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coffin

作者: そなちね
掲載日:2023/05/10


 死にたい


 その一心だった。


 たったそれだけの意思しか残っていなかった。


 もはや願いと言っても過言ではない。それ以外の希望も、何もかもが擦り切れてしまった。


 重い。


 心が重い。


 鉛みたいにどす黒くて重たい心は、ともすればその重みで皮膚を内側から突き破って、自らの身体と離別してしまいそうだ。


 早く解放してくれ。もう、何もしたくない、と。


 生物としての本能はとっくに鳴りを潜め、醜い理性が身体と心をズキズキと蝕んでいる。


 ただ、死ぬ決心をする前からすると遥かに楽だ。


 目的がはっきりとしている。光の道標が見える。ただそこに歩を進めれば良い。それ以外は考えなくて良い。


 脳は、クリアだった。


 死に向かって進む。それだけを簡潔に目指して進む。まるで機械のように。


 ズタズタになった心を、ズリズリと引きずりながら歩く。


 死に場所を求めて一歩ずつ、頼りない足取りで進む。それがこの肉体の最後の存在価値だ。それ以上は必要とされていない。


 心に至ってはもはや存在理由すら無い。死んだ感情を見かねた脳が、安らかに死ぬことを肉体に命令しているようだ。


 真っ暗な森の中を、前後不覚になりながら歩き続ける。


 何かに引っ掛けたような切り傷が、幾重にも脚に重なる。土踏まずが悲鳴を上げる。


 時折、木の根に足を取られて身体が踊るが、それも大して気にならない。転んで頭を打つならそれも本望だ。脳漿をぶち撒けて土の肥やしにでもなったほうが、このまま生き続けるより遥かに生産性があるだろう。


 深い闇の中、この濁った眼は周りの様子をはっきり映さない。ただ、噂に聞いていた通り死の匂いが濃い所だというのは間違いない。


 静かだ。背の高い木々に生い茂る植物。それに囲まれてなお、命を感じない。


 ここは、この国でも指折りの自殺スポットだ。ここでなら、もう何の干渉も受けず、ただ粛々と死を受け入れられると思った。


 そして、死も、自分を導き、優しく受け入れてくれるだろうと。


 同類である多くの先人達と同じように、この美しい山の麓の、雄大な樹海で、命の領域に包まれて死のう。


 安らかに逝けそうだ。


 本来なら気味が悪いと感じるであろうこの薄暗く見通しの悪い景色、おどろおどろしい雰囲気も、今やあたかも自分を歓迎してくれているのではなかろうか。そんな錯覚にすら陥る。


 夜の闇に少しづつ目が慣れてくる。少しずつ樹海の全貌が掴めてくるが、さしたる感動も覚えない。覚えられない。そんな機能はとっくの昔に手放してしまった。


 至る所に居を構える巨木。彼らは人間より遥かに長い一生の中で、自分のような人間を、そしてそれらの末路を幾百と見てきただろう。ただ、物言わぬその雄大な姿で優しく背中を押してくれているようだった。


