オレンジの思い出
清々しい青空の広がるある日。
僕は草木の生い茂る小山を、軽い足取りで進んでいた。
僕が今こんなところを歩いている意味は……、特にない。
言うなれば気晴らしだろうか。毎日農作業に追われる僕は、たまには息抜きにと近くの山に足を踏み入れたのだ。
この山にはあまり人が入らない。麓の街からかなり遠いからだ。僕もこの山までかなり歩いてきた。
「……頂上から、ちょっと景色を見張らしてみようか」
そう思い、僕はさらに上へ登った。
かなり道が荒れているから歩きづらい。だが幸い、獣道があったのでてっぺんまで行くことができた。
急に視界が開け、眩しさに思わず目を閉じる。
そして目を開けてみると――そこには、一面の蜜柑畠があった。
「……ぁ」
こんな山の奥深くに蜜柑畠などあったのかと、僕は息を呑む。
その上、さらに驚いたのは。
蜜柑畠の中央に、一人の少女が佇んでいた。
青空に映える橙色の長い髪を美しく波打たせ、黄色のワンピースを風に揺らしている。
緑色の長丈ブーツが目を引いた。
すらりと細身でスタイルがよく、その横顔は静かで凛としており、彼女の姿は蜜柑畠ととても似合っていた。
と、僕が見入っていたその時、少女が勢いよくこちらを振り向き、言った。
「あなた、誰?」
単刀直入なその声に、僕は答えることができない。
彼女のあまりの美しさに、圧倒されていたのだ。
「答えないのね。ここは誰かに棄てられた蜜柑畠。残念ながら今時期蜜柑は実っていないから、何もないわよ」
宝石みたいな朱色の瞳は僕をぎろりと睨みつけており、警戒していることが窺える。
僕は彼女の腱膜に気圧され、思わず小さくなってしまう。
「あ、あの。僕は、気晴らしに」
「気晴らし? わざわざ麓の街から登ってくるなんて、物好きもいるものね。さっきも言ったようにここには何もないわ。気晴らし程度の用事なら、邪魔だからとっとと帰りなさい」
そこで反論すればいいものを、僕は「はい」と頷いて、すごすご帰ってしまった。
なんとも情けない話である。
山を降り、家に帰ってから僕は、あの場から逃げたことを強く後悔した。
あの少女――『オレンジ姫』と勝手に名付けた――と、話がしてみたい。
あの娘はあそこで一体何をしていたのだろう。蜜柑のように愛らしい彼女は、何者なのか。
「また、会いに行こう」
気づけば僕は、そう呟いていた。
明日もオレンジ姫がいるかどうかは知らないが、行ってみるに越したことはない。
明日こそはきちんと話したいと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次の朝、早々と畑仕事を終えた僕は、またあの山へ踏み込んでいた。
相変わらず鬱蒼とした森の中を進んで登り切ったところに、やはり彼女はいた。
「ここには何もないと言ったはずだけれど」
冷たい感じを装いながらも、あくまで話しかけてくれるオレンジ姫。
その口ぶりや態度から、どことなく気品が感じられた。
「ええと……君と少し話がしたくて」
「私と話、ねぇ。邪魔だから帰ってほしいのだけれど」
こちらを真っ直ぐに見つめ、仁王立ちをするオレンジ姫は、どうやら僕のことを好ましく思っていないらしい。
当然だ。野暮ったい若百姓である僕に、こんな可愛い子が興味を持ってくれるとは思っていなかった。ただ、少しばかり傷ついたが。
僕は碧い葉を茂らせる蜜柑を指差しながら言った。
「それに、こんなにたくさんの蜜柑があるなんて素敵じゃないか。僕は蜜柑が好きなんだよ。君はどうして、こんなところにいるんだい?」
「私も蜜柑が好き。だからいる。それだけよ、つまらないでしょう」
そっけなく振る舞いながらもオレンジ姫は律儀に答えてくれる。
僕が何か次の言葉を続けようとした、その時。
突然、少女が橙色の髪を揺らしパッと立ち上がった。
そして鼻息荒く歩き出す。
「私は帰るわ。もう来ないでちょうだい」
待って、と手を伸ばそうとしたが、僕は躊躇ってしまう。
そうしている間にオレンジ姫の姿は見えなくなった。
――僕は何か悪いことをしたのだろうか。
なんとも言えない気まずい空気の中で、僕はしばらくの間蜜柑畠に突っ立っていたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
どうしてだろう。
あんなことがあって、それでも僕は諦められずに山を登っていた。
今日は水撒きだけだったので、ずいぶん早く来られた。農家の利点である。
それと今日は、口実を用意していた。――あのほったらかしの蜜柑畠を元気づけようという作戦なのだ。
獣道を登り、蜜柑畠に出る。
だが、オレンジ姫の姿はなかった。
もしかして、来るのをやめたのではないか?
