葬儀
初めて小説を書いています
ロッカールームに小さくバイブレーションの音が聞こえる。
心に小さなザワつきを覚えながら、自身のロッカーへ向かい、扉を開けた。
口の開いた鞄の隙間から見えるスマートフォンの画面へ、LINEの通知。
(お母さんだ…)
意味もなく、周りを見渡すが就業時間中だから当たり前だが人影はない。
連日の猛暑を感じさせない強すぎる冷房による、空調の音がやけに耳に響いた。
小さなザワつきが動機へ変わり、怯えている自分に小さな苦笑を浮かべつつも、
覚悟を決めスマートフォンを手に取り、通知の内容を確認した。
ー病院から危篤の連絡がありました。今、病院に向かっていますー
「…どした?」
メッセージをじっと見つけていると後ろから声が聞こえ思わず体が大きく跳ねる。
振り返ると、心配顔をした夫が、こちらを見つめていた。
強面だ、なんだと周りからは言われるが、私からしてみれば子犬のような可愛らしさしか感じない。
いつの間にか早いリズムとなっていた動悸が、夫の姿を見て少し落ち着くのを感じる。
「お母さんから。お父さん、危篤だって」
スマートフォンを差し出しつつ、端的に内容を伝える。
画面をチラりと確認した後、再度私の方へ向かってくる視線は、変わらず柔らかく優しい。
「そっか…。どうする?帰る?」
先ほどより声が小声で柔らかい。
家にいるときに語り掛けてくるような心地よさを感じつつ、首を横に振った。
「帰っても、できること何もないから。みんな、向かってるみたいだから大丈夫…」
ーー可奈ちゃんは、人の血が流れてないのかもねぇ。昔から冷たい人間だものねーー
頭の中へ響く、数か月前の記憶。
延命治療を行うか、否か。
家族で話し合った際に、当たり前のように言われた母親からの言葉。
父親が入院している病院は東京、私が住んでいるのは東北だ。
看取るために延命治療を行うのは、最期に苦しい思いを長引かせるのではないか。
仕事を投げ出してすぐに向かうこともできない。
それであれば、延命治療はせずに、最期は自然と迎えさせてあげたい。
それに昔から父親自身も延命治療は行わないでほしいと希望していたのもある。
その思いから、延命治療反対を伝え、姉も妹も、同じ意見だった。
しかし最後まで母親は延命治療を行い、家族全員で看取るのを希望した。
何年も会いに行けておらず、今年こそは行くと先延ばしにしていた矢先に父親が倒れ、
その後寝たきりとなり面会謝絶。
だからこそ、延命治療を行い最期くらい看取ってあげてほしいといわれ続け、
何度も話し合った結果、妹の助けもあり延命治療は行わない方向で決まった。
それでも納得できなかったのか、方針が決まった後、
母親が私の顔を見ながらそう言い放った。
延命を反対したのは、私だけではない、姉妹の総意だった。
なのにどうして、私だけが・・・ーー
「大丈夫?」
暖かな背中の温もりと、心配そうな声にハッとする。
背中に添えられた夫の手の温度が、冷房で冷えた体にじんわり伝わるような感覚がして心地よい。
「大丈夫。多分また連絡来ると思うから、そしたら伝えるね」
「わかった。日にちが決まったら休みの申請するから」
背中にある手が上下に優しく動き、離れる。
仕事に戻る夫を見送りつつ、スマートフォンの画面に視線を落とす。
家族間のグループ、妹や姉は病院に向かっているようだった。
(せめて、誰か一人でも・・・)
間に合えば、寂しがりの父親も、安心して旅立てるのではないか…。
ロッカールームに設けられた小さな窓の外へ視線を送る。
青々とした、3月の空。
東京の空も、同じように晴れてたらいい。
少しでも、父親が寂しくないように…。
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「お兄ちゃん」
中高生ごろの、私のあだ名。
あだ名といっても、呼ぶのは母親だけだったので、あだ名といえるものかは微妙だが。
男手が父親しかいない我が家では、私が【兄】だった。
父親は甲斐性がなく、頼りがいもない、お世辞にも良い夫とも、父親とも言えない人だった。