 空を見上げても、背の高い木々が邪魔をして、星空などは拝めそうにない。


 生い茂る植物達。緑が多い割に、花は目に留まらないなぁと、無意味な思考を弄ぶ。


 なぜかこの雄大な自然の中に、虫や鳥などの生き物の声はしない。夜だからか、それか彼らもまた、この深い森の中を最期の場所に選ぶのだろうか。


 所詮ヒトも動物の範疇を越えず、彼らと同じ棺を求めるのかもしれない。


 道無き道を行く。


 もうどのくらい歩いてきたか、わからなくなる。どれだけの時間がたったかも定かではない。


 持ち物は最低限。時計はおろか、余計なものは全て置いてきた。


 身ひとつ。正確には、首吊りに使う道具などがいくつか手元にあるが、それ以外のモノは遂に何も意味を為さないガラクタになった。


 死んだ心と、疲れた身体、そのくらいしか自分には残っていない。


 ただ、悲しいとは思わない。


 むしろ、今夜この場所で死ぬことを決心してから、どれだけ身軽になれたことか。今まで心に纏わり付いていた煩わしい何もかもを振り解けた。


 さぁ、日が昇る前に。世界が蘇る前に。さっさと死のう。


 夜は長い。


 今まで余計な思考を膨らませてしまうのは、決まって夜だった。生きるにはしがらみが付き物で、毎晩毎晩恐ろしい妄想ばかりが脳をよぎった。


 周りからの冷たい視線。己の愚かな醜態。行き場のない復讐心。あの人の顔。


 意識しないようにすればするほど、優しく丁寧に脳を揺すって不安をや後悔、悲しみを浮かび上がらせてくれる。


 終わりの見えないような暗い時間に、理不尽にも立ち向かわされる。


 ただ、今夜だけはその長さに救われそうだ。


 この茫洋とした時間の中で、あてもなく泳ぐように命の終わりに身を寄せることができる。


 恐らく今夜を逃せば決心がブレる。


 きっと、失敗した事にもう一度挑戦することは、とても勇気のいる事だ。


 それが命に関わる事ならなおさら。


 準備をして、心を決めて、死ぬ。


 この手順を踏むにあたって、『越えてはいけない今宵』が長いことは、とてもありがたいことに感じる。


 絶対に今夜、この草臥(くたび)れた心を永遠に休ませよう。


 この永遠にも思える悲しみに、冷たく美しい世界に、今日こそさよならを言おう。


 そして、会いに行こう。



ーーー



 少しして、樹海の大分深い所まで来た。


 ここまで来たら引き返そうなんて変な気も起こすまい。諦めきれない領域を超えただろう。


 あとは痛み、苦しみへの恐怖と闘うだけだ。それさえ越えられれば、晴れて遠い空へ旅立つことができるだろう。


 立ち止まり、辺りを見る。


 見渡す限り大きな木々に囲まれ、生き物の声も聞こえない樹海は、外界と隔絶されているようですらあった。


 この場所ならこの樹海を死の象徴たらしめるそ(・)れ(・)も近くに見当たらない。


 まるで縄張りを探しているようだと考えて、思わず苦い笑みが出る。


 生物が生き抜くためにとる行動を、生から遠ざかる為に行なっている姿は、あまりにも滑稽で愚かで、何より憐れだった。


 ここら一帯で最も立派であろう木を見繕う。


 しっかりと太さや固さを確認する。首を吊っている際に折れてしまったら、それこそ人生お仕舞いだ。この勢いのままひと思いに死ねなければ、恐らく恐怖で一生死ねない。


 そんなのごめんだ。もう生きたくない。


 あんな惨めな生活、もう送りたくない。


 あなたに会えない世界で、まともに立っている自信が、無い。


 よし、コイツにしよう。


 立派な木だ。まるで幾百の命の終わりを優しく見届けてきたかような、不思議な包容力がある。


 決めた相棒に、持っていたロープを括り付ける。


 括り方は、わかる。死に方は、知ってる。参考書は、この樹海にごろごろ転がっていた。沢山の同類の骸が、教えてくれた。


 最後の一仕事だ。身体も喜んでいる。腕が、足が、首が、肩が、腰が、目が、耳が、ゴールテープを切ろうと全力を尽くしてくれている。


 もうすぐだ。


 もうすぐ死ねる。


 やっとだ。


 やっと君に会える。


 知らず、笑みが溢れる。


 醜い笑みだ。口の端をひん曲げ、眉毛は下がり、よだれが溢れるのは委細構わない。欲望を成就する笑み。


 世界で一番本能から遠いところにある醜い理性に突き動かされた、正常な動物が浮かべることのできない醜悪な表情。


 しかし、こんな自然な笑みを浮かべたのはいつぶりだろう。何も取り繕わない美しい笑みだと、子供のような無邪気な顔だと

、自分ではそう感じた。


 ロープの準備が完全に整い、旅立つ支度が終わった。あとは覚悟を決めて首を通すだけだ。


 最後に、今から自分を殺す木に、自分の旅立ちを見届ける存在に背中を預け、根元に座り込む。


 大きな溜め息を一つ吐いて、最後の、本当に最後の未練を断ち切るために、ポケットから一枚の写真を取り出す。


 懐かしい写真だ。


 そこには自分の顔と並んで、愛おしい顔が写っている。


 可憐で、眩しくて、逞しくて、朗らかで、弱くて、儚くて、添い遂げたくて、守りたくて、守り抜けなかったあの笑顔が。


 呆然と、ただ呆然と見つめる。


 空虚な瞳で、がらんどうな心で。


 感情は死に、心は動かないと思っていたのに、胸の中で何かが疼く。ただ、枯れた涙はもう二度と流れることはない。


 やっと死ねる。嬉しい。嬉しいはずだ。希った未来に踏み出し、望みは成就する。なのに、この紙っぺらを見つめると、この紙っぺらに見透かされると、悲しくなる。




 だが、もう前は向かない。




 ひとつ。


 大きな息を溢す。


 引き返せない類の、溜め息を。


 もう、おさらばしよう。


 覚悟が決まる。


 さぁ、死のう。


 「待ってろよ。すぐ逝くから。」


 目を擦り、顔を上げて、腰を上げる。


 今から向かう、あの人が待つ満点の星空に目を向けて、死への最後のスタートラインへ立とうとする。


 そこで


 背の高い木々共が自分の視界を覆い、あの人のいる星空を遮っているように見えた。


 一つ隔てた世界が見通せなくて。


 急にそちらの世界が遠くに感じられて。


 えも言われぬ不安に、心の凪が、少し揺らぐ。




 なんだか気持ちが空振りしたような錯覚を覚えた。




 ーーーーーーその瞬間、視界の端にぼんやりと明かりが灯っているのを見つけた。





 月明かり以外、眼への便りがない中で、急に現れた暖かい明かり。


 自然とそちらへ顔が向く。


 理性は、マズイと叫んだ。


 だが、生物としての本能が、生き物の生への執着が、この時明かりに顔を向かせた。


 案の定だ。


 ボロボロの体は、脳の指示も受け付けず、理性の鎖を振り解いて、暖かい灯火の方へと歩を進める。


 足が、ゴールから離れていく。心が、あなたから遠ざかっているみたいに。