そんな不安を持ちつつ、僕はしばらく待つことにした。
改めてじっくり蜜柑畠を見回してみる。まだ花はなく、碧い葉っぱだけだ。柑橘類の甘酸っぱい匂いがしている。
しかし、顔を近づけてよく見てみると、虫食いがひどい。害虫がところどころに見えた。
「これはやばいな。早くなんとかしないと」
「――またあなた? もう来ないでって言ったのに」
その鈴の音のような声に振り返り、僕は彼女を見上げた。
橙色の髪、黄色のドレス、緑のブーツ。
オレンジ姫はいつの間にか僕の後に立ち、腰に手を当てていた。
「や、やあ」
「やあ、じゃないわよ。よくもまあ懲りもせずにここへ来られるものね。感心するわ」
「君だって毎日来てるじゃないか。僕がここを知るずいぶん前から、足を運んでるんだろ?」
そう言ってやるとオレンジ姫は顔を背け、黙る。
そして蜜柑畠の真ん中に座り込んだ。
「今日は僕、この蜜柑畠を良くしようと考えて来たんだよ。これでもしがない農家なんだ。だから、多少のことならできるんじゃないかって」
「……ふぅん。お好きにどうぞ」
面倒臭くなったのだろう、彼女は僕を追い返そうとはしなかった。
僕は言われるままに、農具を広げて作業を始めた。
まず、農薬を撒く。天然だから大丈夫だ。
見える限りの害虫を取り払い、そして養分を与える。
最後に軽く水をやれば終わり。結構簡単だ。
その間に僕は、チラチラとオレンジ姫の方を盗み見る。
黙りこくる彼女は、僕に背を向けて蜜柑の木々を見つめているようだった。
蜜柑畠に涼しい風が吹き込み、彼女のウェーブヘアーがさわさわと波打つ。とても綺麗だった。
「畑仕事、終わったよ」
オレンジ姫は何も言わない。一体何を想っているのだろうか。
僕は彼女から少し離れた場所に座って、同じように蜜柑畠を眺めた。
その日はずっとそうしていて、やがてオレンジ姫は帰っていき、僕も我に返って足ばやに帰途につく。
また明日も来ようと思いながら。
それから僕は毎日、晴れの日も雨の日も風の日も、その蜜柑畠に通い詰めた。
すると彼女はいつもいて、黙って僕を迎え入れてくれる。
僕は水やりをしたり、蜜柑の世話をしたりと忙しい。が、それが終わるとすぐに彼女の傍に座る。
それから何時間も無言で過ごし、帰っていく。そんな時間が僕はいつしか、たまらなく好きになっていた。
そんな中、オレンジ姫はたまに口をきくようになった。
ぽつり、ぽつりと。
大抵が「今日は雨で嫌ね。私は雨が嫌いだわ」とか、「そろそろ帰るわね」とか一方的な言葉だけだったが、彼女の声が聞けて僕はとても嬉しかった。
たまには僕から話もする。
「どこに住んでるの?」
「君の名前は?」
でも、オレンジ姫は僕の問いには溜息だけで応じた。
答えたくないのかと思い、僕は再び黙って彼女と一緒に蜜柑畠を見つめる。
季節が移りゆき、蜜柑の花の季節になった。
その頃にはもう彼女も僕を気にする様子はなく、言葉数も多くなっていった。
「ここにある蜜柑はずっと昔から生えてるのよ」
「風が気持ちいいわね。こんな日はお昼寝がしたくならない?」
「あなたこそ、どこに住んでいるのかしら」
問われる度に、なんだか嬉しくなって答える僕。
会話が徐々に増え、僕らは他愛のないことをよく話すようになった。
「君、幾つ?」
「女に年齢を聞くなんて失礼ね。……私は今年で十八になるわ」
「僕はもうすぐ二十歳だよ」
「二十歳にしてはひょろひょろし過ぎよ。同年代か歳下かと思っていたわ」
とても楽しかった。
オレンジ姫の朱色の瞳はいつも真剣で、僕はその輝きを見る度に魅入られてしまう。
