閑話 『霜月夫婦の日常』
ウチの夫はきっと馬鹿である。未だにネクタイは結べないし、よく弁当を持っていくのを忘れる。出張に出た際にはまったく逆の新幹線に乗って半日無駄にした事さえある。あと靴下と時々するおならもクサイ。まったく最低だ。
「じゃあ行ってくるな!」
「気をつけてね」
洗濯物を取り込んでいる後ろで夫が出勤の挨拶をする。夫は動物学者と獣医を兼業しており、その能力はどうやらこの世界では優秀なものらしい。実のところ、精霊術師だった名残で“言霊の加護”と言う特殊な能力があり、動植物の声を聞くことができるという事であるが。
「ちょっと待て」
玄関の夫が振り向いて首を傾げて見せた。いやいや、馬鹿だけじゃなくドジなのかうちの夫は。
「下はパジャマのまま仕事に行くつもりか?」
「え?」
夫がとぼけた顔のままで上着をめくって下を見る。すると見事に白黒のホルスタイン牛柄のパジャマが顕になった。
「あちゃー…」
「あちゃーじゃない、早く着替える!」
頭をかく夫の尻を叩いて着替えるように催促する。いつもの朝である。ゆっくりと服を着直す夫を見ていると少しだけゲンナリしてしまった。これがかつて世界を救った男なのかと…。
「それじゃあ、行ってくるなぁ」
「うん、行ってらっしゃい」
ゲンナリする事も多々あるが、子供のような笑顔の夫を見ているとこれでも良いかと思えてしまう。彼には周りの人間を幸せにしてしまう何かがあるのだ。
「さて、パートの準備をするか」
家事を一通り終えたのでパートに行く準備をする。背中まで伸びた髪をまとめて一つに結ぶ。
「今日は…パン屋だったか」
いくつかパートを掛け持ちしているが、今日はその内の一つであるパン屋に行く事になっている。夫の収入だけで十分ではあるのだが、平日はこうしてパートタイマーとして働きに出ている。何故パートを掛け持ちしているのかは割愛する。
「出るか」
パン屋の制服を来て家を出る。距離で言うと五キロ程離れた場所にあるが三分ほどで到着するだろう。今日も忙しい一日が始まる。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「120円235円110円300円180円…」ピピピピピピピピピピピピ…
お客さんが会計に持ってきたパンを見てレジを打つ。このレジと言う電気で動く機械はとても便利で画期的で効率的だ。こちらの世界の電気で動く物はとても興味深い。
「う、うわぁ…手元殆ど見てないわよ…これ会計合ってるのかしら……?」
「お客様、ご安心下さいませ。霜月さんはレジ会計をミスしたことがありませんし、私も横で確認していますが間違いはありませんので」
初めて来たという女性に、パン屋の店主である麦家さんが横でニコニコしながら答えた。もちろんだ、このように便利で的確な機械でミスする余地などない。
「1,425円だ」
「は、はい…」
「毎度あり。次の方どうぞ」
このパン屋は客が多い。それだけ人気店であるということだろうが。麦家さんにそれとなく人気ですねと言ってみた事があるが、その時は「霜月さんが来てくれたおかげだよ!」と言われた。まあきっと世辞だろうが…。
「毎度あり。次の方…」
「あ、あの、霜月さん!よければ…食事でもどうでしょうか!」
まただ。たまに異性に食事やデートに誘われる事があり、こういう人間がひっきりなしにやってくる。だが私はあくまで既婚者だ。そのような誘いには乗らない。
「すまないが夫がいるもんでね。お引き取り願えるか。ちなみに会計は960円だ」ピピピピピピ……
「そうでしたか…。あ、はい…」
まだ若さの残る青年が肩を落としてトボトボと歩いて行く。すまないな、私は夫一筋なのだ。
「霜月さんありがとう。今日も助かったよ」
「いえ、またお呼びください」
ピークを過ぎた頃に麦家さんからそう言われた。気がつくともう日が傾きかけていた。
「夕食の支度をするか」
そう呟いてスマホを見ると、夫からメッセージが来ていた。
「何…、今夜は外食に行こうだと…?えーっと、“どこに行く予定だ?”と…」
メッセージを打ち込み返信すると、すぐに返ってきた。もう帰っているのだろうか。
「今日はラーメンか。ふむ、“いいぞ、すぐに帰る”っと…」
私はそう返信するとスマホをポケットに入れて帰路についた。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今日は何の日?ふっふ~ん?」
おどけながら突然にそんな事を言う夫を冷たい目で見返す。いつのテレビのネタをしているのだろうか。
「さぁ、何の日だったかな。わからん」
「むぁじで?今日は霖さんの誕生日でしょうが!!」
そう言われて店のカレンダーを見ると、確かに私の誕生日であった。夫は変な所は抜けているのに、こういう所は抜け目がない。
「誕生日にラーメン屋とはさすが私の夫と言った所だな」
「え?ダメだった??」
語尾にガビーンと付けて露骨にガッカリする夫。そんな私たちの様子を見てラーメン屋店主が声をかけてきた。
「おおっと、言うねぇ霖さん!誕生日ラーメンってのもなかなかオツなもんだぜ?」
「こんなこってりした誕生日は初めてだ」
目の前に出された豚骨ラーメンを見てそんな事を言ってしまった。だがウチの夫はそれ以上うろたえることはなかった。
「結婚して初めて食べに来たのがここのラーメンだっただろ?だから記念にいいかなと思ってね」
「それは私も覚えている。ここは特別な場所だ」
夫の言葉にそう返すと店主がまた話に割って入ってきた。
「かぁーッ!嬉しい事言ってくれるねぇ!よし、八雲、今日は俺の奢りだ。好きなだけ食っていけ!」
「ホント?むぁじか!じゃあ唐揚げと餃子と焼き飯追加で!!」
「あいよぉ!!」
全く気のいい店主である。それに乗っかる夫も夫だが…。
「ふふ…クックック…」
「おお!霖さんが笑ったぞ八雲!」
「めっちゃ笑い方怪しいでしょ!昔からずっとクックックなんだぜ?」
この後私は、夫を目茶苦茶シバいた。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ぐおー…ぐおー…」
「これは起きないな…」
夫は一度寝るとしっかり朝まで眠り続ける。そんな彼の額を指の腹で撫でて、横に寝そべった。
「全く、寝るのは良いが、私は早く子供が欲しいんだぞー」
そう言いながら夫の鼻先をちょいちょいと突くと、「霖さんんん…むにゃ…」と寝言を言っていた。可愛い。この様子だと先程の言葉はもちろん聞こえているわけがないだろう。
だが、今はこんな日常も何となく悪くないなと思ってしまう。
「私は、だらしないアンタでも、ずっと一緒に居たいと思うよ」
そしていつの間にか、一緒に眠っていたのだった。