 ーーーーーーー果たして、そこにあったのは、木材でできた小屋だった。




 ただ、造りは新しく、最近建てられたのではないかと思わせるような建物だ。


 先程まで薄闇が支配していた世界に突如光を灯したのは、この小屋で間違いないようだ。


 誰かの家では無いだろう。このような場所に人が住んでいる訳がない。


 そもそも、人工的な灯りがある事自体不自然である。


 他者に干渉されないからこその自殺スポットであるはずなのだ。


 ナニかがおかしい。いや、前提からおかしい。全部がおかしい。入るべきじゃない。


 違和感を覚えつつ、入り口の脇に建てられた看板の文字に、自然と目が向かう。


 「『cafe coffee』?」


 その瞬間、何かとてつもなく嫌な予感に襲われる。


 全身の毛穴という毛穴から発汗する。


 ただ、何が自分の危機感を刺激しているのか、自分では判然としない。


 取り敢えずは、看板の文字通りこれがカフェであることを理(・)解(・)す(・)る(・)。


 こんな森の奥で、こんな夜の深い時間に、ましてやこの曰く付きの樹海で目の前に現れたカフェ。


 明らかに不自然だ。なのに、何故かそこで、先程までの違和感を手放してしまった。


 ただ、入らなくちゃ。そう思った。


 金もない。何も喉を通らない。何より自殺衝動に駆られていたこの心をもってしても、入らなくちゃ、と出処の分からない義務感に駆られる。


 ドアノブを掴む。


 脳はもう働いていない。


 ただ、意識の外で緊張しているのか、ドアノブを下ろした時、ひとつ大きく心臓が跳ねる。


 大きく息を吸い込んで、吐き出す。


 その後、一息にドアを開けると、ぼんやりと森を照らしていた優しい光が、ふんわりと体を包む。


 カランカラン、と優しいベルの音が鳴る。


 カウンターと机。そして数脚だけ並べられた可愛らしい椅子。


 暖かみのある照明から溢れる光は、それだけでここが安らかな優しさを享受できることを物語っている。


 そして、


 「あら、こんばんわ」


 穏やかな、そして、泣きたくなるような声がこちらに投げかけられた。



ーーー



 知らず、膝を突いていた。


 男は、その声を聞いた瞬間、心の欠落した部分を全て埋められ、乾いていた部分を容赦なく潤わせられた。


 あまりの衝撃に耐えられなかったのか、それともまだ脳が追いついていないのか、蹲って頭を抱えて泣き喚いている。


 突如去来した困惑と同様に、迷子の子供のように嗚咽を漏らす。


 「……」


 声の主は、何も言わず、ただ暖かな視線で男を見つめている。


 慈しむような、在りし日を懐かしむような穏やかさで、彼をその目に映す。


 部屋の中に、男のみっともない泣き声がこだまする。


 木でできた床を、涙と涎が汚し、震えが止まらない体を抱き寄せる男の腕がカタカタと震える。


 枯れたと思っていた涙の泉は、ぶり返してきた感情の嵐に呼応して蘇った。


 とめどなく溢れて止まらない。


 流れ出して抑えきれない。


 止める術も知らない。


 ただ、声の主に伝えたい言葉が、万感の想いが、喉に詰まって呼吸を急かす。


 泣き喚いているその口からはまともな言葉はいくら頑張っても紡げない。


 落ち着け。


 その一言でさえ、脳裏にすら過ぎらない。


 ただ、歯を食いしばる。


 ぎぃ……と情けない声が漏れ出た。


 惚れた女にこれ以上の醜態は晒すなと、理性ががなり立てる。


 男としての、意地だった。


 死を決意して、余計なモノをかなぐり捨てた筈だったのに、こうやって目の前に憧憬が現れると、どこからか湧いてくるのは羞恥や意地など、本当にくだらない感情(モノ)で。


 奥歯が砕けるほど力を入れて、嗚咽を漏らす。


 徐々に感情の波が引いてくる。それに伴って、泣き声も少しずつ収まる。


 困惑の奔流はそれまでの死への執着も流しきり、残ったのはちっぽけな意地だけをぎゅっと握りしめた空っぽの自分だけ。


 次第に、嗚咽は荒い息に変わり、徐々に状況を把握する余裕が生まれてくる。


 荒い呼吸を肩で吐き出しながら、少しずつ体を起こす。


 顔を、正面に向けた。


 そこには、記憶と寸分違わないあの人がいて。大切な写真に取り残した彼女がいて。


 優しく微笑む貴方の姿があって。


 「ホント、何も変わらないわね」



 その一言で、また頬を涙が一筋走った。



ーーーーー



 ひとしきり泣きじゃくった後、男はカウンターから少し離れた席に腰掛けた。


 ひどく疲れた様子で、顔は机に向けられ、背もたれにぐったりと体を預けている。


 無理もない。彼はこの樹海に自殺を図りにきたのだ。心身共に疲れ切った状態で、満身創痍の魂を引きずってここまで来たのに。


 目の前の光景は、彼を更なる混乱に陥れる。


 つらい現実に疲れた彼を、夢に逃げようと決意を固めた彼の心を、翻弄するかのような状況。


 夢と現の境がわからなくなる。


 まるでなにか抗いようのない大きなモノに、良いように弄ばれているようだ。ソレは男の覚悟を嘲笑うように、死角から急所を突いてくる。


 擦り切れて、残っているかすら怪しい心の残骸を、これでもかと丁寧に潰そうとする。


 せっかく死ねると思ったのに。


 やっとの想いでその聖地へ足を運んだというのに。



 ようやく、解放されると思ったのに。



 膝の上に乗せた両の拳を握りしめる。


 それでも、混乱した頭で、なんとか自分を翻弄する状況を把握しようと試みる。


 机を挟んで向かいを見ると、こちらの顔色を伺うように覗き込んでいる可憐な女生と目が合う。


 いるはずのない彼女が、暖かい光を受けて、目の前に座っている。


 なんでもないことのように。何事もなかったかのように。


 視線が絡み合う。


 「……どうして」


 口を突いて出たのは、そんな、どうしようもない言葉だった。


 何を聞いているかも具体的には分からない、どうとでも答えられるそんな問い。


 自分でも、ない混ぜになった疑問をどう発散すればよいのか分からず、必死に絞り出した言葉がこれだった。


 聞きたいことが山ほどあって、言いたいこともいくらでもあった。


 なにから聞くのが正しいのだろう。


 どういった答えが返ってくるのだろう。


 今さらどう話せばいいのだろう。


 頭がパンクするほど考えて出した問いかけがこれだった。


 「私にも分からないの。気付いたらここにいて……」


 その漠然とした質問に対して、女は困ったように苦笑をこぼしながらポツポツと語り出す。


 視線は男から外れ、目の前の冷めきったコーヒーに落とされる。揺れる液体に、自分の姿を認めながら、落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。