そのうちに僕は気づいた。――僕は、この娘に恋をしてしまったのだと。
彼女の佇まい、表情、声、何もかもが好きでたまらない。
いつからだろう、彼女の傍にありたいと思っていた。蜜柑畠に佇むオレンジ姫を、ほしい。
そんなの傲慢だってわかっていた。けれどもう、この気持ちは抑えることができない。
ある日、僕は彼女にこの想いを伝えることに決めた。
無碍にされても構わない、僕の胸の内を聞いてくれる、それだけでもいいから――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
オレンジ姫は、いつもの蜜柑畠ですでに待ってくれていた。
僕に気づくとこちらを振り向き、真っ直ぐに視線を投げかけてくる。
「いらっしゃい」
「今日は早いんだね。最近は、僕が先に来るのに」
「そうね。……ちょっと名残惜しくて」
オレンジ姫の表情が、なんだか今日はいつもと違う。
どうしたのだろうと思いつつ、僕はもう色々なことで頭がいっぱいだった。とりあえずは彼女の隣に腰を下ろす。
そういえば、最初は離れていたのに、座る距離もずいぶんと近くなったな。
そんなことを考えながら、僕はどうしようかと迷っていた。臆病な心が先延ばしにしたいと悲鳴を上げていたのだ。
しかしここで怯んではならないと己を律し、僕は彼女の方に向き直る。
胸がいつになくドキドキしていた。
「あの……」
「何? 顔が赤いわよ」
「どうしても、言わなきゃいけないことがあるんだ。笑われるのは覚悟だけど、聞いてほしい。僕は――、僕は、君のことが好きなんだ」
頭を勢いよく下げ、言い切った。
臆病でなよっているこの僕が、なんと告白できたのである。
汗はひどいし息も尋常じゃなく荒い。
恐る恐る頭を上げて僕は、彼女の方を見た。
少女は困惑と驚き、それ以外の様々な感情を表情に宿した後、静かに口を開く。
「ごめんなさい。その申し出は受けられないわ」
「どうして」
わかっていたことだが、僕は聞き返さずにはいられない。心に重たいものがのしかかる感覚があった。
なおも彼女は続ける。
「これにはわけがあるのよ。そうだわ、今まで隠してきたけれど、この機会に全部話してしまいましょうか」
そうしてオレンジ姫が語り出したのは、僕には信じられない話であった。
実は彼女は、この山を挟んで向こうの領地を治める、由緒正しき貴族の令嬢だったらしい。
暇を持て余してはこの山へ来て、一人きりで蜜柑畠にいた。
ここなら誰にも邪魔されない。本当の自分であれるから、と。
「けれどそこに邪魔者が入ってきたのよ。それがあなた。私は追い返そうとしたけれど、あなたはしつこく来るものだから、私も仕方なしに引き下がったわ。でも、あなたと少しずつ話すようになって――。楽しいと、人生で初めてそう思ったのよ」
僕はなんだか涙が出そうになった。そこまで思ってくれるなら、何故。
「私ね、ついこの間、公爵令息との結婚が決まったの。別に私が決めたんじゃないけど、親の都合でね。貴族というのは大抵、結婚相手は選べない」
オレンジ姫の瞳が揺れる。
僕にはそれが、少し寂しげに見えた。
「明後日挙式で、明日出発する予定。……だから、もうここには来られないわ。ごめんなさい」
オレンジ姫は申し訳なさそうに頭を垂れる。
が、別に僕は謝ってほしいんじゃない。彼女の語ったことは本来であれば喜ぶべきことであると思う。
だが僕の内心は、悲しいというかなんというか、複雑だった。
――二度と、オレンジ姫と会えないなんて。
「そう、なんだ。おめでとう」
