魔法が使えない第三王子、原因は音痴でした。メイドの私が矯正した結果―
最初に思ったのは――
(うわ、この人ほんとに音痴だな)
という、どうでもいい感想だった。
第三王子レオンハルト殿下が魔法の詠唱を失敗した瞬間、訓練場の空気がまた一段冷えた。
火球が出るはずの呪文は、ぱしゅ、と情けない音を立てて霧散する。
「……またか」
「今日はここまでにしておこう」
魔法教師は帳簿を閉じ、最初から期待していなかった顔で立ち去る。
誰も怒らない。叱らない。慰めもしない。
それが一番残酷だと、私は思った。
私は王城の片隅で働く下働き――いや、表向きは「第三王子専属メイド」ということになっている。
名はリリア。年は15歳。
そしてつい三か月前まで、日本で平凡に生きていた元・現代人だ。
トラックも神様も出てこなかった。
ある日、目が覚めたらこの世界にいて、なぜか「魔法が使えない王子の世話係」をやっている。
意味が分からない?
私も分からない。
⸻
レオンハルト殿下は、今年10歳。
王位継承権は形式上残っているが、実質は“外された”存在だ。
理由は単純。
この国では魔法がすべてで、王族は例外なく高位魔法を扱える――はず、だから。
殿下は魔力はある。
理論も理解している。
呪文も暗記している。
それでも、魔法が発動しない。
私は最初、それを「才能の問題」だと思っていた。
⸻
違和感を覚えたのは、厨房だった。
若い魔法兵が、皿洗いをしながら適当な調子で呪文を口ずさんでいた。
言葉はめちゃくちゃ。発音も雑。
それなのに、火はちゃんと点いた。
(……あれ?)
呪文って、そんなに適当でいいんだっけ。
その夜、私は城の廊下で別の魔導師が詠唱を噛むのを見た。
言葉は間違えている。
でも、魔法は正確だった。
(言葉、関係なくない?)
そこまで考えて、昼間の殿下の詠唱が脳裏に浮かんだ。
正確な文法。
完璧な発音。
――致命的なほど、音がズレている。
私は元々、ピアノを少しだけやっていた。
音感が特別良いわけじゃない。
でも「外れてる音」は、嫌でも分かる。
殿下の詠唱は、所々、半音ズレていた。
⸻
「殿下」
次の訓練の日、私は思い切って口を挟んだ。
「呪文、少し変えてみませんか」
「……は?」
魔法教師がいない時間帯を狙った。
殿下は露骨に不機嫌そうな顔をする。
「私は専門家じゃありませんが……その、歌うように、というか」
「馬鹿にしているのか」
声が低くなる。
8歳の少年とは思えない、王族の声だ。
私は一歩も引かなかった。
「じゃあ、見ててください」
私は、あえて無茶苦茶な言葉で呪文を唱える。音だけ合わせて。
次の瞬間。
――火が、出た。
小さく。
でも、はっきりと。
殿下は固まった。
「……今の、何だ」
「たぶん、魔法は“言葉”じゃなくて、“音”です」
沈黙が落ちる。
「殿下、正直に言いますね」
「……何だ」
「音痴です」
殿下は、人生で初めて聞いた顔をした。
⸻
それから始まったのが、音痴矯正のための地獄の特訓だった。
「違う! 今のは合っている!」
「合ってません。半音下です」
「分からない!」
「分からないなら、分かるまでやります」
発声練習。
音階練習。
リズム取り。
魔法訓練場で、王子が「ドレミ」をやらされている光景は異様だった。
「なぜこんな屈辱を……」
「殿下、屈辱は今まで散々味わってきたでしょう」
言った瞬間、しまったと思った。
でも殿下は怒らなかった。
「……確かに」
声が、少しだけ低くなった。
上手くなるのに、二週間かかった。
三日で治るほど、現実は甘くない。
音が合った日も、魔法は出なかった。
声が出る日も、リズムが崩れた。
それでも、殿下は逃げなかった。
逃げられなかったのかもしれない。
初めて「可能性」を見せられてしまったから。
⸻
二週間後、模擬戦。
相手は第二王子の側近候補。
誰も期待していない。
殿下は深く息を吸い――
歌うように、詠唱した。
炎が、正確に、狙った位置に着弾した。
場が凍る。
私は、なぜか笑っていた。
(ああ、これだ)
才能がなかったんじゃない。
世界の説明が、間違っていただけだ。
⸻
――あれから、二十年が経った。
王都の音楽堂は、昔と変わらず天井が高い。
石造りの壁に反響する音を聞きながら、私は端の席に腰を下ろしていた。
招待状には、ただ一行。
『新魔法体系の完成披露に立ち会ってほしい』
差出人の名前を見たとき、胸が一度だけ跳ねたが、すぐに平静を装った。
今さらだ。もう、私はあの城の人間ではない。
やがて、拍手が起きる。
壇上に立った男は、背が伸び、声も低くなっていた。
だが――音だけは、昔と同じだ。
よく通る、澄んだ声。
音程を一切外さない、安定した響き。
彼は詠唱を始める。
呪文ではない。歌だ。
旋律が広がり、魔力が共鳴する。
空間そのものが、ひとつの和音になる。
歴代最強。
誰かがそう囁いた。
演奏――いや、魔法が終わると、彼は一度、深く息を吸った。
そして、視線がこちらに向く。
逃げ場はなかった。
彼は壇を降り、人混みをかき分け、まっすぐ私の前に立った。
「……やっと見つけた」
昔と違い、声は落ち着いている。
けれど、その目だけが、子どもの頃のままだ。
「約束はしていなかったな」
そう言って、彼は小さく笑う。
「だから、確認しに来た」
片膝をつく。
どよめきが起きるが、彼は気にしない。
「俺はもう、一人で歌える」
「誰の指示もいらない」
「誰の声に合わせなくても、魔法は完成する」
一拍置いて。
「それでも」
視線が、私を離さない。
「最初に、俺の音を信じた人と一緒に生きたい」
静まり返る音楽堂で、私は息を吐いた。
「……遅すぎますよ、殿下」
「そうだな」
即答だった。
「二十年分、謝る時間はある」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「では、まずは――」
「ええ」
私は手を差し出す。
「もう一度、発声練習からですね」
彼は、昔と同じように困った顔をしてから、
それでも、迷いなく私の手を取った。




