表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

どうして書けなくなってしまうのか? 面白いつまらない以前の段階で止まってしまうもやもや感について

作者: 笠原久

 さて「面白いつまらない以前の段階」とはなんでありましょうか? これを聞いてピンとこない人もいるかもしれません。別に難しい話ではなく「知らない作品は評価できない」という、ごく当たり前の話です。


 例えば、私はスタン・ゲッツの『スウィート・レイン』というアルバムが好きで、今でも時々聴いています。では、このアルバムを聴いたことのない人がこの作品を評価できるでしょうか?


 もちろん不可能です。なにせ聴いたことがないのですから。知らないアルバムについて、名作か駄作かを判断することなどできようはずがありません。


 これは何も音楽に限った話ではなく、小説でも漫画でもゲームでも映画でもなんでもそうです。作品というものは鑑賞されて、初めて良し悪しがわかるようにできています。裏返せば鑑賞されない作品は、傑作かどうか永遠にわからないままです。


 私の言う「面白いつまらない以前の段階」というのも、要は鑑賞されていない段階――つまり読者に読まれていない状態で止まってしまうことを指します。


 カクヨムだったり小説家になろうだったり……いずれかの小説投稿サイトに作品を出すものの、まともに読まれないまま終わってしまい、結局のところその作品が面白かったのかつまらなかったのか、わからないまま……。


 書き手としてはなかなかモヤモヤする状態です。むろん丹精込めて作った作品を「つまらない」と評されればショックなわけですが、それでも「この作品は受けが悪かった」という情報を得ることができます。反省点を次に活かすこともできるでしょう。


 しかし、それ以前の段階――面白いのかつまらないのかよくわからないまま終わってしまうと、これは結局どうだったんだ? というもやもや感だけが残ります。


     ◇


 いわゆる評論家や批評家というのは、現代だと要らない扱いされることもありますが、書き手としてはいてくれたほうがよいのだな、とひしひしと感じます。


 もちろん丸谷才一が書評について語った三つの役割――第一に本を買う、選ぶ際の参考になる。第二に紹介と要約によって本の概要がわかる。第三に書評家の語り口や趣向といった藝によって読者を楽しませる(以上、丸谷才一『いろんな色のインクで』参照)――こういった役目もあります。


 また、丸谷才一は同書でこうも語っています(引用は『いろんな色のインクで』)。


――――――――

 書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。それじゃあ素人同士だって同じじゃないかといわれるかもしれませんが、その場合には、友だちなんだから手紙以前に友好関係が確立しているわけです。好みもわかるし、気質もわかる。何よりも、相手を信用している。ところが書評というものはたんに文章だけで友好関係、つまり信頼感を確立しなきゃならない。それは大変なことなんですよ。その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんものの書評家なんですね。

――――――――


「本好きに出す手紙」とは言い得て妙だし、読み手の立場からすれば何も間違っていません。強いて言うなら、批評の場合は新しい読みの可能性を見せる……といった要素も含まれるでしょうが、これらはすべて読む側にとっての視点です。


 書評・評論・批評といったものの存在意義が語られる時、だいたいは読み手にとってどういう利点があるかばかりが言われがちで、書き手側にとっての存在意義はあまり語られません。


 書き手側からすると、やはりもやもや感の軽減が一番の利点ではないでしょうか。面白いのかつまらなかったのか、書評や評論といった形で白黒つけられるという点が書き手側にとっての魅力でしょう。


     ◇


 評論家や批評家の行なった評価と、一般の人の評価がズレる場合がしばしばある。この事実をもって、評論家や批評家など不要だと語られることがある。しかしズレに関してはある程度、仕方がないと言える。


 なにせ普通の人は厖大な作品を鑑賞したうえでの比較なんぞいちいちしない。その点でどうしてもズレてしまう。


 例えば、私は上でスタン・ゲッツの『スウィート・レイン』を好きなアルバムに挙げた。けれど、ではソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』と比べたらどうなのか?


 マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』は? ソニー・クラークの『クール・ストラッティン』は? ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』やズート・シムズの『ダウン・ホーム』、ウェス・モンゴメリーの『フルハウス』といった諸作品を聴いたうえで「やっぱり『スウィート・レイン』はいいアルバムだ」となるのか?


