王子は愛を思い出して
むかしむかしの、といっても数百年くらいの前の時代なのですが。
ある国の貴族学院の卒業パーティーでのことです。
卒業生は皆、これで見納めとなる制服のガウンコートを羽織り、けやき色のマホガニーでできた壇上の一カ所を見つめていました。中心にたつ生徒代表の彼、『王子』の言葉を待つためです。
成績優秀、容姿端麗、金持ちの友人の多い王子は学園で一番の人気者であり、教員や皆の推薦でスピーチを任されました。簡単に挨拶を済ませ、一つゴホンとわざとらしく咳をたてます。
「貴様との婚約を破棄させてもらう、我が婚約者よ!」
皆一様に驚きました。
王子を見ていた卒業生たちはざわつき始め、お互いに顔を見合わせるのです。
「自分が何を言っているのか、ご理解しておりますか王子?」
声をあげたのは、彼に糾弾された『婚約者』の女性でした。
卒業生たちの目の前に陣取る彼女は、壇上に通じる階段を一つ一つ優雅に登りました。淡々と、冷静に、サファイアの色の瞳と、きつい目元をした彼女は、東洋から取り寄せた扇子をパラパラと王子の前で広げ、そう告げます。
彼女は見た目どおりキツイ性格をして近寄り難い印象ですが、それは高位貴族としてほかの生徒の模範であろうとなればこそです。実際そんな彼女の誇り高くあろうとする心構えは、彼女を疎ましく思う王子一派以外の貴族から好意的に受け取られています。特に同性に人気がありました。
それに彼女は常に優雅で、貴族たるものいつ民草の前に出てもいいようにと親の言いつけを守ってきました。彼女だって本当は公爵令嬢である彼女の親と王族が勝手に決めた王子との婚約なんて嫌でした。彼がお堅い自分を苦手なことは幼少期から気付いておりましたし、彼女自身これぽっちも彼の事を好きではなかったのですが、彼を好きなるようにこれまで努めてきました。
なのにこの仕打ちです。
「彼女へ行ってきた非道の数々、まさしく言語道断である!下駄箱の上履きに画びょうを入れたり!彼女の筆箱を職員室の落とし物箱に隠したり、挙句の果てに階段から突き落とそうとしたりな」
「はて、その被害者の彼女とは」
「私の事です!!」
声をあらげ、壇上に上がったのは身分こそ低いですが、いろいろと注目を集めるご令嬢でした。
彼女は可愛らしく、学院に通う令嬢とは思えない天真爛漫さで色々な男性に人気があります。そしてルビー色をしたリスのようなつぶらな瞳は、大勢の男を魅了していました。今はその瞳は大粒の涙をため込み、ウルウルと揺らいでいます。
下位貴族であることに加え、こういうことを外聞に関係なく男性に普段するものですから、同性の貴族からよく反感を買っていました。
その筆頭がある意味では王子の婚約者でした。
といっても、婚約者はこの令嬢に特に何かしたというわけではないです。
令嬢に恋した高位の令息たちの婚約者からの相談、もとい愚痴を何度か聞いて、この令嬢に普段の素行や態度を注意しているうちに、目をつけられてしまったようでした。
そして彼女の方も、婚約者からいつも注意を受けるものですから、怒りが積もりに積もり、王子を奪ってやろうと計画しました。それに王子は身分もいいし、顔も素敵で、金持ちの友人もいっぱいいる。性格はアレだが、まぁ、こいつなら及第点かなと令嬢は考えていました。
この令嬢に、王子も最初は不審がっていましたが、実は王子はいつも自分を見下す態度の婚約者に不満を感じていたり、さびしい思いをしていました。そんな心の隙間に令嬢は付け入ったのです。
令嬢は日に日に王子と交流を重ね、今では愛を囁きあうような関係になっていました。愛する人を奪ってやった優越感に浸り、あとはこ憎たらしい王子の婚約者をいろいろ計画して排除するだけでした。
そして今令嬢は、王子とその取り巻きたちとともに誇らしげにしています。
「私は貴様との婚約を破棄し、そして『彼女』と婚約する!!」
「王子、素敵ですわ!」
