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紅国春秋余録  作者: おがた史
洛神珠の巻
26/31

養花 11



 徳妃からの文が指定したのは菊花宮ではなく、真夜中の蘭華殿だった。

 蘭華殿に着くと、正面入口の扉が開いていた。人影はなく、朝議の時とは違って室内はしんと静まり返っている。誰もいない空間に慧喬の足音だけが響いた。


「言われたとおり迎えにきましたよ」


 入口と窓から差し込む月明かりだけの暗い空間に向かって呼びかける。

 するとふいに前方で明かりが灯り、ぼんやりと人影が浮かび上がった。

 伶遥だった。腕を誰かに掴まれている。


「伶遥? 大丈夫か?」

「……慧喬……ごめ……ごめん……」


 項垂れた伶遥の細々とした声が届く。

 慧喬が伶遥の元へと駆け寄ろうとした時、柱の影から伸びてきた手に動きを封じられた。


「誰だ」


 身を捻って振り向くと、それほど背の高くないまだ若い男だった。

 顔には見覚えがある。

 いつぞや、王族の厩に子翼の馬を連れてきた男だ。

 いや、それ以前にも会ったことがあった。

 子翼の乳母の息子、希直だ。そして、崩れ落ちそうな伶遥の腕を掴んでいたのは、賢妃の年配の侍女——子翼の乳母だった。


「これは一体どういうことだ?」


 慧喬が伶遥に向かって言った。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 伶遥が錯乱したように謝りながら泣き崩れる。


 そこへ、開いた扉からもう一人室内へと入ってきた。

 その人影は月明かりを背に受けて、手燭を手に踊るような足取りで軽やかに近付いてきた。


「偉いわ。言いつけどおりにちゃんと一人で来たようね」


 そう微笑んだのは賢妃だった。


「どうして賢妃様がここに?」


 賢妃が、まあ、と笑う。


「聡いと言われているけど、意外と大したことないのかしら」


 賢妃が至極機嫌が良さそうに、希直に押さえられて跪いた慧喬の前に立った。

 これほどに陽気な賢妃は見たことがない。いつもの落ち着いて控えめな印象はどこにもなかった。


「どういう状況なのか説明してください」


 慧喬が言うと賢妃は手燭を置いて、希直に後ろ手を取られて動くことができない慧喬の頬を撫でた。


「貴女を呼び出したのは徳妃ではないということよ」


 そして頬を撫でた手をそのまま慧喬の鼻に移動させて人差し指をあてた。


「……はっきり言ってあげましょうね。貴女が邪魔だと思っているのは私なの」


 慧喬はそのまま賢妃をまっすぐに見上げる。


「……あの毒入り茶を私に飲ませようとしたのは、賢妃様なのですか?」

「そうよ。ようやくわかった?」


 あっさりと言って慧喬から指を離すと、賢妃は大袈裟に溜息をついた。


「残念だったわね。せっかくいいところまで推理していたのに。貴女が徳妃を疑っているって聞いたときは思わず笑ってしまったわ」


 口元に手を当てて、ふふ、とわざとらしく笑って見せる。


「でも、きっともう少し頑張って調べたら、賢い貴女のことだから本当のことに気付いてしまうだろうと思ったの。だからいい機会だし、あの生意気な徳妃のせいにして貴女を始末することにしたというわけ。本当はね、貴妃がやったことにしようと思ったのだけど、少し手違いがあって、どうしようかと迷っていたところだったの。ありがとう。いい案を出してくれて」

「……私に刺客を送ったのも賢妃様だったんですか」

「ええ。そうよ。でも、恨むのなら陛下を恨んでね。陛下が貴女を太子に選んだばっかりに、こんなことをしないといけなくなったのだもの」


 そしてにこりと微笑んで言った。


「せっかく苦労して太子を排除したのに」


 慧喬の片眉が上がり、琥珀色の瞳が冷ややかな光を帯びる。


「……赤流に……兄上の馬に毒を飲ませたのも、賢妃様の仕業だったのですね」

「あら。馬に毒を飲ませたことに気付いていたのね。でもいい案だったでしょう?」


 賢妃が得意げに慧喬に笑いかける。


「だってね、孝俊殿下にはいくら毒を盛ろうとしても成功しなかったのだもの。だったら馬に盛ればいいじゃない? って考えたのよ。将を射んと欲すればまず馬を射よ。本当に上手いことを言った言葉だわ。どこかの詩人だったかしら」