 「彼に、せっかくだからここでお茶でもしていってくださいって」


 そうしていたら、貴方が来た、と。


 ぼんやりと湯気を立ち上げる水面に映る女の顔は、まるで存在すら定まっていないかのようにゆらゆら揺れている。


 しかし、困惑と同時に心からの喜びを噛み締めていた。


 花が咲くように、笑顔を綻ばせる彼女を見つめているだけで、男の中の足りなかった何かが急速に補填されてゆく。


 万感の思いが、乾いた心に去来する。


 こうやったまた笑いかけてくれることを、幾百、幾千願っただろうか。どれだけの夜を祈っただろうか。


 ただ、隣でずっと笑ってくれていれば、幸せだった。


 何かの間違いで良いから、もう一度自分に、生きる意味を与えてくれるその優しさを湛えて、隣を歩いてくれないかと。


 寂しさと悲しさでボロボロになった心を癒してくれるその微笑みを、もう一度自分に向けてくれないかと。


 願って、願って、願い続けて、擦り切れた。


 もう、ダメだった。


 どんな奇跡が起きても、どんな巡り合わせがあっても、もう隣に立つことはできない、笑いかけてくれることはないと心の隅で理解していたから。


 願う度に心が擦れて、摩耗して、無くなった。


 会えなくなった想い人の影を、頭の中でなぞる日々。


 夢の中でいつも後ろ姿だけを遠くから眺めていた。


 虚しさだけがどんどん心を喰らっていく。蝕まれて、穴が空いて、風に晒されて、錆びていった。


 それでも、彼女の笑顔を忘れきれなくて、眠る時は瞼の裏に張り付いた幻影に何度も狂いそうになる。


 そんな夜を越えたくなくて。貴方が隣にいない朝を迎えたくなくて。ここに辿り着いたのに。


 こんな可笑しな奇跡を見せられたら、


 「もう死ねないじゃないかっ……!」


 それは思わず出た、それこそ心の奥底に深く沈殿していたドス黒い感情の一部。理性の水面から顔を出し、片鱗を見せた悔恨の塊。


 覚悟が砕け散る。


 原型をとどめないほど無残に。望みを残さないほど残酷に。


 余計な雑念を払って、生への未練を捨ててようやくあのラインに立てたのに。


 悲壮な決意を、悲しみの蝋で固めて、ようやく二度と立てないであろうあのラインに足をかけたのに。


 そう。2度はない。


 この覚悟が薄れてしまったらもうダメなのだ。今夜を越えて、一度失敗したら、もう挑戦できない。


 一生死ねない。


 何かの気まぐれで訪れたこの再会も、きっと現実には持ち帰れないだろう。


 それこそ、今見ているのは全て、疲れ切った脳が見せている幻影かもしれない。


 幼稚で稚拙で浅はかな心が、我が身可愛さで保身に走った結果がこの蜃気楼なのかもしれない。


 しかし例えそうだったとしても、またこうやって見つめ合ってしまったら、死への覚悟など無意味に等しい。淡い期待に身を委ねてしまうに決まっているのだ。


 頭では分かっているはずなのだ。彼女がもう現実にはいないことを。


 ただ、もう正しい判断もできないこの心では、縋れるものには這いつくばってでも縋りついてしまう。


 いや、実際には生き物として、こじつけでも理由を見つけて、無意識に生にしがみついているのかもしれない。


 なんとも醜い。


 徐々に膨らんだ死への執着と、生物としての生への渇望がせめぎ合う。


 死にたい。


 死にたくない。


 生きたい。


 生きたくない。


 余計なしがらみを全て脱ぎ去って尚、生きるか死ぬかでここまで頭を悩ませてしまうなんて、男はつくづく自分が『人間』に向いていないのだと感じた。


 気まずい沈黙が流れる。


 女も、なんと声をかければ良いのか決めあぐねているようだ。


 壁にかけられた時計の音だけが、ちくたくと部屋に響く。


 そこで、2人の意識の外から、穏やかな声がかけられる。


 「どうぞ」


 店員の男だ。いわゆるカフェのマスターといったところだろうか。


 穏やかな声音で、聴くものの心を落ち着かせる様な心地の良い声だ。


 マスターは、カウンターの方からゆっくりと歩み寄ると、2人が対面する机に、男の分のコーヒーを置く。


 女の分は、あらかじめ置いてあったようだ。湯気が出なくなったカップに、男に運ばれてきたものと大して変わらない量のコーヒーが揺れている。


 マスターは、そのまま一礼して、カウンターの方へ足を向ける。


 若い男だ。


 中肉中背、特徴のない顔で、どこにでもいる青年といった印象を与えてくる。黒を基調としたエプロンがよく似合っている。


 店内とマスターの落ち着いた雰囲気も相まって、立地が立地でなければ、何の変哲もない至って普通のティータイムだっただろう。


 「あの、ここってどういう……?」


 遠ざかるマスターの背に向かって、男が咄嗟に問いかける。


 彼からすれば当然の質問だった。


 命が行き着く地で、夜中にカフェ。更に目の前には、数年前に永遠の別れを余儀なくされた想い人。


 この場所は一体何なのか。


 今自分の目の前で何が起こっているのか。


 混乱した男は、まとまらない思考で、様々な意図がない混ぜになった問いかけを放つ。


 背後からの言葉に対して、マスターは丁寧に男に向き直って口を開く。


 「ここはただのカフェです。皆さまに心地よく帰っていただくための」


 マスターは答えを用意していたように、また、質問の意図を全て汲み取ったかのような穏やかな口調で告げた。


 そして、これ以上の説明は無いとばかりに背を向けて、今度こそカウンターに戻って行く。


 あまり要領を得ない答えに、男は少し不服そうな表情を浮かべる。


 ただ、何故かその言葉に、少しだけ背を押された気がした。


 何処へ向かうための助言なのか、何を得るための後押しなのかはわからないが、大分、心が落ち着いた。


 ただのカフェで、想い人と時間を共にする。大したことではないのかもしれない。


 あの日から、幾度となく願ってきた何でもない平穏。これと言った特別なことがない、大切で特別な日々。


 話したいことが話せる気がした。言葉を整理して、きちんと伝える準備ができた気がした。


 男は正面へ向き直る。


 向き直って女の顔を直視した時、心の奥底にある泥濘に足を取られ始める。


 何故彼女がここにいるのか。どうしてまた会えたのか。


 未だに何も分からないが、間違いなく、これが最後であるというのは、分かる。


 ただ、今更面と向かって言葉を交わして、何が起きるのか。


 この一瞬が潤ったって、結局この『何か』が覚めたらまた死にたくなるに決まっている。


 虚しさに堪えられなくなった心が、寂しさに浸りきった身体が限界を迎える日が来る。


 そして、今夜のことを思い出して、死ねないのだろう。


 今日のこの、一時の甘い誘惑を思い出して。


 死のうとしたら、また今日のように眼の前に現れてしまうのではないかと。


 死への覚悟と決意をぐちゃぐちゃに踏みにじり、まるで無駄だったかのように丸めて捨てられるのだ。


 叶うはずのない逢瀬に恐れて。


 死にたいのに、また会えてしまったら、決意が折れて、また死ねない。それの繰り返しだ。たとえこの先、眼の前のような光景に出会わなくても、恐れて踏み出すことが出来なくなる。


