第8章 銀色の爪
私は一体、何者なのだろう。
自分が縁切り神だという事だけは、分かる。
それとあと、もうひとつ…もうひとつは、みやと一緒に居ると、言葉に出来ない感情が沸いて来るという事だった。
喜怒哀楽がない交ぜになったような激しいエネルギー。
この感情の正体は一体何なのだろうか…。
夜中、私はひとりで目を覚ました。
ベッドの上では、みやとチビ狐がぐっすり眠っている。
私は眠る事が出来ず、何となく、ぐるりと部屋を見渡した。
ふと、箪笥の上に置いてある写真立てが気になり近づく。
写真立ては伏せられていて気が引けたが、そっと起こした。
「…っ!?」
写真立てを見た瞬間、強い力に圧倒された。
写真自体は、みやと両親らしき人が仲良く写っている、何の変哲も無いものだった。
けれど、この違和感の正体を確かめたくて、私はゆっくりと手をかざす。
「ぐっぅ…!」
大声を出しそうになって、慌てて呼吸を整える。
今私が感じた感情は紛れも無く、怒りだった…。
この怒りは、誰のものなのだろう…?
みやか、両親か、犯人に繋がる誰かか、それとも…。
そう考えていると、紅い光が輝いて、私は強い眠気に襲われた…。
激しい雨に打たれて、私は地面に這いつくばっていた。
起き上がろうともがくが、ぬるりと滑って力が入らず、動く度に赤黒い液体がぼとりと散らばった。
「うぅ…」
喋る事が出来ずに、声にならない呻き声を上げながら、雨空に向かって怒りをぶつける。
身体は黒くドロドロに溶け、もはや原形を留めていない。
ここまでか…。
そう思い、目を閉じようとすると、空から何かが降りて来た。
それは白い、傷だらけの縁切り神だった…。
「何という、酷い姿だ。怒りという感情だけで、かろうじて留まっているのか…。もはやお前は、何者でもない」
ピシャリとそう言い切られ、私は身体を動かして、反抗する。
「うぁぁ…!」
「そのような姿となっても、まだ動こうというのか。良かろう。まだ存在する意志があるならば、己のした事を見よ。下を見るのだ…」
私は土砂が崩れ、ガードレールが壊れている方へ近づき、ゆっくりと下を見る。
そこには…倒れた車と、車の下敷きになった男女の死体があった…。
これを私が、やったというのか…。
「お前は、縁切り神の掟を破り、人の生と死の縁を切った。今は形無き、ただの化け物だ…」
私は懸命に身体を動かし、違うと訴える。
「我の言う事が信じられぬか。思い出してみよ」
私がそんな事をするはずが無い…。
思い出そうとすると、ある子どもの姿が浮かんだ…。
「かみさま、どうか、兄ちゃんとあいつらの縁を切って下さい…!」
初めてその子どもを見た時、ひとりで神社に参りに来るなんて珍しいとは思ったものの、ただ、あぁ、居るなという印象しか抱かなかった。
しかし、その子どもは、何度も何度も来るようになった上、いつも同じ願いを言って帰って行った。
そろそろ願いを叶えるため、縁を切ってあげようかと思ったある日、子どもは泣きながら神社へやって来た。
嫌な予感がする…。
「かみさまっ!かみさまっ!お願いですっ!あいつらが生きてる事が、許せない…!殺してよっ…かみさま…」
正直、参ったなと思った。
私達縁切り神は、人の生と死を切る事は許されていない。
そんな事をすれば縁切り神では居られなくなるだろう…。
私は一瞬迷ったが、そのまま様子を見る事にした。
だが、それがいけなかった…。
数日が経ったある日、また子どもが現れた。
その顔は青ざめていたが、強烈な怒りを感じた。
「かみさま…遅いよ…。兄ちゃん、兄ちゃんが…。あいつらも許せないけど、先生はもっと酷い!あいつは鬼だ。あんなの人間じゃ無い…。だから、殺してよ、かみさま…」
物騒な願いはたくさん見て来たが、子どもの願いは切実だった。
「どうして、そこまで強く願う…?」
「う、うぁぁ!かみさま…?本物…?」
「お前が呼んだんだ。驚くな…」
「う、うん…かみさま、だって酷いんだ。あいつらのせいで兄ちゃんが…。どうしてもっと早く出て来てくれなかったの…?」
「済まない…。私は人間の願いを叶えるのに疲れたんだ。人間の嫌な部分をたくさん見過ぎた…」
「そんな…お願いだよ…。あいつを殺してよ…。かみさまなら、出来るんでしょ?」
子どもの目が真っすぐに向けられる。
「それは、出来ない。私達にも出来る事と、出来ない事がある。それに、怒りに身を任せれば、破滅するのはおまえ自身だ」
「良いよ…。それでも良い!自分がどうなったって、構わないよ!」
私はしばらく目を閉じた後、ゆっくりと、小さな鋏を渡した。
「これは…?何…?」
「それは私の力。半身のような物だ。そんなにその人間の命の縁を切りたいなら、自分でやってみろ…」
「じ、自分で…。分かったよ。ありがとう、かみさま…!」
子どもはそう言うと、鋏を受け取り帰って行った。
小刻みに震える小さな背中を見て、どうせ出来はしないと思ったのだが…。
「どうだ、思い出したか?」
私は雨に打たれて、はっと我に返る。
そうだ、思い出した。
あの子どもは切った。