 まるで手柄を語るように賢妃が饒舌になる。


「それでね、なかなかいい毒だったから、同じものを貴女にも飲ませてあげようと思ったのよ。あの馬と同じように、その自慢の頭も役に立たなくなって、貴女は訳がわからないうちに死ぬ予定だったの。あの毒って気付き辛いでしょう? だから何処で毒が盛られたのかって話になったら、貴妃からもらった茶葉のせいだって誘導してあげようと思ったのに」


 ふう、と残念そうに溜息をつく。


「それで伶遥に毒入り茶葉を持たせたのですか」


 項垂れていた伶遥が涙でぼろぼろになった顔を上げた。その姿をちらりと見て賢妃が眉を顰める。


「そうよ。伶遥とだったら、貴女、疑わないでしょう? だから、本当に残念だったわ。貴女が血相を変えて桃花宮(うち)に現れたときは」

「……伶遥は知っていたのですか?」


 慧喬が聞くと、賢妃が弾けたように笑い出した。


「馬鹿ね。教えるわけがないじゃない。知ってたらこんな気の小さい子、絶対に上手くなんてできないもの」

「……伶遥が飲んでしまったらどうするつもりだったのですか」

「それは仕方ないじゃない。子翼を王にするためだもの」


 賢妃が頬に指を当てて首を傾げる。

 伶遥の啜り泣く声が響く。それを賢妃が不快そうに見遣る。


「なのに、本当に使えない子。お茶を飲ませるくらいのことすらできないなんて」

「……そこまでして子翼殿を王にしたいのですか」


 慧喬が賢妃をこの上なく冷えた目で見る。

 しかし、賢妃は平然と真っ直ぐに視線を返す。


「当たり前でしょう? あの子は王になるべき子よ。武術に優れ、人柄も完璧。人望だってあるわ」

「でも子翼殿は王になりたいと思っていない」


 慧喬が言うと、賢妃はそれを鼻で笑った。


「何を言っているの? 王って、なりたいとか、なりたくないで決めるものじゃないでしょう?」

「それを言うなら、子翼殿は王に選ばれていない」


 その言葉に、賢妃の整えられた眉ばぴくりと動き、表情が消えた。


「……陛下ったら、あの地味な孝俊を太子にするなんてどうかしてたんだわ。しかも、やっとあれがいなくなったと思ったら貴女みたいな変わり者を選ぶなんて……本当にどうかしてる。どうして王妃のところばかり……」


 言葉に詰まり、不意に沸き起こった怒りを抑えるように、賢妃が両手をぎゅっと握りしめる。


「そうよ……いつだって私は不当に扱われてきたのよ。子翼が生まれた時も……貴妃の子が先に生まれたばかりに私は後回しだったし、伶遥だって……本当なら最初の公主になったはずだったのに……王妃が早産で先に貴女を産んだから、私の扱いがおざなりになったの」