 結局、男が今いるのは行き止まりのどん詰まり。


 そんな状態で、彼女と言葉を交わすことに何の意味があるのだろうと、そう思ってしまった。


 そして女は。


 自らの思考に足を取られて、見るからに顔から精気が失われて行く男を見て。


 「仕方ない人ね。私がいないとそんなになっちゃうなんて」


 と、苦笑しながら、やはりどこまでも暖かい眼差しで男を包んだ。


 わかったような口振りで。しかし確かに理解して甘やかに溶かしてくれる。


 男はハッとして女と眼を合わせる。


 2つの視線が交差する。熱を帯びて絡まる。


 呆れ、それでも際限ない温もりを与える視線と、失って久しかった愛を享受する視線。


 「……俺も、頑張ったんだ。君が居なくなってしまって、いっそ押し潰された方が楽なのにって、何度思ったか。」


 男は少し潤んだ瞳で語る。


 それは、許しを乞うために必死に言い訳するようにも、断罪して欲しくて、懺悔しているようにも聞こえる。


 いまだ泣きそうな声で、迷子の子供のように。


 話したいことも纏まらないまま、女がいなくなった後の世界の話をする。


 「ホントに君が俺の全てだったんだ。君を奪った奴らを許せなくて、怒りに呑まれてた時期もあった……」


 許せなかった。


 何もかもが許せなかった。


 彼女を奪った奴らも。年齢にかこつけて奴らを許した法も。彼女を手放した世界も。


 「……」


 女は黙って、男の独白に耳を傾けていた。


 痛ましいものを見るように少しずつ表情は歪んでいったが、決して一言一句逃さぬように頷く。


 「でも、俺は何もできなかった……!奴らに復讐することも、何も無かったように君を忘れることもッ!」


 男の膝に置かれていた拳が、机の上に憎々しげに叩きつけられる。


 「なんにもだ!なにもできなかった……ただ君がいないまま時間が過ぎることだけを実感する空っぽの日々だった」


 当時の怒りが再燃したのか、眦を吊り上げ、怒りの形相で喚く男の声を黙って聞く女。


 もちろん女はその話を知らない。


 年端も行かない少年が、どんな動機があって車に乗っていたのか。


 そもそも自分を轢き殺した相手がどんな人物なのかすら知らない。


 ましてや、その事件がどういう決着を迎えたのかなど、死者には知る資格すらない。


 だから、初めてその後の経緯を聞いた女に、憤りがなかったといえば嘘になる。


 自分をこのような末路に追いやった人物が、何の裁きも受けずにのうのうと暮らしているのは非常に腹立たしい。


 だが、何より女が許せなかったのは、目の前の彼から幸せを奪った後も、彼を傷つけ、その心を踏み躙ったことだ。


 出来ることなら、今すぐそいつらの元へ行って同じ苦しみを味わわせてやりたい。2度と動けないくらい心も身体もぐちゃぐちゃにして、彼に向かって地面に頭を擦り付けながら謝らせたい。