「王子、貴方という人は、なんと愚かなのですか…」
王子の宣言に両極端の感想が返ってきました。
壇上近くにいる令嬢の取り巻きの男たちは、ウンウン頷きます。
婚約者を支持する女性達も、そうよそうよと声をあげました。
「はぐらかすな! 貴様というやつはどこまで醜いのだ!私は貴様を許せん!」
「私には身に覚えのない話です。何かの間違いでは?」
「なんと姑息で卑劣な女よ。証拠もすでにあがっている!」
「では、その証拠というのを、一つ一つ出していただきたい。一つ残らず蹴散らして差し上げましょう」
臆せずにいる婚約者に、王子は躊躇しましたが、この婚約者にお灸をすえるため、もう後はどうにでもなれとやけになっていました。
あたりもざわざわと話を始めたり、会場は混沌とし始めました。
「ああ、いいだろう!まずは――」
「俺は君を愛しています。どうか俺と結婚してください!!」
突然でした。
男の大きな声が、会場に響きます。
あたりが静寂に包まれました。
王子は一瞬、え、私のこと?と驚いて、会話を中断して壇上の下を見回しました。するとまばらに立つ卒業生たちの後方に、人だかりが輪を作っているではありませんか。
いったい何だろうと、王子はつま先立ちをして、その方向を見ました。
すると一人の男子学生が、女学生に求婚しているのです。
男子学生は赤い絨毯が敷き詰められた床にひざまずき、女性の手の甲にキスをしていました。
する方もされる方も、顔を絨毯よりも真っ赤にしています。
王子はもうびっくりしてしまいました。
王子だけではありません、婚約者も、令嬢も、卒業生たちも、皆がこのタイミングで告白するのかと驚きと呆れと好奇が混ざった眼差しを、その男に浴びせました。
一方、求婚した彼、ジャンというのですが、気の毒なことに王子たちの話し合いが全く耳に入っていませんでした。それもそのはずで、彼は今、愛する人へのプロポーズでとても緊張していて、周りの声なんて雑音にしか聞こえていないのです。
王子のスピーチが中断したのも、挨拶が終わってパーティーが始まった程度にしか思っていませんでした。
ことのいきさつを語ると、このジャンと婚約者の女性、リアはこれまで学園で一度も目立つ存在ではありません。だからこの二人が学友たちの注目を浴びることになったのは卒業式の今日、この瞬間だけです。
学園の行事で二人が何か表彰されたことはないし、誰かに気にかけられたこともありませんでした。しいていうならリアの「歴史学についての考察」という本の読書感想文が教師の目に留まり、町内会のなんとかという小さい賞に入選して表彰されたくらいです。
ですが人生面白いもので、その教師と仲が良く表彰式の会場設営を手伝っていたジャンと偶然学外で出会い、お互い本が好きだったこともあり意気投合したのが馴れ初めです。
王子達が属する上位貴族とは違い、二人は貴族ですが男爵や準男爵といった身分で、自分の領地もなかったり、実業家の毛が生えた程度の人たちです。実際、家柄も取り立てて目立つことはなく、すべてにおいて真ん中も真ん中の存在です。昔から婚約者がいる方が稀で大体卒業後に行われる舞踏会で彼らは交際相手を見つけます。
上位貴族になれば話は別なのですが、ジャンやリアの家柄なら、親たちはすぐにこの縁談を認めてくれました。
特に、リアの両親は学生のうちに話がまとまりほっとしました。親戚のお嬢さんは、いまだに上位貴族への玉の輿をたくらみ美人だったのに行き遅れなんて話も何度か耳にしていたからです。学園を卒業して本格的に舞踏会に参加するようになれば、引っ込み思案で目立たないうちの娘は壁の花になるかもと不安でした。
ですが、もうその心配もないと両親は大喜び。
彼らの縁談話はどんどん進んでいきます。
ただ、順風満帆というには語弊があって、一つ問題がありました。
ジャンはリアへのプロポーズに2度失敗していたのです。
