鳥屋敷
拙作の原料屋シリーズの短編です。少し不思議なお話であることが分かっていれば、これだけでも問題なく読めるかと思います。
長い廊下を原料屋は歩いていた。ブーツの踵が床を叩くかつかつ、という音だけが、どこまでも響く。窓ひとつ無い白い壁と白い天井に反射した明かりが眩く目を焼いた。この中で唯一色を持つのは自分と、先を歩く男のスーツの黒だけだった。
数歩先を行く男は先程までの軽口をいつの間にか止めて、やや緊張を帯び始めているようだった。もっともその頭部はラッコを模した被り物で阻まれていて、様子は伺えなかったのだが。
「こちらです」
先導していたラッコ男がふいに足を止め、突き当たりの扉を腕で差した。首を傾げるようにして原料屋はその扉を見た。
硝子で出来た扉だった。黒い枠がまるで植物の蔓のように硝子にあしらわれて、洋風のどこか洒落たデザインだ。白まみれのこの空間では奇妙に浮いている。
それは俺も同じか、と原料屋は声に出さず笑った。いつもの書生姿に背負ったつづら、何より風変りなのは顔を覆う和柄の面だろう。ラッコ頭の男を嗤うことも出来ない。
当のラッコは無言で小さく俯いたまま、扉を原料屋に示し続けていた。どことなく怯えているように見えなくもない。どうやらこの先は一人で行けということらしい。男から見えていないのは承知の上で、それでも軽く肩をすくめると、原料屋は扉を押した。
最初に感じたのは空気だった。先程までの完璧にコントロールされたそれと違う、水気を含んだ、しかし決して不快ではない清々しい匂い。顔を上げて原料屋はすぐにその理由に気が付いた。
さながら植物園だ。
天井は遥か高く、硝子越しの本物か、あるいは塗装か映像か、抜けるような空の青さを映している。その青を目指すように幾本もの木々が縦横無尽に伸びていた。扉から続く小路には辛うじてタイルが貼られているものの、その外は黒々とした土だ。土足で構わない、と言われた意味をここに来て理解して、なるほど、と肩に垂れる蔓をつつく。濡れたような濃い緑があどけなくゆらゆら揺れた。
小路を辿れば、そこここに見える鮮やかな花や実が原料屋の目を楽しませた。手入れしていないはずがないと思うものの、伸びて絡んで転んで駆けまわっているような植物たちは、全く自然のままの姿に見える。
遠くでは絶えず生き物の気配がしていて、時折ばさばさと羽ばたくような音が聞こえた。くあくあ、ぴぴぴ、と囀る鳴き声。ふと見上げれば、遥か前方の木の梢を鳥の影が掠める。
数分の短い道程を思いのほか楽しみながら進める足が、ふいにそれまでとは違う開けた場所に辿りついた。
丸く煉瓦の敷かれたそこは、造りは広場にも近く、しかしその様子はまるっきり室内のそれだった。それもあまり片付いていない雑多な部屋だ。中央に敷かれているのは羊毛のラグ、小さな机と椅子を取り囲むようにして、たくさんの物々が肩を寄せ合って並んでいる。
背の高い本棚、低い本棚、地球儀、積み上げられた図鑑、淡い色のクッション、吊るされた世界地図、卵型の文鎮、大きな大きな貝殻、床に広がる写真、豪奢な造りのコンパス、何故かある風見鶏、木製の置時計、そして大小様々の止まり木たち。
まるで秘密基地だ、と原料屋は思った。投げ出されたペンといくつもの書き付けが辛うじて書斎らしさを保っている。
それらの物々の中心で、その女性は机に向かって座っていた。何かを書いているらしい、少し傾いた白のワンピースの背中を、絹糸のような黒髪がさらりと滑る。
声をかけていいものか。一瞬迷った原料屋の心を読んだように、女性は自然な仕草で振り返った。
「誰?」
感情を映さない切れ長の黒い瞳が、原料屋の袴、つづら、面を辿る。
「どうも」
驚いた顔を面の影に隠して、原料屋は小さく首を傾げてみせた。
「ご連絡頂きました、原料屋です」