 が、女はその怒りをぐっと堪え、怒りに煮えたぎる言葉を飲み込んだ。



 何故なら、目の前に愛する男がいるから。



 「お腹にだって……もうすぐっ……!」


 迷子の子供のように、泣きじゃくりながら助けを求めている。手を引いてあげないと、この人は死んでしまうから。


 それだけはさせない。


 自分からあらゆるモノを奪い、これから生まれる筈だった新しい家族への祝福すら怠ったこの世界。


 自分たちの未来を絶ったこの世界でも。


 この人だけは。


 彼だけは奪われてなるものか。


 他の何を諦めても、それだけは譲れない。


 絶対に、死以外の幸せを示してみせる。


 そう女は決めていた。


 遠い空の上で彼と暮らせるのは、まだ先になるだろうけれど。


 彼が笑顔で暮らせるのであれば、向こう百年へっちゃらだ。地獄であろうと永劫待ってみせよう。


 女は一度、飲みかけだったコーヒーに口をつける。


 男は悲痛な声を絞り出し、肩で荒い息を吐き出している。


 瞳には大粒の涙を湛えている。その涙は、紛れもない愛の証明で。


 「だからって、死んじゃダメだよ」


 女は男を諭す。


 大人が子供に言うように。


 「つらくても、きっといつか傷は癒える。私のことなんて、そのうちきっと忘れられる。時間が、解決してくれることも、きっとあるから……」


 額面通りの、まるで道徳の教科書にでも載っているような薄っぺらい言葉しかかけられない。


 それで救われるのであれば、こんな悲壮な決意をたたえた顔にならない。そんな事は分かっている。


 言葉を紡ぐうちに、声に涙を孕ませてゆく。


 「あなたが死んでしまったら、私にはそれが一番悲しい。私のせいで、あなたがこの世を見限る姿なんて見たくないよ……」


 それでも説得するしかなかった。下手くそでも諭すしかなかった。何としても彼を世界に縫い止める為に。


 だってそれは、私がかけてしまった呪いだから。


 私が彼と一緒にかかってしまった魔法だから。


 それを解くことができるのは、私しかいないんだから。


 しかしいざ彼を説得しようとした時に、この程度の言葉しか出ないのかと、自分に失望した。


 もっと一言で、彼の価値観を覆すような、それこそ死んだ人が生き返るような言葉をかけられないのか。


 「だから、自殺なんてしちゃダメ……!」


 死んだらいけません。


 そんなこと、子供にだってわかる。


 ましてや彼は子供じゃない。悲しいときや不安なとき、自分に寄り添い、大きく暖かい心で癒やしてくれた強い心の持ち主だ。


 その彼が、今にも死に手をかけそうになっている。


 この程度じゃ彼の心のもやは晴れない。


 分かりきったことだ。


 ただ、女は心の隅で、「私の言葉なら」と、何処か期待した部分もあった。


 ありふれた言葉でも、彼の心を動かせるんじゃないかと。


 しかしそれは自分が生きていた頃の彼の優しさに甘える、最も愚かで皮肉な思考で。



 「じゃあどうすれば良かったんだよ!!」



 バンッ!!と机を叩いた彼の反応に、希望はあっさりと砕かれた。


 机の上に置かれたカップが、カチャカチャと音を鳴らす。


 コーヒーは、彼の激情に呼応するように波打つ。


 「何度も踏み止まったさ!君を忘れられないなら、一生独りで背負って生きていこうって!君がいないこと以外は普通の日常だって言い聞かせて!」


 でも、ダメだった。


 そう零しながら、俯く男。


 それだけ男の中で、女の存在は大きかったのだろう。


 津波のように激情が押し寄せる。


 「何やってても勝手に涙が出るんだよ……。思っても見ない時に急に吐き気を催すんだ……。ずっとなにかが足りないんだよ」


 なおも独白は続いた。


 下を向いた男はその表情を見せないまま、心の底に沈む黒い感情を吐露する。


 行き場の無かった苦しみを解放するように。誰にも吐き出せなかった感情を爆発させるように。


 男の怒りと悲しみに呼応するように、部屋の空気もかすかに冷たく震える。


 「もう無理だって思った。仕事も休みがちになって、迷惑かけ続けるくらいだったら辞めようって。生活すら厳しくなった……」


 男には逃げる場所が無かった。


 精神的に追い詰められて、周りとの接触を断ってしまったのだ。その為、碌に相談できる相手もいなかった。


 いや、正確に言うと、相談相手はいたのかもしれない。


 ただ、相談できなかったのだ。


 男の弱い部分がそれを許さなかった。


 どういうことか、簡単な話だ。


 