二人でデートにいったウィンターシーズンのクリスマスの日と、ニューイヤーコンサートに行った日です。特にクリスマスの日は二人でモミの木の下で見つめあったりとお膳立ては完璧だったのに、指輪を出そうとした瞬間学友に見つかったりして、タイミングが完全に死んでいたのです。
――そして、ずるずると求婚が遅れていき、今の今に至ります。
「おいお前。まだ私たちが話をしているのだぞ。急に話をしだすではない!」
「そうよそうよ!」
王子が非難を口にし、令嬢もそれに続きます。
ですが婚約者は思うところがあるのか、ただ黙って二人を見つめていました。
「あ、あの何故今なのでしょうか」
これまで目立つことのなかったリアは、オロオロとあたりを見渡します。
こんなに人に注目されたのは初めての経験でした。
「ここを卒業すれば、貴方と会う機会も減ってしまうからです。それに貴方が舞踏会に出てほかの男とダンスを踊ることなんて、俺には耐えられない」
ジャンは顔を真っ赤にして、そう答えました。
リアは王子たちの婚約破棄の話の最中のことを言ったつもりなのですが、完全にテンパっていたジャンはお互いが学園を去り、会う機会が減ってしまうことだと勘違いしてそう答えました。
「…一度も他の殿方とダンスを踊ってほしくないと言われたことはありませんでした」
「いま打ち明けました。でもずっと心のうちに秘めていたのです。貴方を誰にも渡したくない。世界中の誰にさえ」
「本当に?」
「ええ、神に誓って。どうか私と結婚してください」
もう周りの事なんてガン中になく、ただ真っ直ぐジャンはリアを見ていました。
そして会場に、彼の言葉がどこまでも響いていくのです。
王子達を除いた他の皆の関心は、すでに二人の告白劇に移っていました。卒業生のみならず、今まで黙っていた教員たちさえ固唾をのんで見守っています。
「……私でよければ」
どっと拍手が起こり、歓声があがりました。
黒い角帽がいっせいに空中を舞うのです。これはこの学園の伝統で、本来王子の挨拶の締めとともに行われるはずのものでした。
「実は俺も前から君の事……」
「ねぇ、この際だからいうけど……」
そんな二人の姿を見て、卒業生たちは我先にと告白合戦が始まったようです。
会場の熱気に浮かれていたせいかもしれません。上手くいく者もいれば、上手くいかない者もいました。
ジャンたちに続いて告白した者はもともと婚約者どうしの愛の確認だったり、縁談が進んでいたりする者ばかりで上手くいっていたのですが、後から便乗して、ついでだからとか、記念に告白しようとする者も現れ始め、そういった人たちはまったく相手にされませんでした。
けれど振られた人たちはそれは楽しそうに集まり出して、パーティーで開ける予定の酒樽をさっさと開け始めました。反省会を始めて泣き出したり、それを慰めたり、まさにドンチャン騒ぎです。
「なんなのだこれは…」
王子はその光景を見て、ポツリと呟きました。
名前も知らない、顔も見たこともないあの平凡な二人を、なぜだか見ていられなくなっていました。
まるで、自分達が主役の物語から引き摺り下ろされたような気分なのです。
もう卒業生は自分たちのことを眼中にないのではと王子は不安になりました。実際、王子の予想はあたっていました。皆この祝いの席で痴話げんかなんて聞きたくなかったからです。
それに冷静に考えれば、王子とこれから関わりがあるのは令嬢の取り巻きたちがほとんどで、連絡手段がないこの時代、ほかの貴族たちは一生会う機会もないかもしれません。
王子はだんだん、なんだか自分が酷く滑稽に思えてきました。
先ほどまで自分の婚約者に対する怒りで頭がいっぱいになっていたのに、なぜ自分はこんなにも熱くなっていたのだろうと恥ずかしい気持ちが沸き上がってきました。
理由はすぐに分かりました。
王子には心当たりがありました。