 あるいはスタン・ゲッツの別アルバムと比べたらどうなるだろう? ボサ・ノヴァを取り入れグラミー賞も受賞した『ゲッツ/ジルベルト』は? ライブ盤の『スタン・ゲッツ・アット・ストーリーヴィル』や『スタン・ゲッツ・アンド・J.J.ジョンソン・アット・ジ・オペラ・ハウス』、『スタン・ゲッツ・アット・ザ・シュライン』と比較すると?


 ゲッツはこれ以外にもたくさんのアルバムを吹き込んでいる。それらと聴き比べたうえで、やっぱり『スウィート・レイン』はいいアルバムだ、となるのか?


 私にとっては変わらず好きなアルバムだけれど、人によっては答えも変わるだろう。聴いたことのあるアルバムが多ければ多いほど比較対象が増えて、『スウィート・レイン』という作品の立ち位置も変化する。


 これは以前にも引用したことがあるけれど、T・S・エリオットが「宗教と文学」でこんなことを語っている(引用は矢本貞幹訳の『文芸批評論』から)。


――――――――

 いくらか文学的感受性をそなえた人なら誰でもその青年時代にした読書を考えて見よ。詩の魅力を少しでも感じる人ならば、男でも女でも、ひとりの詩人の作品にすっかり心を奪われていた青春のひとときを想い起こすにちがいない。その人はきっと次ぎから次ぎへ数人の詩人に心を奪われていたことだろう。こういう一時的な熱狂がどうして起こるか、それは詩の感受性が壮年期より青年期に鋭敏だというだけではない。実は洪水のようなもので、未熟な個性の中へより強い詩人の個性が侵入するのである。あまり本を読んだことのない人には、おなじことが年をとってから起こるかも知れない。ひとりの作家がしばらく間われわれの心をまったく独占し、ついで他の作家が占領し、そうしてしまいにはわれわれの心の中で作家たちがたがいに影響し始める。あの作家とこの作家とを比較計量して見て、それぞれが他に欠けているよい性質、しかもほかのとは調和しないちがった性質を持っていることがわかる、とこの時じっさい批評的になりはじめたのだ。こうして批判力が成長するにつれて、ひとりの文学者の個性によって心を専有されることがなくなってゆく。よい批評家――皆が批評家になるように努めなければならない、批評を新聞の書評屋にまかせておいてはいけないのだ――とは鋭い、持続性のある感受性と、識別力を増してゆく広い読書的知識とをあわせ持つ人である。読書範囲が広いことも、一種のため込みとか知識の積みかさねとか時々ひとが使う「もの知り」とかいう意味では、価値がない。次ぎ次ぎに力強い個性から影響を受ける途上で、どれか一つまたは少数の個性だけに支配されなくなるから、価値があるのだ。

――――――――


 エリオットは詩について語っているが、これは小説、音楽、アニメ、漫画、ゲームといったほかのジャンルでも当てはまる。ふれてきた作品の数が多いほど、比較によって良し悪しをはかる基準が変化していく。


 ただ、エリオットは「皆が批評家になるように努めなければならない」と言っているが、これは非現実的だ。大量の作品にふれようとする時点で、その人物は一般の枠組みから逸脱している。


 普通の人は、たくさんの作品を鑑賞しようとはしない。気になった作品だけ見る。そこが批評家や評論家との決定的な違いだ。AとBとCとDと……という具合に際限なく様々な作品と比べたうえで結論を出しているわけではない。


 だからズレる。上の例で言えば『スウィート・レイン』というアルバムしか聴いたことのない人は、どれが一番いいかを選ぶことができない。なぜなら『スウィート・レイン』しか知らないから。


 だが、もしロリンズの『サキソフォン・コロッサス』を聴いたことがあれば、二枚のうち、どちらがよりいいアルバムかを判断することができる。


 マイルスの『カインド・オブ・ブルー』も聴いたことがあるなら三枚から、『クール・ストラッティン』も聴いたことがあるなら四枚のアルバムから、どれが一番いい作品かを選ぶことができる。


