーラをアレックスが割れ物を扱うかのようにそっと抱きしめる。
「これでいいんだよ。君の思いは嘘でも、吹き込まれたものでも、軽いものでもない。私はそれを理解しているから、それでいいんだ」
「アレックス……」
エレオノーラがアレックスの顔を見つめる。
「はん。下らんオチだな。白けた。好きにやってろ、馬鹿どもが」
サタナエルはそう言ってどこかへと姿を消す。
「あのー……。いい感じの雰囲気になってますけど私たちはもう襲われないと思っていいのですか……?」
そこでアリスがそう尋ねてきた。
「もう大丈夫だよ、アリス。エレオノーラも冷静になったし、我々の亀裂は修復された。万事解決でハッピーエンドだ!」
「だといいのですが。もう殺されかかるのは勘弁してほしいですよ」
アレックスが宣言し、アリスが深々とため息をつく。
「これからどうするんですか?」
「うむ。これからエレオノーラも加わり『アカデミー』は活動を本格化させるのだ。引き続き地下迷宮を征服し、我々『アカデミー』の拠点を確保するのだ!」
「ってことは特に何も変わらないんですね……」
アリスは何を期待していたのかがっかりしている。
「アリスさん。迷惑をかけてごめんなさい。これからは改めてよろしくね」
「あ。は、はい……」
エレオノーラが先ほどまでの殺意は他所へと優し気に微笑み、アリスはその様子に頷くしなかった。
「では、寮の部屋に帰ろう。今日はもうお開きだ!」
「ええ。帰りましょう」
そして、アレックスたちは解散し、自室に戻る。
その様子をある存在がじっと眺めていた。
「なかなかおもしろい結果になったね」
“強欲”の大罪の大悪魔マモンだ。
彼女が水晶の向こうに映るエレオノーラたちの姿を眺めながらワインで満ちたグラスを手にしている。その近くには料理の皿を持ったマモンの眷属たるゴブリンがいた。
「ボクの魔剣ダインスレイフが負けるなんてさ。彼の使い魔であるあの悪魔に魔剣ダインスレイフは敗北した。あれは間違いなくサタン様の眷属だった。それをあんなふうにするなんて」
マモンがそう言いながらワインのグラスを傾ける。
「あのドラゴンの中には地獄があった。折りたたまれた地獄。これまでボクたちは何人もの生きたままに地獄を旅した人間は知っている。だが、地獄を生み出した人間については知らない。そうだろう?」
人は天国と同じくらい地獄に魅了されてきた。
生きながらにして地獄を旅した賢者や魔術師の存在は少なくない。悪魔に案内されさえすれば彼らは地獄を見て回れる。かの有名なダンテのように。
しかし、地獄を、比喩表現ではない地獄を創造した人間はひとりとしていなかった。これまでは、ずっと。
「これはどういうわけだろうね、ベルフェゴール?」
マモンがそこで背後を振り返り、そう尋ねる。
「ふわあ。何故私に聞くのですか、マモン?」
そこにいたのはピンク色のファンシーなパジャマを着て、大きな枕を抱えた赤毛の少女がいた。眠たそうに大きな欠伸をして見せる、その赤い瞳の少女こそ“怠惰”の大罪を司る地獄の国王ベルフェゴールだ。
「ボクの記憶が確かならば君が彼を地獄に案内したはずなんだけど」
「どうだったでしょうね? ベルちゃんは怠惰ですから記憶しておくのも面倒で」
「ふうん。そういうふうに誤魔化すのか」
ベルフェゴールが首を傾げ、マモンはワインをグラスの中で揺らす。
「まあ、いいさ。君の企てに乗ってみよう。それはそれで楽しそうだ」
マモンはそう言って小さく笑うと水晶に映るエレオノーラたちを眺めたのだった。
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