 「自分勝手ですね」




 またも意識外からの声に、2人は驚く。


 冷たく、人を射抜くような鋭い声音だった。


 彼らが視線を動かした先にあったのは、穏やかな表情でカウンターに佇むマスターの姿。


 男は何を言われたのかわからないと言う風に一瞬固まるが、理解が追いつくと慌てて口を開く。


 「何が言いたいんですか……」


 先程、女に当たっていた時程の自暴自棄はナリを潜めてはいるが、その口調は神経を逆撫でされたとでも言いたげな不機嫌さを持っている。


 男の問いに対して、捉えどころのない青年は、その眼に強い力を宿しながら語る。


 「お話に割り込んでしまって申し訳ありません。ただ、大事なことなのでよく聞いてください」


 マスターは新しいカップを背後の戸棚から取り出すと、コーヒーを並々と注ぎながら言葉を紡ぐ。


 黒い液体はまるでカップに魂を宿すようにゆっくりと注がれてゆく。


 「貴方は、そちらの女性が亡くなってから自分の事しか考えていない。彼女の死への悲しみよりも、我が身可愛さの方が強いようだ」


 空気が凍りつく。


 物腰が柔らかだと感じていたマスターが、今は不可思議な圧を纏っている。


 眼を背けられない威厳がある。頷かされる何かがある。


 「復讐だとか、生活だとか、忘れたいだとか、死にたいだとか。そんなモノはあくまで貴方だけの気持ちの話だ。究極、亡くなった彼女自身の想いとは関係ない」


 淡々と、男の本当に醜い部分を晒していく。


 本性を包み隠さず暴き、容赦なく責め立てる。


 そう、それこそが、男が誰にも悩みを打ち明けられなかった理由だ。


 彼自身、心のどこかで気付いていたのだろう。彼女を失った悲しみにかこつけて、あらゆる物事を遮断する自分の脆さを。


 結局は自分本意だったのだ。真に強い人間でありたいならば、彼女のために立ち上がって、心配させないように懸命に生きる姿を見せることだってできたはずだ。


 それができなかった。我が身かわいさから逃げてしまった。


 そんな身の内を晒したくなくて、周りに助けも求められずに追い詰められていった。弱い部分を誰にも抱きしめてもらえなくて、心が弱っていった。


 男は衝撃で動けない。自分の浅はかさをこれでもかと責め立てられ、無意識に自覚していた部分をまざまざと言語化され、愕然とする。


 第一に、と呟くと、マスターは自分用に注いだコーヒーを一息に煽った。


 そして、この世の何よりも確信を持った口調で


 「再開した恋人にかける言葉がそんなものであって良いわけがないでしょう」


 そう言い放った。


 男は、自分の核を貫かれた様に、身動きを取れなかった。


 頭の中で様々な想いが交錯する。


 そもそも俺は、疲れた心の首根っこを無理矢理掴んで、死ぬつもりでここに来たんだぞ、と。


 もう他人を気にする余裕なんて無いんだ。


 むしろ俺のことをもっと心配するべきなんじゃ無いか。


 ただ、グチャグチャと思考をこねくり回した後。




 カッコ悪いなぁ、と。




 自分の1番醜い部分を暴かれ、図星を突かれ、1番最初に始まるのが言い訳を考えることなのか。


 最低だ。


 マスターの言う通りだ。


 相手を慮る言葉が出て良い筈だ。


 声を荒げず、彼女がどれだけ自分にとって大きな存在だったか、改めて気付いたんだって、伝えるべきだった。


 何より、また会えて嬉しいって、言うべきだったのに。


 何をしていたんだろう。本当に自分勝手だ。自己中心的思考だ。


 きっと、一緒に過ごした日々の中で、彼女は何度も自分に愛想を尽かしたんじゃ無いかと思った。


 そもそもが不釣り合いで、こんな自分に、無限とも思える深い愛情を与えてくれる彼女は、自分には勿体無い。


 勿体ない、が、絶対に手放したく無かった。


 大好きだった。


 愛していた。


 誰よりも、何よりも。


 それだけは本当だ。世界がひっくり返ったって、この事実だけは覆らない。


 ずっと心の支えだった。


 元々、自分に自信がなく、何かに縋らないと心の均衡を保てない様な弱い男だ。


 その自分にずっと寄り添って、ずっと支えてくれた。


 弱い部分を、自信のない心を許容して、全てひっくるめて愛してくれた。


 弱い部分があっても、ありのままでいいんだと。そんなありのままの自分を愛してくれた彼女が愛おしかった。


 ただ、今だけは。


 強い男でいたいと思った。