こんな気持ちになるなんて、僕はなんて情けないんだろう。
が、そんな僕に少女はこくりと頷いてくれた。
「ありがとう。あなたと喋ることができて、本当に嬉しかったわ。気兼ねなく話せる人なんてこれまでいなかったもの。あなたは私の、たった一人の友達よ」
そして彼女は軽く屈み込み、何やらモゾモゾと動く。
再び立ち上がった少女が手にしていたのは、オレンジ色に輝く熟れたての蜜柑だった。
「私が愛でて、あなたが育てた最高の蜜柑。これを、一緒に食べましょう?」
オレンジ姫は蜜柑を剥いて半分に割り、片割れを僕へ手渡す。
僕は「うん」とだけ言って、それを受け取った。それ以上に何かを言ったら弱音を漏らしてしまいそうだったから。
「せーの」という少女の掛け声で、僕らは同時にそれを口にした。
口の中に広がる甘酸っぱい味。それは僕の心の奥深くまで染み渡るようだ。
「これが、私からのあなたへの贈り物で、あなたから私への贈り物。どう、美味しい?」
笑顔で、今まで見たことのないような最高の笑顔で、オレンジ姫は小首を傾げる。
愛らしくて、たまらなく大好きで。
それを見て、僕の中で何かが――音を立てて千切れた。
「……どうしたの?」
「いか、ないでよ。ずっと、いて。ずっとここ、ここにいてよ……っ。ひ、引っ越しなんか。だって僕はもっと、もっと……」
隣にいて、君の姿を見ていたいのに。君とたくさん話したいのに。
僕の目からは、とめどなく涙が流れ出した。鼻水もずるずるで、なんともみっともない。
けれど僕はもうどうすることもできなくて、泣いて泣いて、泣き続けた。
そんな僕を膝の上に乗せて、オレンジ姫は困ったような笑いを浮かべている。彼女の頬にも涙が玉となって光っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「蜜柑、美味しかったよ」
「そう。それは良かった。私も今まで食べた中で、一番好き」
泣いて泣いて泣き腫らした後、僕らはそう笑い合った。
気がつけばいつの間にか日暮れが近く、山にはひんやりとした空気が流れている。
「じゃあ、そろそろ私は帰るわね」
「……うん」
「さようなら」
手を振り、オレンジ姫は別れを言ってそっと緑の木立の向こうへ消えていく。
僕は思い切り息を吸い、力の限りの大声で叫んだ。
「さよなら! 元気で! 嫌なことがあったら、いつでも戻って来て! 僕はずっと……ずっと……」
君を、待っているから。
翌日、蜜柑畠へ行ったが、やはりそこは無人であった。
次の日もそのまた次の日も、なんだか彼女がそこにいるような気がして足を運んだ。しかしそれは幻想で、二度とオレンジ姫が現れることはない。
僕はそれでも毎日あの山へ登っては、蜜柑を育て続けている。あそこには、僕と彼女の過ごした日々が宿っている気がするのだ。
何年かが経ち、立派な百姓となった今でも蜜柑が実る季節になると、僕は彼女のことを思い出す。
オレンジのように可愛い、あの美しいお姫様のことを。
彼女は今、幸せだろうか。
いいや幸せに決まっている。あの娘は、いつもは凛としていて時に優しい笑みを見せる、そんな少女であり続けていることだろう。
その幸福の中でも、頭の片隅で僕を覚えていてくれていたらいいな。
僕は忘れない。
冷たく追い返されたこと、楽しく喋ったこと、一緒に泣いて笑ってくれたこと。
僕らの甘酸っぱいオレンジの思い出は、永遠に色褪せることはないのだ。
挿絵
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