酒におぼれ、一人で好き勝手に決め、その癖考えが足りないから大抵のことは失敗する。
そのたびに母親とは喧嘩になり、時には母親へ暴力を振るった。
そのせいか、母親は子供たちに依存して行った。
ヒステリックに怒鳴り散らし、泣きわめき、子供のためにどれだけ自分が苦労しているのか、
子供たちがいるせいで離婚ができず、苦しい思いをしているのだから、
私にもっと尽くすべきだと、日々私たちへ自分を敬い助けるよう求めていた。
私は少しでも母親に好かれたかったし、頑張ればいつか「普通の家庭」になれると信じてたから、
求められたことは可能な限り叶えたし、父親の代わりに表沙汰には率先して出て行った。
そうすれば母親の表情は明るく、嬉しそうに笑ってくれ、家族全員が安堵できた。
ーー可奈ちゃんは本当に頼りになるわ、我が家の「お兄ちゃん」ね!ーー
いつしか、母親が嬉しそうに私に告げた。
その日から私は母親から「頼りになる息子」を求め始め、
チカラ仕事、危ない作業、父親が対応してくれない場合は全て私の仕事となった。
ーーお兄ちゃんなんだから、妹が危ないときは守ってあげてねーー
ーー我が家の大事な男手なんだから、もっと頑張って!ーー
ーーお兄ちゃんは私をもっと大切にしなきゃダメよ、そのためにいるんだからーー
家族を守れ、私を愛せ、私を守れ…。
高校3年頃、日々重くなる要求と、嬉々として「兄」を求める母親の異常性に気が付き、
「普通の家庭」は手に入らないのだと、高校生で思い知り、努力をやめた。
そのあたりからだ。母親の中で「冷たい人間」に私がなったのは。
機嫌がいいときは、子供たちへ愛を語っていたが、
必ずそれ以上の愛を彼女が納得する形で返すことを望み、
返されないことに憤慨し暴言と暴力で自分の意志を伝えてくるようになった。
ーーこんな冷たい人間に育てた覚えはないーー
ーー私を助けるために生んだんだから、助けてくれないなら生まなきゃよかったーー
ーー産んであげた恩を仇で返す恩知らずーー
毎日のように響き渡るヒステリックな叫び声、
手あたり次第飛んでくる物たち。
父親がそれを助けてくれることは、当然としてなかった。
(それでも…)
ふと腹部に重みを感じ、目が覚めた。
新幹線の窓に映る景色が駆け抜けていく。
畑が広がるその景色は、目的地までまだ遠そうだ。
隣には喪服に身を包み寝息を立てる夫の姿。
肘置きからこちらの席へ飛び出してきている手が、私の腹部に乗っていた。
どうしてこんな格好になるのか不思議に思いながらも、
眉間に皺寄せつつ眠る夫の顔すら可愛らしく見え、笑みがこぼれる。
腹部に乗る手を数回突くと、小さく唸りながら私に背を向けるように寝返りを打った。
(それでも、お父さんのことは、嫌いじゃなかった…)
再度窓の外へ視線を送りつつも、数時間後に葬儀を迎える父親のことを思った。
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幼少期、一番古い父親との記憶は、
妹と私の頭を鷲掴みにし、力いっぱいぶつけ頭同士をぶつけた際の、
怒りに満ち溢れた父親の顔だ。
理由は、鼻歌がうるさかったから。
小学生にもなっていない私たちは、顔の半分が腫れ、大きな青あざができたらしい。
そのほかにも、子供とご飯を共にしたくないが、空腹だった父親が、
食事をしている幼稚園児に向かって食べるのが遅いと怒鳴り散らし、
テーブルの食べ物を叩き落し食事を終わらせる記憶もあるが、どちらの方が昔だったろうか。
とにかく、物心がついたころの父親は、本当にクソ野郎だったことに変わりはない。
母親が殴るのとは比べ物にならないほどの痛みに、ただただ怖かった。
殴られないためにはどうしたらいいか、痛くならないようにするにはどうしたらいいか。
子供ながらに必死に考え、好かれるための努力をした。
恐怖心を悟られないよう常に笑顔で、父親へ媚びを売り続けた結果、
最初は鬱陶しがっていた父親も、懲りずに笑顔で付きまとう私に、
いつしか父親は私にだけは、優しく接してくれる回数が増えていった。
父親に好かれ始めた私をみて、妹も同様に父親に甘えはじめ、
