顔も名もない
絶望しても、生きたい。
そんなあなたへ。
夕闇の中、私はベランダでタバコを吸っていた。
「それはあなたを殺します」
声の方を見降ろすと、知らない男が立っていた。
「はい?」
咥えていたタバコを口から外して私は言った。
男は私のタバコを指さした。
ああ、と私はふっと笑う。
「私、消えたいの」
タバコを口に戻し、深く吸い込んでゆっくり煙を吐いた。
顔も名もないその男は足音なく階段をあがってきて、私は男をアパートにあげた。
男は私からタバコを取り上げると、かわりに鶏をくれた。
私と男はそのローストチキンを一心に手掴みでむさぼった。
丸焼きのそれは温かく、まだ鼓動を打ち、血が通っているかのようだ。
私は割れたガラスの破片を踏んだ。
破片を引き抜き、容赦なく流れ出る赤い液体をただ眺めた。
少し離れたところでじっとしていた男は、静かに近づいてくると、止血をした。
男は必ず餌を持って来るので、毎度家に入れた。
男は見返りを求めず私に餌を与え続けた。
骨と皮だった私の体は肉を蓄えるようになった。
肌がつっぱって、内臓が圧迫されている。
脂肪の詰まった腹を見下ろしていると私はふと気が付いた。
私は消えたいのではない。
私は生きたい。ただし、ほかの誰でもなく、私として。
それを許す世界が現れるまで、私は待つ。
夕闇に来る男と餌をほお張り、血を作り、息を続ける。
紅潮した頬を男がなでた。
生きづらくても、生きたい。自分を愛してあげたい。これをテーマに少し書きました。