 一〇〇枚、二〇〇枚、一〇〇〇枚、二〇〇〇枚……と多くの作品を鑑賞できれば、それだけ精度は上がっていく。むろん個々人の好みというのはどこまで行ってもついて回る問題だ。全員が全員、同じ評価に落ち着くわけではない。


 マイルスの『カインド・オブ・ブルー』は歴史的名盤とされていて、私自身は結構好きなアルバムだけれど、例えばジャズ評論家の後藤雅洋はマイルス自身の言葉を引きつつこう言っている(引用は『新ジャズの名演・名盤』)。


――――――――

 ところで、マイルスの自叙伝にはいろいろと興味深い音楽的内幕が描かれているが、やはりそうだったのかというところがいくつかあった。たとえば、世間でジャズ史的名演といわれる『カインド・オブ・ブルー』を僕は今まで面白いと思ったことはなかった。よくできているのはわかるが、ジャズ的躍動感がとぼしく、何か理に走ったスタティックな音楽という印象が強い。

 このアルバムについてのマイルス自身の考えはというと、何と彼はこれを失敗作と断じているのだ。特に退屈してしまいがちだった「オール・ブルース」を、彼自身が「そこでオレがやろうとしたことは、完全な失敗だった」と言っているくだりを読んで、なるほどと納得したものだった。

 本人が言っているからといって、それを錦の御旗にするのもどうかと思うが、マイルスのような、自分の音楽に対する冷徹な眼をもっている人物の発言は、それなりに信用してもよいのではなかろうか。

――――――――


 とはいえ『カインド・オブ・ブルー』は名盤であるという評価が固まっている。上記の意見が少数派であることは否めない。こういったズレが生じるため、やはり一人二人ではなく大勢の批評家・評論家が必要であり、彼らが作品を鑑賞することによって評価が定まっていくと言える。


 作品の評価を定めるという行為は、批評や評論なくして成立しない。なにせ批評家や評論家でない普通の人たちは、エリオットの言う「どれか一つまたは少数の個性だけに支配されなくなる」ほど大量の作品を鑑賞したりしないからだ。


     ◇


 アマチュアとはいえ作品を作っている側からすると、やはり読者の反応というのは確認したい。しかし、一般ユーザーは批評家ではない。エリオットの言葉を借りれば「どれか一つまたは少数の個性だけに支配され」た受け手だ。


 書き手側として歯がゆいのは、そもそもこのユーザーはどの個性に支配されているのかが見えないことだ。それこそ自身の読書遍歴について――例えば私個人の読書歴や大雑把な嗜好は『私的ファンタジー史』やそれ以外の論考と題したメモ類を読めばなんとなくわかると思う――を開示してくれれば、ある程度の参考にはなる。


 けれど、そんな面倒なことをやっている人は普通いない。結局、書き手側は読んだ人間がどのような「個性」に支配されているのかよくわからないまま……。


 とはいえ、これはまともに読まれていればの話であって、それ以前の段階で止まっていると本当にどうしようもない。


 ネット上……に限らず、小説の書き方本でも「冒頭で読者の興味を引け」と大抵は書いてある。けれど、これも冒頭部分だけは必ず読んでもらえるという前提があって初めて成立することだ。書き出し部分すらまともに読んでもらえていない状態では意味のないアドバイスと化す。


 タイトルで読者を惹きつける――というのは正論だけれど、同時にそれができたら誰も苦労はしない、の典型例でもある。そう簡単に人目を引くような魅力的なタイトルは作れない。


 さらに言ってしまえば、カクヨムにせよ小説家になろうにせよ、半会員制のサイトだという問題もある。これも以前に書いたことだが、半会員制であるがゆえに読むだけならアカウント不要でできてしまう。


 しかも投稿者側からは読んでいる人が会員か非会員かの区別がつかない。ブックマークやお気に入りなど、なんらかの反応ができるのは会員に限定される。しかし投稿者側はそれを把握できない。