ああ、と納得したように頷いた顔には瞳同様、何の感慨も浮かんでいない。整った顔にぽつんと浮かぶ彼女の泣きぼくろを、原料屋はちらりと見た。
「遠路はるばる、どうも」
言葉とは裏腹にそっけない仕草で示されたクッションに、遠慮なく膝をついて、原料屋は背中のつづらを降ろした。
「それが俺の仕事ですから」
「そう」
無関心故の滑らかな声に、小さく苦笑しながらつづらを開ける。椅子の背に肘を置いて、女性は見るともなしに原料屋の手元を見ている。
「羽ペンの材料を、と聞いて来たのだけど」
ちらりと面の影で周囲に視線を走らせる。繁る植物に飛び交う鳥。依頼の連絡を受けて以来、ずっと抱いていた疑問を原料屋は口に上らせた。
「何を書くんですか?」
探し当てた白い懐紙を持って顔を上げた原料屋を、女性は色の無い視線でぼんりと見つめ返した。枝葉の落とす影が雑多な机上に模様を描いている。
ちいちい、と鳴きながらそこらを飛んでいた小鳥が、ふいにはたはたと机に降り立った。鮮やかなトルコブルーの尾羽を小さく揺らして、愛らしく小首を傾げて、小さな目が熱心に女性を見上げる。
「彼はだれ、と」
指先で小鳥を撫でた女性の唇が、ふいに小さく呟いた。
「この子は好奇心旺盛だから、見慣れぬあなたに強く興味を抱いている。だあれ? って言っているわ。ねえ、ねえ、このニンゲンは一体何者?ぼくのこと好きになってくれるかしら」
先程までの無表情が嘘のように、彼女の声が小さな子どものように無邪気に言った。さながら跳ね回る小鳥の姿そのままに。
驚いた原料屋の視線の先で、ゆっくりと白い顔が振り返る。
「私は鳥の翻訳家なの」
なるほど、と原料屋は呟いた。
見つめる彼女の視線の先、ゆっくりと開いた白い懐紙には、黒の尾羽が二枚並んでいた。黒々と艶をたたえて羽根軸がすっと背を伸ばしている。
「まさかそんな用途とは思ってもみなかったけれど」
好都合だった、と原料屋が小さく笑う。
「とある取引で手に入れたものです。鳥を連れた旅の商売人で、一羽一羽をきちんと大事にしている男だった。たくさんのものを見て聞いて抱いてきた羽根だ。貴女の語るものにきっと相応しい」
凪いだ瞳で原料屋の声を聞きながら、白い指がそっと優しく尾羽に触れる。つまみあげられ、陽に翳された羽根が、太陽の光線を透かしてキラキラと光った。
見上げる彼女の目がそれを映してきらきらと光るのを、隣で原料屋は見ていた。
代金として原料屋が受け取ったのは幾つかの小さな鳥の頭蓋骨と、鳥達の歌を記した何枚かの書き端だった。
「そんなものでいいの」
「ええ」
訝しげな女性の視線の先で原料屋は頷いた。実際悪くない取引だった。書き端は既に欲しがるだろう相手に当てがある。小鳥の骨の方も、夢見師か薬師か、骨董屋でもいいかもしれない。いずれ無駄になることのない原料だ。
貰った包みをつづらに仕舞おうとして、ふと原料屋は手を止めた。隣で椅子に腰かける彼女の姿をちらりと見る。
白い廊下の先の植物園で、一人っきりで暮らす翻訳家。
つづらの隅の小さな瓶を取り上げる。
「どうぞ」
「……」
「おまけです」
瓶の中のキャンディは丸く、夢を固めたような淡い色をしている。手の中で小瓶を揺すれば、からころ、と甘い音がした。
小さな驚きを瞳に刷いて、女性の柔らかな掌が瓶を受け取る。からんころん、と瓶を揺らして黒い目が細められた。
「ありがとう」
それっきり会話は絶えて、つづらを元通り背負った原料屋は、来た道をゆっくりと辿っていった。細い道は時折曲がりながらゆるゆると扉へと繋がっている。
女性のいた場所から離れてゆくほどに頭上の枝は繁り、小路は少しずつ暗くなっていくようだった。来た時もこうだったのか、原料屋には思い出せなかった。
足元に凝る薄い暗がりを、蹴るようにしてブーツが進む。
ふいに遠くの方で、澄んだ歌声がしたような気がした。あどけなさだけで作られた、少女のような歌声が、途切れ途切れに空に光るのを原料屋は見た。
