読書の方向性
物語に限界を感じている。今回で二度目だ。一度目のときには逃げ道があった。先人たちの敷いてくれた、意識の流れだとか即興殴り書きだとかLSD体験記だとかを模倣することができた。さらには自分なりに文章の質感を安定させるやり方もいくつか考えつくことができた。しかしそれらでは不満足に終わった。そのために再び物語に手を出したはずだった。物語を書くためにも自分にマッチしたやり方を模索した。発見はあったと思う。それがここ数ヶ月で崩壊した感じがある。残念とは思わない。普段から残念に思うことが苦手だからその正直な気持ちに従い、逆サイドの正直な気持ちからは逃避ばかりしてきたおかげだ。ただし困っている。今度は行き着く先も自力で考え付かなくてはならない。
書きながら考えることにする。実際手を動かしていると考え事は上手くまとまる傾向にある。テストの設問にしろ人生の岐路にしろ。ペンや消しゴムにはっきりとした形があるのはつまり気持ちの不安定な学生を思ってのことだし、ギターやギターピックが間違っても音だけの存在でないのもそれと同じような理由からだ。父親がよくギターを弾いて歌っていた。僕のようなタイプにはPCがあり、PCは未だに液晶タッチパネルではなく沢山のボタンが付いたキーボードが接続してあってそれで操作する。さらにWordなんか使うよりメモ帳とかNotepadの方がずっと軽いし、どうしても文章がダメなら無料でBrogueを落としてきて無心でプレイ続ければいい。ギターみたいなもんだ。それにNethackはいちいち面倒くさい。僕はどこまでも恵まれている。境遇に恵まれているのだからその点に関して諦めなくてはならない。
一応は読まれることを意識して書いている。緊張感は必要だ。精神的な不安だけでは足りず、肉体的な恐怖だけでもいけない。つまり緊張は覚えながらも余裕をこかなくてはならない。こうして全てを開け広げにしておく。そうすればそちらとこちらとで何かとフェアになるだろう。読書とは読者と筆者とで交わされる拳だ。格闘だ。ちなみに時間の自由が利くぶん読者側が有利。僕は今みたいな書き手としてではなく大人しく読者であるときに、いつもそんな心持で挑んでいるが、かなりの率で筆者に躱されてしまう。ただ敗北していることに気づいていないだけかも……でも最近読んだ本ではかなりいい説教を食らったような気がした。その人曰く、冗談とか言葉遊びをやってる場合じゃないらしい。本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
本題、諦めることについて書くというのはどうだろう。つまり諦めただけ以前よりも一点集中、尖りまくるのだ。まだまだ男らしさみたいなのに憧れている。憧れが消せない。でも日本人の男って、まだ結構な割合で侍なんじゃなかろうか。全員どこかで散りたがってる。僕らは愚かなだけの侍だ。ゆっくりと死んでいく侍だ。とにかく生きてはいるのだ。女性の側は凄いよ。あの人ら、十代半ばくらいで心に城を築いている。僕ら侍はあんとき一体何してた? サッカー? スマブラ? 面白いよな。
特別な文章か、特別じゃなさ過ぎる文章が醸し出す光──後(前または左右上下)光、光輪、光暈、Halo──が引き起こす眩暈。これについてはまだ質感としか冷静な呼び名が無い。これ自体はもちろん素晴らしいのだが、なんとも消化不良。ここまでが前回の懐疑だ。この懐疑によって僕の意識に物語が再来し、そして今、またまた懐疑によって物語に限界を感じている。ニヒリズムに限界を感じている。生活に限界を感じている。二足歩行には、まだ付き合ってられる。多分今度小説でぶつかり合うなら長編小説を書くはめになるだろうが、その考えもちょっと単純だ。単純なことはいいことだ。だが単純過ぎると滑りやすい。それでもいつか取り組むことにはなるだろう。いずれ要る覚悟は早めからしておこう。保険会社が言ってた。保険会社って何でも教えてくれる。美しきスーツ。
書き始める前にどんなことを書こうかいくつか考えてから席に着いたけど、結局何が書けた? そういうことだぞ、俺……**内密に取り交わされる** とにかく方向性はいつか長編小説を書くということだけが決まった。長編小説って一体何文字からそうなんだろう。大人しく読者であるときは何となく分厚くて表紙に気合が入ってたら長編小説だとくらいにしか思っていなかったつけがここで回ってきた。それを打ち返さなくちゃならない。飛び入りで参加したテニス大会は楽しかった。軟式は直感から言って偽物みたいだった。ボールのデザインによるものが大きいと思う。今度は硬式で真剣勝負させてもらいたい。
話が脱線してしまう。そのせいで終われない。どこで終わってもいいし、無責任に放り出してもいいのだけど。その前に話とは何だったか。そうだ、次にすることを考えるのだった。次にすることを考えるって、究極に抽象化した悩みだ。人間が悩むのは実は全部これだけ。NANDゲートやNORゲートみたいなものっていうかNOTゲート的役割を果たすだろう。僕が論理哲学論考の中で一番気にっている項は、『論理関数は本質的な意味で関数ではない』です。さらには青色本の方が泥臭くて大好きだ! 愛してるウィトゲンシュタイン!