 反応がないのはつまらないからか、それとも非会員だから面白かろうとつまらなかろうと、なんのリアクションもできないだけなのか? 非会員なら反応がないのは当たり前だ。会員でもいわゆる読み専で普段はなんの反応もしない、なんて人もいるかもしれない。だが、投稿者側はそれらを把握できないため、無反応の場合は苦悩することになる。


     ◇


 読まれていない状態は、書き手側にとって決着がついていないような印象を与えてしまう。多くの人間に読まれたうえで――それこそ、例えばカクヨムのランキングトップに君臨する『転移したら山の中だった。反動で強さよりも快適さを選びました。』は、とんでもない数の人間に読まれている。


 この文章を書いている時点で、第一話のPVが一七二万を超えている。もちろん第十話のPVは七二万であり、二十話で六三万に、三十話で五八万にとどんどん減っていく。が、それでもすさまじい数だ。これほどの人数に読まれたなら、決着がついた――つまり面白いのかつまらないのかははっきりするだろう。


 といっても何十万という人間に読まれていても、うまく面白さが伝わっていないパターンもあるから難しいところだ。それこそ『鬼滅の刃』は二億二〇〇〇万部という、バグった数値のような売上を叩き出している。


 だが、この作品は(これも以前に書いたことだが)アニメ化前の売上はそれほどでもなかった。それほどでもないと言ったって、四五〇万部も売れていたのだから十分な人気作ではある。しかし、二億部超えというデタラメな数字と比べると物足りない。


 どうしてこんな差がついたのか? もちろんこれは読んでいる人間の数が少なかった……より厳密に言えば、面白いと思う人のところまで届いていなかった、ということでもある。


 上でさんざん語ったとおり、面白いかどうかは実際に作品を読んでみなければわからない。読んでいなかった人たちは、そもそも『鬼滅の刃』が面白いのかつまらないのかの判断自体ができていなかったわけだ。


 しかしアニメ化によって知名度が跳ね上がり、内容を知る人間が増えた。結果、「この漫画は面白い」となる人が続出した……しかし、天下の週刊少年ジャンプに連載していたにもかかわらず、面白いと思う人たちの大半に読まれていなかった――というのはなかなかグロテスクな事実だ。


 それはつまり、二億部以上を売り上げるような作品を作り上げても、うまく知名度を上げなければ売上がまったく振るわない、という事態もありえるということ。


 とはいえ、作者という立場からすれば数十万の人間に読まれていれば決着――すなわち面白いかつまらないかの判定は下された気分になれる。問題は、そんな数の人間が私の小説を読むことなどない、ということだ。


 だからこそ、もやもや感につながる。この作品は結局どうだったのか? 面白かったのか? つまらなかったのか? 決着がつけられないまま宙ぶらりんで放置して、それでも次に進まなければならないという苦痛。


 実害がないならまだいいが、現実には執筆速度という点で多大な影響を与えている。新しい作品を書かなければ読まれないが、そうやって書いた作品が増えれば増えるほど、決着のつかないまま放置された作品だらけになってしまい、新しい小説を書こうとすると「結局アレはどうだったんだろう……?」と気になって筆が止まる。


 執筆するうえで、一番の大敵は迷いだ。この作品はつまらないんじゃないか、そもそもまた読まれない=面白いのかつまらないのかわからないまま終わるんじゃないか、という疑惑に囚われた瞬間、速度が落ちる。


 最初のうちは二〇〇〇字、三〇〇〇字とぽんぽん書けていたのにどんどん書くのが遅くなる――というか私の場合、本当に迷いなく快調なら一日一万字近くは書ける。


 実際『追放ざまぁされる無能パーティのリーダーに転生してしまったんだが、なんで追放直後に記憶が戻るんですかね……』という長い題の短篇を書いたときは、一日で九〇〇〇字近くを書いていた。


 もちろんこれは本当に調子がよかったからで、日常的にこのペースで書けるかといったら大いに疑問が残る……というか無理だろうが、それでも迷いのあるなしはだいぶ大きい。


 書いても結局読まれないのではないかと疑った瞬間、うーん……となってしまって書けなくなる。別の作品を書いたほうがいいんじゃないか? ほかにも書きたいネタはあるわけだし……などとなってしまう。


