現状を確認する暇さえない
蓋を空けてみれば、主人公が狂人で全てが妄想だったという小説には二三心当たりがある。例をあげるなら、なんだろう。芥川龍之介の河童だったか、後は、……いやよくある話ではあるのだが。
夢オチは漫画の定番であるし、狸狐に騙されるなんてのも古典も古典だ。したがって、ここは布団の中か病室か、または肥溜めに肩まで浸かっているかとかという話かもしれなくて、最悪砂漠のまん中で蜃気楼を見つめているなんてのもあり得るとして、そう、つまりお手上げだ。
堂馬は頬をおもいっきり引っ張りながら、ここはどこだろう?という自問を一くぎり後退させ、飲み屋からゴミ捨て場で泥酔するまでの経路を順に辿るように、どうやってここへ来た?と問い直した。
なぜ馬車に乗せられることになったか考えるんだ。どんな理由ならあり得るかだ。シンデレラは舞踏会に向かうためにカボチャの馬車に乗ったんだ。
もしや、あの女は魔女ということか。
連続した爆竹の炸裂音に似た音と同時に馬の悲痛な叫びが響き、馬車は何かに乗り上げ、急速に減速する。
堂馬は床に叩きつけられる中で御者が転げ落ちていった気配を感じた。再び、炸裂音が響く中で、馬の大きな肉体を地に伏す音を床から聞き、彼はことが起こっていると察した。
「おいおい何があったんだ?」
這ったまま扉を少し開け、前方に顔を出すと、そこは石橋の上だった。
数メートル先には悶える馬に身を隠した青年が見える。サーベルを腰に携え、青いジャケットと足に密着したズボンを履いた彼の姿は、武装した騎手といった格好だ。
彼は腰に結わえたホルスターから指揮棒ほどの杖を取り出すと、対岸の茂みに向け小杖を空に切る。
「熱砂廟に栄えあれ」
30センチほどの空間の収束が杖の先端で渦を巻き、圧縮の中心に炎の玉が生み出され
「死に晒せ!」
打ち出された。それは茂みに飛び込むと、火の粉を噴き上げる。
「どういうことだよ」と堂馬は呟いていた。無から炎が生じ、ひとりでに飛んでいった。
不思議な話だ。きっと見間違いだ。余りにも現実味がある超常現象が起こった。どうにも天国とか地獄には似つかわしくない光景に見える。
「おい勇者さま」と下から。
「軍服が見えるぜ。こりゃあ、賊じゃない、兵隊だよ」
下を覗くと、縮こまった青い服の御者が「覗くなクソッタレ、さっさと殺されろ!」と堂馬を怒鳴りつけた。
「サンフシス!引き返せ!」
青年が対岸を向いたまま命令する。
「旦那が死ぬこたない!糞の勇者を叩き出しちまおう!」
と御者のサンフシス。青年は振り返る。
「早く馬車を出せ、玉なしめ!」
こいつらも勇者がなんだといいやがる。事故が起きたならまずは人命救助と通報で、喧嘩はその後だろう。火の玉なんて打っているなよ。
堂馬の目の前をさっと馬が駆け抜けた。初老の男が青年を守るように先頭に進んで行く。男の立派な口ひげの横顔と青いジャケットの背中が堂々とした印象を堂馬に与える。彼の身なりは青年や御者と同じ物で彼らが同一つの組織に属していることは明白だった。
「辻馬車強盗でないのなら、文明人らしい態度を示せ!」
初老の男が厳然と言い掛ける。どうやら彼がこのグループのまとめ役らしい。
青年や御者が口を閉じる。
男の言葉を聞いてか、前方の茂、高らかに
「私は指揮を任されたチェシコ・ニシンスキ少尉だ」
と名のりが上がった。
「我々の目的は一つ、皇帝陛下に取り入らんとす山師を排除することだ。単刀直入に、そちらが護送する勇者と名乗る者を引き渡してもらいたい!」
「鹿角党と思えば、皇子の差し金の方であったか」と初老の男。
「少尉となると、特務か」
「勇者様を渡せだと?お断りだアホども!相手になってやる!」
青年は小杖を頭の上で振り回す。少尉は青年を無視する。
「君側を清むが武人の務め、ご理解をお願いしたい」
「チェシコ少尉、貴殿が忠節は我らの血をもって誉れとするか?我々が陛下に忠誠を誓う臣でないなら、貴殿は何者であるのだ?」