 頼れる男でいたかった。



 だってきっと、最後だから。



 言葉を交わして、視線を絡めて、呼吸を絡めて、愛を紡げるのは、正真正銘の最後だろうから。


 みっともない姿は見せた。


 彼女の変わらぬ大きなぬくもりに触れることもできた。


 

 あとは、男を見せるだけだ。



 「俺さ……」


 男は俯いていた視線を、目の前の女に向ける。


 重い口を開くのは、これまで自分を支え、労り、抱きしめてくれた愛だ。


 女は、不安そうに男を見つめる。


 先ほどまでボロボロだった彼の心に追い打ちをかけるような重い叱責。彼は脆い。私が支えてあげないと、まっすぐ立って歩くこともだってできないのに。


 今すぐ慰めてあげなければ。彼がまた三途の川で舟を漕ぎはじめる前に。


 「君の声が好きなんだ」


 そう思っていた矢先、彼から出たのは予想だにしない言葉だった。


 「いつも聞いていたいと思う。起きたとき、寝るとき、疲れたとき、たのしいとき。いつだって横に居て欲しい。」


 弱い彼が好きで。弱いからこそ、自分を受け入れてくれて、お互いの弱さを受け入れて、支えあって生きてきた彼は、女の目にはもう映っていない。


 「君の手が好きだ。優しく抱きしめてくれる時も、力強く背中を押してくれる時も、いつもあたたかい。」


 目の前にいるのは、もう弱いままの彼じゃない。強くたくましく、そばにいる人を守れるくらい強い目をしている。


 「また会えてよかった。君の優しさに触れることができて救われたよ。擦り切れてたはずなのに、まだもう少し頑張れそうだ」


 その言葉を聞いたとき、女の胸を満たしたのは、大きな喜びと、小さな悲しみだった。


 彼は最初から、弱い人じゃなかった。弱さに甘えていたくて、彼を弱くしていたのは自分だった。


 醜い自分の姿を見つけた気がして、でもそんな自分でも彼は優しく包みこんでしまうんだろうなと思うと、また嬉しくなる。


 かなわないなぁ。


 死を踏みとどまってくれた。これで最愛の彼は、無念な結末をたどらずに済む。一番大切なモノを守れた。


 しかし、男がどこか遠くへ行ってしまう気がして、少し寂しい気もする。自分の知っているままの男ではなくなっていくのが少し悲しい。


 「そろそろ、日が昇ります。ご帰宅の準備を」


 そう声をかけてられて外を見ると、空が少しずつ赤らみ始めている。


 綺麗な赤だ。まるで夕焼けみたいに空が燃え始める。


 世界が蘇る。死者はそろそろお暇の時間だろう。


 気を付けてお帰りください、と男に言い渡すと、マスターは店の奥へ消えてしまった。


 最後に男は、女に歩み寄り、抱きしめた。


 「ありがとう。愛してる。もう少し待っててくれ」


 「私も。いつまでも待ってる」


 それだけ交わして、男はカフェを出る。


 多くの言葉は必要ない。ただ熱い抱擁さえあれば、愛の大きさは伝わる。


 十分だ。


 最後に振り向いて微笑んだ彼の頬には、一筋の涙の道しるべがあり、やはりどこか、弱さを隠しきれていなかった。


 それを見た女の口は、暖かに緩んでいた。彼がそばにいてくれる気がして。自分が知っている彼が消えないでくれて、心から安堵した。


 男はきっと涙の跡を隠せているつもりなのだろう。いつも詰めが甘いのだ。


 かっこつけて、胸を張って、最後くらい男らしく。


 そんな見栄すら愛おしい。


 しかし、それを指摘するのはまた今度にしよう。


 次会ったときに、今日の思い出をおなか一杯語り合おう。


 それまでさようなら。愛しい人。 


ーーーーー



 男が店を出ると、そこは森の入り口であった。


 空は明るくなりかけている。


 燃える朝日が世界を飲み込んで、静かな夜が背を向けて去っていく。呼び止めるすべはない。でもそれで良い。


 きっとまたいつか会えるから。


 森は生を謳歌し、小鳥は暢気に歌なんか歌っている。


 後ろを振り向くと、先程までいた建物の姿はなく、ぽつんと立っている古ぼけた立看板に、「coffin」と綴られている。


 俺も歌いながら帰ろう。軽やかな心で。


 小鳥と共に鳴きながら帰ろう。生を謳歌するものとして、みっともなく生きよう。


 きっと今日も空から彼女が見守ってくれているはずだ。




                        ーfinー

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