 小説は書くのに時間がかかる。これは結構な問題で、なにか面白そうなネタを思いついたからといって、じゃあ書くか、とはならない。日に五千字ペースで書いたとしても、十万字を書き切るのに二十日かかる。半分の二五〇〇字なら四十日、一日に一〇〇〇字ペースなら一〇〇日もかかる。


 これが十万字ではなく、百万字とか二百万字とかの超大作を書く場合はさらなる期間が必要になる。人気があるならいい。だが、ない場合は面白いのか面白くないのかよくわからないまま、年単位で作品を書き続けることになる……。


 決着がつかない、というのはとんでもないノイズだ。面白いのか面白くないのかがはっきりしないから、仕方ないけど打ち切りに……という判断もしづらい。少なくとも作者本人は面白い作品だと思って書いているわけだし、できることなら完結まできっちり書きたい。


 これが大勢の人間に読まれたうえで「これ、つまらないよ」と言われるなら、まだあきらめもつく。が、そうじゃないならどうしたものかと困ってしまう。


     ◇


 個人的に一番困る……というか執筆速度を遅らせる最大の要因は、別作品の構想が頭に浮かんでしまうことだ。構想というか、書き出しだけだったり大雑把なネタ(まとまりのないキャラや設定の塊)とかが頭に浮かんでしまってそっちに気を取られる。


 人気が出てりゃ「いやいや今こっち書いてんだから……」と抑えることもできようが、全然読まれてないと「もういっそこっちを書いたほうがいいんじゃないか?」となって気になる。


 しかし気になるだけで、結局のところどうせ書いても読まれなくて決着つかないんだろうなぁ……と思うと、書く気も萎えるという悪循環。


 そういえば昔、片っ端から作品を書いて人気が出たら連載します、みたいなのが問題視されたことがあったけれど(今もあるかは知らない)、そういう意味では合理的というか当然の帰結なのかもしれない。


 現実問題として延々読まれない作品を書き続けるのは精神に来るし、そもそも書いていると上記のような新しいネタが出てきて大変困る。そっち書いてみたほうがいいんじゃないかって。


 実際、今書いている改題予定の作品(たぶん『陰陽剣潭トーカ』とかそういう感じになりそうだけど、もっといい題があるんじゃないかとか迷い中)なんか、まさしく頭の中で新しい作品が、しかも二つも響き合っているからうるさくてしゃーない。


 おまけにどっちもまじめに書いたら長くなりそうだから、うっかり書き始めたら完結まで馬鹿みたいに時間がかかる。


 そもそもプロットもまともにできてないんだから書く前の準備段階で時間が……。ひとつは書き出しだけだし、もうひとつは大雑把なキャラや設定が漠然とあるだけでまとまりがない。


 でもなんか「どうせ新しいタイトルをどうするか決まらなくて実質休止状態なんだから書いちまえよ」「最初のほうで中断しちまおうがとりあえず書いてスッキリしちまえ」という心もある。


 そもそも執筆したところで、またぞろ読まれないんだから別に最初のほうだけ書いて更新停止、みたいな状態になっても問題ないんじゃないかという気もしてしまう……。いや、もうやっぱり書いてしまうか。


 読まれるかどうかも含めて、とりあえず新作の構想があってそっちに気を取られて執筆が進まないなら、何も考えずに書いて載せてしまったほうがいいのかもしれない。読まれないなら読まれないで「ほらやっぱり読まれなかった」とすっきりするだろうし。


 というより、いっそ複数同時並行で書いて、Aがいまいち筆が乗らないなとなったらBを、Bがいまいちなら今度はCを、CがいまいちならAを……みたいにやったほうがましな可能性。やったことないから余計に未完結を増やすだけのリスクもあるが。


 読まれない問題は解決不能であっても、執筆を鈍らせる要素は減らせるだけ減らしたほうがいい。そう考えるなら、いったん書いてすっきりしてしまったほうがよいのだろう。


 これで面白いつまらない以前の段階で止まってしまうもやもや感の解決策も思い浮かべばいいけれど、残念ながらこれは個人レベルでどうにかできることではない。そちらについては諦めるほかないだろう……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