「何を持ち出すと思えば、ことに忠節ときては片腹痛い。まずはあなたに、それからその荷にも忠節とはなんたるかと説いてみたいところだが、まずは身柄を引きわたしてもらおうか。話しは」
「この不心得者共、腰抜け共め!貴様は俺の杖にかけてぶちのめしてやる!」
とさらに小杖を頭の上で振り回す青年。
「ガダイ!だまっておれ!」
「先ほどから、よく吠える。少しは牙があるのだろうが、野犬のやり口では程度も知れる」
「お前の首なんぞ赤子でも食らいつけるさ馬鹿野郎!」
「ガダイ!」
「よく分かった、話しにならんのだな。我々はお前の処刑人となろう。背信の血は務めに飾るに相応しい!」
「……言葉を労してなるわけもなかったが、では我らも務めに殉じよう」
初老の警士は剣呑な場においても落ち着いた物腰だった。
それにしても、なぜ誰もが俺の自主性を蚊帳の外に置いているのだろう。土台言葉のキャッチボールが剛速球すぎるのだ。
「俺に説明してくれよ」と堂馬が素直に気持ちを投げ掛ける頃には、対話の雰囲気が終わっていた。
そういえば、さっきの死神は橋とか、川下りとかなんとか言っていた気がする。俺は石造りの橋にいる。手荒い歓迎がどうのとか聞いたような気もする。
つまり、最悪の回答にたどり着いた。そんな予感が堂馬の背中に涌いた。
「今の内に下がるぞ、ガダイ」
初老の警士はそう指示を出してから馬を返し、堂馬へ馬で駆け寄ってくる。
いやいや、相変わらず悲観的だな俺は。なにか銃声めいた音はするけど、玉はまったく飛んできていないし、髭がダンディーなおじさんは頼りになりそうだし、もしかしたら万事がなんやかんや上手いこといくかもしれないし。
初老が一瞬目を見開いた。
「特務武官!?」男の叫びに次ぎ、堂馬の体は弾かれた。馬車が叩き割れるような破裂音と、木片が辺りにばらまかれる橋の上で、堂馬は二度転がった。
「マジでなんなんだ!」
馬車は車輪部以外がすべて吹き飛び、馬車馬達に丸太が突っ込んでいる。
橋の後方へ軌道を辿ると、二本足で立つ大狼が投球姿勢を戻していた。
それは狼の化け物だった。
半透明な蒸気をまとう二メートル半ほどの毛むくじゃらな体つきだ。威嚇するようにむぎだした犬歯と鋭い爪が光を反射している。
堂馬の喉がカラカラに渇いた。彼は大狼の悪意を飲み干してしまった。
「………そんな、ここは天国じゃないのか」
堂馬は赤頭巾の童話を連想した。
人を丸飲みにするというなら、ああいう大きさだ。いうなれば、ここがおとぎ話の世界なんだ。いや、……地獄だ。
「では詐欺師には分不相応なもてなしをしてやろうか!着剣!始祖の名をかたる不届き者に剣鉄の洗礼を!」
堂馬の後方から、声も高らかに一人の尉官が姿を出す。彼はぺしゃんこの軍帽と胸の赤い飾り帯が示す義務を果たさんというように、悠然とサーベルを抜き、橋へ駆け出した。
彼のあとから、詰襟の白い制服を一列に並べたような隊伍が銃剣を突きだして続いていく。
実に頼もしいやり方だ。彼は戦列の一歩前を行くことで己を指揮官足らしめているのだろう。
紛うことなく軍隊の攻撃だった。包み隠さず軍の人間が袋叩きを遂行せんとする様子。前門の虎、後門の狼を地にいった状況、これは挟みうちだ。
強烈な暴力の圧力に相対し、一般人が取れる術はおおよそ二つ限られる。神に祈るか、悪態をつくか。
「おいおい、ここは何なんだよクソッ!?」
「マロソフ、いや勇者様よぉ、早く逃げろよ!殺されたいのか!」
青年はサーベルを抜くと、それを兵士たちに向けた。「時間を稼ぐ。お前はそれでも勇者なんだよ!」
この男は、十数人の兵士たちよりは狼の化け物の方が何とかなるとでも思っているらしいぞ。確かに化け物は一匹しかいないけどな!
青年が馬車に駆け寄り、御者を馬車の下から引っ張り出す。「サンフシス!出てこい!不味いって、ああ、パウグスさん!」
自分の命が狙われているその土壇場にて、堂馬は他人を案じる人間にはなれなかった。
堂馬は落馬していた初老の男に目もくれず、馬車がもと来た道に一人走り出す。
くそっ!やけくそだ!