気の強い婚約者に対し、嫉妬させたり、ひどい目に遭わせてやりたいといったひどく黒い感情が心のどこかにあったからです。そしてそれを自覚しました。すくなくとも、今プロポーズしたあの男の子(名前も知らない)のように真摯に婚約者を愛することや思いやることはなかったはずだと記憶しています。
そして自分の怒りのために、この令嬢を義憤の理由に利用していたような気さえします。
現に、例え今の婚約者と無事婚約破棄しても、自由奔放なこの令嬢にいつか嫌気がさすことはなんとなく感じていました。10年後、20年後も彼女を愛し続けられるわけがなかったのです。
王子は自分に酔っていたのです。
王子はチラと婚約者と令嬢を見ます。
二人もバツが悪そうに、こちらを見返してきました。
きっと似た様なことを考えているだろうと、王子にはすぐにわかりました。ルビーとサファイアの瞳が不安の陰りを放っていたからです。
「…話し合いはまた今度にしよう」
王子はくたびれたような声で二人に告げました。
どちらからともなく王子の言葉に頷きます。
「ね、ねぇ…」
別れ際、さっさと一人で壇上から降りる令嬢とは別に、王子の婚約者が彼を引き留めました。
「……なんだい?」
王子の答えに婚約者は黙って、何か考え事をして。
「……いえ、やはりなんでもないわ。ごめんなさい」
悲しそうな顔でそう告げて、階段を下りました。
こうして王子の婚約破棄騒動は、一端の収束を向かえることになります。
後日彼らは、内々に話を進めることでしょう。
◇
王子が外に出ると空は薄暗くなっていました。
彼は白馬の馬車に乗りこみ、寝静まった夕焼けの代わりに青白く輝く夜空を見上げました。そして御者が手綱を握ると馬車はガタガタ揺れて進むのです。
王子は馬車の中で婚約者のことを考えてみることにしました。あのジャンとリアのやりとりが頭の中でずっと反芻していたからです。
そして数刻考えて、ふとあることに考えが及びました。
そういえば。
婚約者のことを考えるのは、もうずっと昔ぶりだったと。
王子は、婚約者の好きな花も、普段聞く音楽も、お気に入りの楽団も、朝何を食べるのかも、今どんな本を読んでいるのかも、最近何にハマっているのかもわかりませんでした。もしかしたら昔尋ねたことがあったかもしれませんが、今はそのことを思い出すこともできませんでした。
それに彼女が笑う所をもう何年も見ていません。普段キツイ目元の彼女ですが、彼女は笑うとすごく可愛いかったことを王子は思い出しました。そしてそれを誰かに見られてはいないかと慌てて扇子で隠そうとするところを愛おしいと思ったはずでした。
(そうだ、あれは6歳の時だった。私は彼女に庭園に咲く花を摘んで花冠を作ってあげたのだ。にこりと恥ずかしそうに受け取る彼女を見て、たとえ政略結婚だとしてもこの人とならずっと一緒にいられると、そう思っていたのに)
確かに出会った時は彼女のことが好きでたまらなかったのに。彼女に好きになってもらえるように努力してきたはずなのに。
どうして今までそのことを忘れていたのだろうかと、どこで間違ってしまったのかと、どうしようもない後悔で王子は涙が溢れてきました。
そしてもうそれは、二度と戻らないかもしれない事実に、王子は言葉にできない悲しい気持ちになりました。きっと彼女との関係は、自分が婚約破棄を宣言するずっと前から、すでに駄目だったのだと王子は悟りました。
(せめてあの二人がこれからも幸福でありますように)
せめてもと、目元を抑えながら、王子は卒業式のあの二人、ジャンとリアの幸福を祈りました。
あの二人を自分と婚約者に見立てて、自分はもうああはなれないけれど、これから幸せになる二人は、健やかでありますようにと心の中で念じました。
随分都合がいいものだなと王子は自嘲して、それでもなお、何かにすがるように祈ったのです。
支柱に吊るされたランタンからの明かりが馬車に影を作り。
彼を乗せた馬車は静々と学園を去っていくのでした。