 きちんと紅を差した賢妃の唇が震える。穏やかな賢妃に似合っていた落ち着いた紅色は、今はただの澱んだ色に見えた。


「伶遥が生まれてからは私のところにはほとんど来てくださらなかった」


 賢妃は吐き出すように言うと、憎悪というべき感情を剥き出しにした目を向けて、慧喬の腕を掴んだ。


「どうして貴女なの? 太子には公主がいいというなら伶遥でいいじゃない!」


 賢妃の瞳に映る手燭の火がゆらゆらと揺れる。


「貴女が邪魔なの。本当に邪魔。お願いだから消えて」


 底冷えのする怨嗟の籠った声が、室内をさらに暗くするように響いた。

 あえて感情を消した目で慧喬が賢妃を見返すと、賢妃は掴んでいた慧喬の腕を突き放すように離した。

 賢妃は立ち上がって大きく息を吸うと、いつもの穏やかな顔に戻って袖から小さな瓢箪を取り出した。


「だから、もうお終いにしたいの。今度はちゃんと飲んでちょうだい。もう面倒だから、附子を用意してあげたわ」


 慧喬は賢妃の持つ小さな瓢箪を見ながら聞いた。


「……毒を色々とお持ちのようですね……。茶葉に仕込んだ毒はどこから手に入れたんです?」

「城下の怪しげな薬屋よ。あの薬屋、便利ね。毒が欲しいって言ったら、いいものがあるって嬉しそうに出してくれたんですって」

「こいつが買いに行ったんですか」


 慧喬の腕を掴んでいる希直をちらりと見る。


「ええ。子翼のためだったら何でもするの。とってもいい子」


 満足げに言うと、賢妃は瓢箪の蓋を開けた。


「さあ、おしゃべりはおしまい。答え合わせは済んだでしょう?」

「もう一つだけ」

「往生際が悪いわね」


 呆れたように賢妃が眉を顰める。


「ええ。聞いておかないと死んでも死にきれませんから化けて出ます」


 淡々と言う慧喬に賢妃が吹き出す。


「流石、肝が座ってるわね。じゃあ、あと一つだけよ」

「ありがとうございます」


 場違いに礼を言って慧喬が聞いた。


「……段明汐も賢妃様の命令で動いていたのですか」

「明汐ね。そうよ。あの娘はなかなか役に立ってくれたから気に入ってたのよ」


 賢妃が思い出し笑いをする。


「あの娘ね、去年の尚食の下女の遺書、頼んでもいないのに、筆跡が同じだって言い出したの」


 慧喬が驚く顔を満足げに見て続ける。


「どうしてかしら、と思ってたら、突然訪ねて来たの。下女に毒を飲ませたところをみられてしまったらしくてね。だけど、協力するから女官にしてくれって、自分を売り込んできたの。なかなか肝が座っていて、使い勝手がよかったのよ」

「ならば何故、殺したんですか」

「あら。どうして殺したって思ったの?」

「梅花宮で、あの賢妃様の侍女は、死体をろくに見ないで明汐だって断言したんです。あの時の死体は、水の中にしばらくいたから膨張していて、元の顔なんてほとんどわからない状態だった。なのに明汐だって言い切った。それは、もとからあれが明汐だって知っていたということでしょう。仮に、偶然井戸に身投げするのを目撃したとしたら、見つかるまで黙っている理由がない」

「いやだわ。そうだったのね」


 賢妃が伶遥の腕を掴んでいる侍女へ非難の視線を向けた。おどおどと肩をすくめた侍女に、賢妃が溜息をつく。


「あれはいつも詰めが甘いのよね。本当は井戸に明汐を捨てた後だって、ちゃんと蓋をしてくるはずだったのに慌てて忘れるから、あんなに早く見つかってしまって。まあ、結果的に何とかなったからいいのだけど」


 そして慧喬に向き直ると続けた。


「そうそう、何故殺したのか、だったわよね。あの娘、身の程も知らずに欲張ったからよ。子翼の妃にしてくれなんて、下女だったくせにありえないわ」


 信じられない、というように首を振ると、賢妃がすっきりとした顔で小さな瓢箪を振った。


「さあ、これで気が済んだ? 早くこれを飲んでちょうだい。苦しいかもしれないけど長くはないはずよ」

「こんなところで私が死んだら、皆が怪しみますよ」

「大丈夫。そのために徳妃からと言って目立つように文を届けたの。それに後のことは心配しなくていいわ。上手くやるから」

「どうやって?」

「貴女を邪魔に思っているのは私だけではない、ということよ」


 賢妃は囁くように言うと、慧喬の顎を持って上向かせた。




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