硝子扉を開けた先は一転して白い光で満ちていて、原料屋は思わず眉を寄せた。背中でぱたんと音を立てて扉が閉まる。
「お疲れ様でした」
原料屋に向かって深々と頭を下げたのは、来た時の案内とは違う、梟頭のスーツだった。もっとも頭を変えられてしまえば、原料屋には誰が誰やら見抜く術はないのだが。
「こちらが謝礼となります」
「どうも」
「くれぐれも今回の仕事はご内密に」
うやうやしく差し出された包みを、原料屋は気のない素振りで受け取った。包んである白布の隙間から、ちらりとこの国の紙幣の柄が見えた。百枚はあるだろうか。咄嗟に視線で測りかけて、けれど原料屋はすぐにそれを懐へ仕舞った。
「こちらが出口となります」
梟が歩き出したので、原料屋は黙ったままそれに従った。白い床に二人の男の影だけが濃く色を落としている。こうして部屋を出てみると空気だけでなく、静寂の種類が全く違うことに原料屋は気が付いた。鳥や植物の気配で満ちていたあの部屋に比べて、ここはあまりにも静かすぎる。息の詰まるような静寂とでもいうのだろうか。
それでも、白い廊下の突き当たり、初めての角を曲がると、少しずつ空気に人の気配が混じり始めた。相変わらず窓はないものの、床には厚い絨毯が敷かれていてブーツの硬質な足音を吸い込む。原料屋は気づかれないように、ふうと小さく息をついた。
「お疲れ様でした」
ふいに先程と同じ台詞を、もっとくだけた調子でスーツが言った。よいせ、と声を上げて被っていた梟頭を脱ぐ。下から出てきたのは黒髪に黒い目の、ごく平凡な顔立ちの、中年の男の顔だ。
「ここまで来ればもういいです。どうぞ、あなたも面を脱がれては」
向けられた掌に小さく首を振る。義務付けられた彼らと違って、己の面は好きでつけているようなものなのだ。
「何故、あの廊下では動物の頭をつけなければならないんですか?」
そうですか、と何故か残念そうに言った男に、代わりという訳ではないのだが、原料屋は軽い調子で尋ねた。
「私らには分かりませんよ。そういう命令だからです。何の意味もないルールだ」
雑な仕草で被り物を脇に抱え直して、男が言った。
「あの社長にも困ったもんです。確かにカンパニイをここまで大きくしたのはあの人かもしれないが、昔の話だ。鳥だ、植物だ、なんて。惚けた人間に権力を持たせていることほど、馬鹿げたことはない」
「なるほど」
うんざりといった声音にどこか面白がるように相槌を打って、ふと原料屋は壁に掛けられた肖像画に気が付いた。白い壁にぽつんと掛けられた四角い絵。初老の女性が描かれている。
纏められた黒髪には半分以上白いものが混じっていて、上等な服の上で重ねられた両手には幾筋もの皺が刻まれている。それでも年齢の割には整った顔で、こちらを見つめるのは切れ長の黒い瞳だ。笑みの欠片もないその瞳の下に、ぽつんと一つ泣きぼくろ。
「あなたも社長のお遊びに付き合わされたんでしょう」
振り向けば、数歩先に立ち止まった男の視線が、肖像画を非難の視線で見つめていた。
「相手をして下さって助かります。ご機嫌取りも大変だ」
「さあ、そうかな」
「え?」
滔々と紡ぐ愚痴をふいに遮られて、男の小さな目が丸くなった。きょとん、と見返すそれを無視して、原料屋はその肖像画を見上げた。
絵の中の厳しい顔。楽しいことなど何一つ知らないというような。そこに植物園の彼女の顔が重なる。白い静寂の廊下に阻まれた先で、植物と鳥だけに囲まれた一人ぼっちの彼女。降り注ぐ陽の中、孤独に満ち足りて微笑っていた彼女。
「現世は夢、夜の夢こそ真、か」
「は?」
喉の奥で笑って、呆気にとられた男の隣をすりぬけて、原料屋は先へと歩き出した。踏み出した一歩を受けて、つづらの中で彼女から受け取った包がかたこと音を立てる。
ふと、遠くで、あどけない澄んだ歌声が響いた気がした。