怒りで自分の心を満たす事と引き換えに、憎くてたまらない相手の命の縁を切った…。
私はもう一度、倒れた車を見る。
その結果がこれなのか…。
「ようやく、思い出したようだな。お前の軽はずみな行動のせいで、子どもは怒りに支配され、そこにいる人間は死んだ」
軽はずみなんかじゃない、悩んだ末の事だったと言おうともがくが、言葉が出ない。
「何者でも無くなった怪物よ…。後悔しているのか、怒っているのか…。このまま消滅させる事も出来るが、機会をやろう…」
白い縁切り神の手から光が放たれると、呼吸が楽になった。
「う…あ…ち、違う…!私は、軽い気持ちで、鋏を渡した訳じゃ無い…」
「そうだとしても、お前は恐れていた。お前の罪は、子どもに力を与えた事では無い。子どもの縁から、目を背けた事だ…」
その言葉に、私は何も言い返す事が出来なかった。
「お前には、見えていたはずだ。子どもの兄が、どれだけ悲惨な目に合っていたかを…」
「そ、その通りだ…。私は、もう、見たくなかったんだ。自分が縁を切った事で、引き裂かれていく関係や、それを喜ぶ人間…。人間の心、縁から逃げていたんだ…」
「自らの罪を認めるのか…」
「あぁ…早く、消してくれ…。もう良い…」
私は全てを諦めて、ぐにゃりと地面に身体を預けた。
「面白い奴だ。我の身体を見るが良い。この身体の傷は、縁を切り続けて出来たものだ。人間の怒りも悲しみも、全てこの身に受けて来た。だが、お前は違う。気が変わった。大いに悩み、人間を理解するが良い…」
すると、突然、身体中に痛みが走った。
ドロドロだった身体が、手足が、形を創っていく。
「うっぐあぁぁ…!」
「どうだ…?まるで生まれ変わっていく気分は…。新たに、名前もやろう…。今日からお前は、紫苑だ」
「紫苑…?」
与えられた名前を口にした時、私の身体は溶けた状態では無くなっていた。
本当に生まれ変わったかのようだ。
「私…私は…」
「今からお前は、これまでの記憶を徐々に失う。子どもの事、罰を受けた事、殺した人間の事、そして我と出会った事も…」
「記憶を?何故だ…?」
ようやく身体を起こした私の問い掛けに、白い縁切り神は静かに首を振った。
私を無視してそのまま続ける。
「しかし、万が一にも思い出す事があれば…人間の縁と真剣に向き合う事があれば…その時、お前は本物の、真の縁切り神となるだろう…」
天に去って行こうとする縁切り神に、私は叫び声を上げる。
「待て!何故生かす!?どうして…どうして名前なんか…」
「それは、己で考えよ。さぁ、時期に、記憶が失われていくぞ。お前に残るのは、紫苑という名前だけだ。人間の縁の中に、己の存在を見つけよ…。それでは去らばだ。我が名は山茶花。すぐに忘れるだろうがな…」
もっと話を聞こうと天に手を向けたが、全身の力が抜けて、目の前が真っ暗になった…。
目を開けると、みやの部屋に居た。
床に倒れた私の傍には、写真立てが転がっていた。
心臓が脈打ち、気が動転した。
そんな、まさか…。
もう一度、ゆっくりと写真を見る。
今のは、私の昔の記憶なのだろうか…。
一体、何故…。
いや、分かっている…本当は、分かっている…。
あの土砂崩れに巻き込まれて、死んだ2人は、この写真に写る、みやの、両親だ…。
私は仰向けになり、両腕で顔を覆う。
何て事だ…。
なら、みやの両親を殺したのは、私ではないか。
子どもに力を貸した、私のせいだ…。
ふらりと起き上がり、写真立てを元の位置に戻す。
みやを助けに来たのに、両親を奪ったのが私だったなんて、なんて滑稽な話だろう。
ベッドの上で、幸せそうに眠るみやの顔を見ると、自分の愚かさに辛くなる…。
今まで一緒に居て、時折感じていた激しい感情の正体は、これだったのかと納得する。
きっと私の身体は、人間の怒りや憎しみという感情で出来ているのだろう…。
特に、あの子どもの強い怒りだ…。
そこで、ふと思った。
あの子どもは誰だろう?
記憶の中ではまだ幼く、ぼんやりとしていて、少年だったか、少女だったかも分からない。
この時の子どもが、みやに対して何らかの恨みを持っているとすれば…。
事件に関係あるどころか、犯人の可能性すらある…。
私は、自分の過去に囚われ、またあの廃屋に逃げてしまいたいと一瞬でも思った事を恥じた。
私が何者だったとしても、みやの両親を殺していたとしても、事件を止めて、みやを助けるという事に変わりは無い。
私は銀色に輝く手甲の付いた拳を固く握りしめる。
すると、伏せた写真立てから紅く、弱い光が現れた。
光は糸のようにするりと伸びると、窓へ向かって行った。
私は音を立てないよう、ゆっくりと窓を開ける。
「…っ!」
思わず息を飲む。
紅い光が、学校の方角へと消えていったからだ。
やはり、犯人は、学校の誰かという事なのだろうか…。
もう少し、もう少しだよ…。
私は、みやの傍まで行き、心の中で誓う。
最初は楠木みやという人間を助けに来た。ただ、それだけだった。
でも、今は違う。
みやを、救いたい。単なる罪滅ぼしじゃない。
私自身の意思で…。
明日になったら、みやに詳しく話を聞こう。
それは、辛い事かもしれないが…。