私と妹は、小学生にもなるころには、父親に殴られることもなくなったが、
それと比例して、媚びを売る私たちに憤慨していたのは母親だった。
自分の「男」を誘惑し、自分より私たちが大切にされていると嫉妬し、
あろうことか子供たちに向かって「売女」と叫んでいた。
毎日のようにヒステリックを起こす母親と、
助けてはくれないものの、暴力も振るわず、ある程度扱いやすい父親。
どちらの方がマシか、比べるまでもない。
あだ名が「お兄ちゃん」になった時も、その後も、
母親は常にヒステリックに突然怒り出し、包丁などでも平気で子供に向かって投げつけ、
私を愛せ、私に尽くせ、子供たちのせいで自分の人生がいかに台無しになったかを叫んでいた。
ーーお母さんを、あまり怒らせるなーー
母親のヒステリック後、必ず父親はそういっていた。
(ヒステリックを起こすのは、あんたが原因だよ)
そう言ってやりたい気持ちをグッと毎回抑え、分かったとうなずく日々。
(思い返しても、全然いい父親じゃない)
父親のいいところを思い出そうとしたはずなのに、
屑っぷりを改めて思い出しただけだったし、母親に会うのが憂鬱になっただけだった。
隣で眠る夫の背中を見つめる。
ーー行きたくないなら、行かなくてもいいんだよーー
葬儀に向かうためスケジュール調整を行っていた際に、
心配そうに私に夫はいった。
ーー親だからって、葬儀にでなきゃいけないってことはない。
可奈ちゃんがいきたくないなら、行かなくていい、俺がお義母さんに伝えるよーー
夫はいつでも私の味方をしてくれる。私の気持ちを、優先してくれる。
今思えば、母親にはそんな夫はいなかった。
面倒ごとは押し付けてくる夫、そんな夫に媚びを売り、甘える子供たち。
家族の中で、たった一人取り残されたような気持ちだったんだろうか。
(だからと言って、あの人を許す気にもなれないけど…)
新幹線がトンネルに入り、暗くなった窓には自分の顔が映る。
ひどく疲れた顔をしている。
まだこれからがだというのに、これからこんな顔をしていてどうするのか。
小さくため息をつき、東京までの残り時間を、再度眠ることにした。
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「可奈ちゃん、こっちこっち!」
甘ったるい嬉しそうな声が聞こえた。
振り返ると、火葬場の入り口付近で大きく手を振る母親が見えた。
隣を歩く夫を軽く突き、母親の姿を指さし知らせた後、彼女に向かって手を振り返した。
彼女の表情は思いのほか明るく、元気そうだった。
「長旅御苦労さま、疲れたでしょう。」
「ほとんど寝てたから。」
「朝早かったものね。もう皆さん揃ってるから、中に行きましょう」
短く会話をした後、他愛もない世間話をしつつ火葬場へ入っていく。
入り口から少し先に進むと、懐かしい親戚や姉妹の顔が目に入った。
「叔母さん!!」
母方の叔母の姿が見え、思わず足が駆け出していた。
振り返った叔母が手を振ってくれる姿に自然と笑みがこぼれ、
そのままの勢いで抱き着いた。
「叔母さん、久しぶり!」
「可奈~、あんた、大人っぽくなったね!」
「もう30過ぎたんだもん、なってないといやだよ」
叔母と話していると、どうも子供のころに戻ったような気持ちになる。
子供のころからよく遊びにつれて行ってくれ、
ヒステリックに泣き叫ぶ母親とは違い、常に笑顔だった叔母が大好きだった。
「あれ、後ろの人がもしかして…」
「あ、私の夫です」
「初めまして、ご挨拶が遅れてすみません」
少し緊張した面持ちで頭を下げる夫。
結婚してから親戚に夫を紹介する機会もなく、今回がほとんどの親戚と夫は初対面だった。
大好きな人を、大好きな人に紹介するのは、こんなにもうれしいものなのか。
両親に彼を紹介した際には感じたことのない気持ちが、湧き上がってくる。
「優しそうな旦那さんじゃない。」
「優しそうな、じゃないの。すっごい優しい旦那さん、なの」
私の答えに大きく笑う叔母と、恥ずかしそうに笑う夫。
まるでここが火葬場だということを、忘れてしまいそうだった。