堂馬はまず大狼の動きに注目した。
隆々と膨らんだ太い手足と狼の猛々しい表情は、距離を縮めて行くほどに凄みを増す。
幸いな事に橋は大狼が手をいっぱいに広げようとも、左右には幅がある。
大狼の横をすり抜けられる瞬間は必ずある、と堂馬は考えた。
大狼から二十メートルほどの所まで近づくと、獲物を狙う鋭い目と、口角の上げた嘲りの笑いが合わさった残酷な表情が堂馬に向けられた。
それは足を一歩踏み出した。
巨体が俊敏な足さばきで距離を詰める様は、壁が迫りくるように思えた。
堂馬が状況を理解するより早く、眼前の様子が獣毛に埋めつくされると、大狼は突き上げる手刀を繰り出している。
腕が冷たい。
それの爪は堂馬の左肘から先を乱暴に切断し、心臓と肺を貫いた。
目を回すほどの強烈な痛みが一瞬肉体を支配し、やがて思考を塗り潰す無が、脳を襲った。
なんだ。これは。
それが巨体の勢いを腕の先に引っ掛かる堂馬へ伝えると、彼は空中へ放られた。
丸太と違い、横回転がかかる体は、馬車にほど近い欄干へ叩きつけられる。
どういうことだ。
堂馬は若い警士と兵隊達のにらみ合いの中に到着し、全ての視線が一身に集まった。
立ち上がろうという努力も虚しく、膝は砕け、欄干に背中をあずける形になった。
シャツが赤く血に染まっていくのがわかる。耳には金属的な冷たい音楽が繰返される。
穴の空いた胸への対処を堂馬は試み、まず、左手の喪失でつまずいた。
注がれる視線が、意志を宿した生物に向ける目ではない、死そのものを見守る色だ。本当に死ぬっていう事は、こういうことなのだろうか。両親や姉はどこへいるんだろう。
まるで世界には他人と自分しかいないみたいに、亀裂が拡がっている。
胸を抑えつけると、心臓が強く反発を繰り返す。
俺は全く追い付けていない。なぜこんなことに、なった。化け物に、死にたくない!
堂馬は訳もわからなず心の中で叫び続けた。
俺に殺されるほどの罪があるのか!生きていたい!
荒木堂馬は二十一歳であった。家電メーカーの研究職の父と大陸の血を引くハーフの母、そして性格の悪い姉の三人が堂馬の家族だった。あまり家庭を気にかけるような父ではかった。母はただただやさしいだけの人だった。
これは走馬灯だ。
堂馬の記憶するもっとも最初の情景は祖父母の家を出た先の畦道だった。姉の背を追いかけたいつかの秋だ。
姉貴はもうとっくの前に死んじまったじゃないか。
彼女の長い結われた髪は昔から人目を惹いた。二つ年上の姉だった。苛烈な女だった。あの鋭い美貌は氷から切り出した彫刻のように人間味が欠如していて、姉貴から他人を慮る機能を欠落させたなにかを感じさせた。
あの家で、姉貴はよく猫を絞め殺すように頼んできた。嫌に人懐こいところが堪にさわるというのだ。
あんなにも愛らしかったというのに、なぜなんだろうか。
ふと、何かが鼻を刺激した。鼻腔が痛み、ガーゼに染み付いた消毒液を思い起こさせる。
心臓が柔らかな暖かさを起こし、僅かな時間の中で体中を包みこむと、去っていった。
熱が体の内に引っ込むと、芯から肉体を縛りつけるような倦怠感が体にのしかかる。意識を眠りへ押し流し、寝台の微睡みが生命と空間を無意味に感じさせる。
なぜだか、死の気配が遠ざかっていたのは確かだった。
堂馬が立ち上がると、彼は欄干にもたれ、回りをただただ見つめた。
どいつもこいつも、仏頂面していやがるよ。俺は、俺は彼女に従うべきなんだろう。天使は川下りをしろと言っていた。
尉官が一番に行動を起こした。彼は青年の横を駆け抜け、構えていたサーベルを堂馬の喉に突き刺した。
サーベルの味はしない。というのが堂馬の感想であった。既に全身から痛みが消え失せており、喉には僅かな異物感しかなかった。
この人は、何故俺にこんな事をするんだ?
堂馬が尉官と目を合わせると、彼の精悍な顔つきに影がさした。死者の目に姿が映るのを、彼は恐ろしく感じたのかもしれない。
「離れやがれ!」
青年が尉官に斬り掛かると、尉官はサーベルを堂馬から引き抜いて受けた。鍔迫り合う間もなく、青年の剣は弾かれ、尉官の蹴りがたたきこまれる。
「青二才が、なめるなよ!」
「くッ!サンフシス、とっとと加勢しろ!」
「ああッ、ええい!ここにも男はいるぞ!」
御者が馬車の残骸から飛びだし、サーベルをめくら滅法振り回して周りを威嚇した。しかし、既に戦闘なる行為をここに見いだす者もいなかった。
一人の兵士がマスケットを逆手に握り、御者を横ざまに撲りつけた。
瞬く間に二人が組み付かれると、何人もの兵士達が堂馬に銃剣を向けて殺到する。
俺の胸に、腹に、続々と刃が刺しこまれていく。あばら骨も内臓も、俺の形をごたごたに混ぜられている。
堂馬は兵士達の顔を一人一人見つめ、そこに女性の姿があることに驚きつつも、その表情が誰しも、恐れの色を見せているのに気付いた。
こんな行為はしたくてしているわけではないんだ。自分を恨まないでほしいとでもいいたげな顔だ。それならこんな残酷なことやめればいいのに。
もう、どうぞ勝手にしてくれ。
堂馬は足にあるかぎりの力をこめ、彼らの押し込む力を上にずらした。
川に落としもらおう。
堂馬は梃子の原理に従うと、人間は空を飛べないという真理を体現した。
目論見通りの着水、そして意外に冷たい水と浅かった川底の歓迎が堂馬の意識を奪った。