「みなさん、お揃いでしょうか。」
柔らかな女性の声が聞こえた。
振り返ると職員だと思われる女性が立っていた。
「みなさんお揃いでしたら、準備ができましたので、最期のお別れをお願いいたします」
スッと頭を下げる職員に先ほどまであったにぎやかな雰囲気が鎮まる。
職員を先頭に、場所の移動を行いつつ、ほかの親戚にも簡単に挨拶をしつつ夫を紹介した。
しばらく歩いていくと、炉前についた。
棺を囲むように並べられ、簡単な説明が行われた後、職員はその場を離れた。
母親がすぐさま棺に近づき、泣き始める。
ほかの親戚も、棺に近づき思い思い声をかけていた。
今回は直葬としたため、亡くなってから、父親と会うのはこれが初めてだった。
亡くなる直前の姿も見ていない。
なぜか、足が強張り前へ進むことができず、少し離れたところから棺を見つめることしかできなかった。
「可奈ちゃん」
いつものように、背中に暖かな温もり。
優しく、穏やかな笑みを浮かべた夫がいた。
「可奈ちゃん、お父さんに挨拶しようよ。きっとお父さんも待ってたよ」
夫の言葉に頷き、歩みを進める。
棺から見えた父親の顔は、私の想像の中にいる父親とは、かけ離れた姿だった。
肉付きはなく、やせ細った顔は骨ばっていて、
最後に見た生前の姿からとても老けたように見えた。
「…お父さん」
思わず、声がこぼれた。
「お父さん…会いに来なくてごめんね…」
声が震え、視界がぼやける。
涙が溢れ、頬を伝った。
決して良い父親ではなかった。
幸せな家庭でもなかった。
思い起こしても辛い記憶や思い出が多くある。
子供のように無邪気で寂しがりな父親は、
寝るときは必ず家族全員に挨拶をして、返事が返ってくるまで眠らなかった。
料理が大好きな父親は、いつも自分の作りたい物を作っては家族へ振る舞い、
満足そうに酒を飲んでいた。
朝早く起き、ヒーロー番組を一人で毎週楽しんでいる姿を今でも鮮明に覚えてる。
(ああ…なんだかんだ言って…私はきっと…)
父親のことが、好きだったんだ。
夫から差し出されたハンカチで涙をぬぐい、父親の頬をそっと撫でた。
生気を感じられない冷たく硬い皮膚に、もう目覚めることはないのだと実感する。
隣で手を合わせていた夫と目が合った。
「会えてよかったね」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
夫の言葉に笑みを浮かべお礼を告げたとき、
先ほどの職員の女性が近づいてきて、時間であることを告げた。
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直葬のため、火葬後はすぐに解散となった。
時刻はすでに夕方のため、日帰り予定の私たちも帰りの新幹線の時刻が近づいていた。
「今日は来てくれてありがとうね」
骨壺を抱えた母親が、少し疲れた笑顔を浮かべている。
この人を愛することは、決してない。
子供のころに受けた傷や、暴言の数々を、許すこともきっとできない。
(…お母さん、老けたな)
骨壺を抱える母親の体は、以前よりも小さくなった気がする。
髪の毛には白髪が混じり、顔に皺も増えてきている。
「うん、また、今度ね」
短く挨拶をかわし、帰路につく。
彼女が亡くなった時も、私は涙を流すんだろうか。
楽しい思い出や、遠い日々を懐かしむ日が来るんだろうか。
嫌いになりきることができれば、もっと心は楽なのか。
私はまだ、彼女に愛されたいと思っているんだろうか。
新幹線の窓の外は暗く、景色はほぼ見えない。
隣に座る夫の手をそっと握る。
「…お疲れさま」
こちらを見た夫の顔にも少し疲れが浮かんでいたが、
ニコリと笑みを浮かべつつ気遣ってくれた夫に心が軽くなるのを感じる。
今後母親との付き合いがどうなるかはわからない。
それでも、この人がいればきっと子供のころのような思いはしないだろう。
出会ってくれたことに感謝を心の中で伝えながら、残りの時間は眠ることにした。
きっと子供のころの夢は、もう見ないだろう。
お読みいただきありがとうございました