第6章-2
ヘイレンはシェラとモントレアの夜市を楽しみ、召喚士の集う屋敷の一部屋で泥のように眠った。次に目が覚めた時には外は明るく、陽は都を見下ろしていた。
「おはよう、ヘイレン。……いや、おそよう」
飛び起きたヘイレンに優しくシェラが挨拶する。よく眠ってたね、と笑う召喚士。慌てて身支度しようとするも、なぜか身体が重くて動きが鈍かった。壁を作る魔法の反動が、思った以上に大きかったようだ。
「身体痛い……」
ヘイレンは嘆きながら、なんとかテーブルまで行き着いた。どさっと椅子に座ると、シェラがそっとコップを差し出してきた。緑茶のような色をした液体が入っていたが、湯気は出ていない。
ありがとう、とお礼を言って手に取って口を近づける。緑茶はほのかに良い香りがしたが、これは何も香ってこない。……なんだろこれ?思わずもっとしっかり嗅いでみてしまう。
「……なんの香りもしないけど、これなに?」
シェラに聞いたが、すぐには答えず黙って微笑むだけだった。恐るおそる口にすると、スッキリとしていて甘くて美味しかった。そして徐々に身体の内側から温まり、不思議と重たさが消えていった。
「エーテルっていう、魔導士には欠かせない薬。魔力を使い果たす前に飲むもので、失った魔力を取り戻す効果があるんだ。力を全部失った状態でも効くけど」
「なんだろう……身体が軽くなった……気がする」
「よかった、ちゃんと効いたみたいで。稀にこれでは回復しないヒトもいるから」
ヘイレンはエーテルを少しずつ、ゆっくり味わった。因みに一気飲みしても問題ないらしい。いくらでも飲めてしまえそうだが、シェラ曰く『用法容量を守って服用すること』だそうだ。
昼食をとり一息ついたところで、ヘイレンは今日も修行をこなしていく。集中力が少しずつ長く保てるようになり、魔力も溜まりやすくなっていた。そして、ヘイレンの上半身を覆うほどの大きさの壁が容易に作れるようにまで、魔力をコントロールできるようになった。
くたびれて戻ってくるヘイレンを、シェラは「お疲れ様」と声をかける。エーテルをわたすと、彼は美味しそうに飲んだ。……一応薬なのだが、甘味が気に入ったようだ。
「もう修行しなくても大丈夫だと思う。あとはどこまで敵に通用するかだな……」
わざわざ敵に遭って試すのは気が引けるのでやらないが、ヘイレンもそうだね、と控えめに答えた。最大の敵はバルドだ。里を襲って以来音沙汰がないが、きっとどこかで鳴りを潜めているはずだ。
そういえば、とヘイレンが何か思い出した。レントさんが言ってたんだけど、と空になったエーテルの容器をゴミ箱に入れながら話す。
「シノの里へ出かける前、バルドに対して『眼を見なきゃいいんだろ?』って言ってたけど、本当にそんなのであいつの術を回避できるのかなぁ?」
あの時は、シェラがふらふらになりながら合流してきたので突っ込めなかったのだが、今更ながら気になってしまった。眼ねぇ……とシェラも興味深く呟く。
「赤い光を見たり当たったりするとダメ、という単純な術で、僕の魔力をごっそり取ったりおとなを瞬殺したりできるのは、些か信じ難いけどな……」
うん、と互いに頷く。バルドは片側が赤眼のオッドアイだ。つまりはアルスと同族である。アルスは闇を取り込む力を持っているが、バルドはそれ以上にどんなものでも取り込めてしまう強靭な身体を得てしまっている。長年取り込み続けたが故、なのか。
「もし本当に赤い光を直視しない、身に受けないように避けるだけでいいのなら、だいぶ心の余裕ができる……かもしれない」
「怯え過ぎないですむかもね」
うん、と再び互いに頷いた。願わくばもう交えたくないのだが、そのいつかが来た暁には、ここで話したことを思い出して挑もう。シェラもヘイレンも、腹を括った。
そしてその「いつか」は、風の国ヴェントル領内の、トア・ル森北部にあるライファス遺跡を更に北へ向かおうかとしていた矢先に訪れた。
以前レム(レムレス)が未踏の地を旅した際に訪れた森へ行ってみることになり、フラメア村から物資を求めてモントレアに戻ってきた彼に道と場所を教えてもらっていた。
「ライファス遺跡から開けた草原に出るまでの獣道を作っておいたから、そこを辿っていくといいよ。……残ってたらの話だけど」
「そうか、レムしか歩いてないと消えてる可能性があるのか……」
一瞬シェラの顔が曇ったが、レムは手をひらひらさせながら大丈夫でしょ、と笑った。
「あの監視塔あるでしょ、あれ登ったら草原が見えるから、確認してから行くといいよ」
「あの塔登るの!?」
「自分の足で行かなくても助っトがいるじゃん。ヒトじゃなくてキツネちゃんが」
ああ、と氷河召喚士は苦笑した。レムの言い方がおかしかったらしく、ヘイレンはくすりと笑った。
「兎にも角にも、森を抜けるなら充分に気をつけてね。ただでさえ道を外れたら魔物の餌食になるような森だし、それこそオッドアイの連中が逃げ隠れているかもしれないしね」
地の国の首都ダーラムで旅の支度をしてから臨んだほうがいい、とスッと真顔になってレムはシェラたちに忠告した。言われた通り彼らは一度ダーラムに行き、必要な物資を補充してライファス遺跡へと向かった。
遺跡は相変わらず閑散としていた。森は涼期の終わりを知らせ始めている。木々は葉を茶色に変えてその場に落とし、小動物たちは頬に木の実を詰め込んで寒期を乗り越えるための支度に忙しく走り回っていた。
かつて訪れた一際高い塔の前に、ヘイレンとシェラは立っていた。レムが作ったはずの獣道は見つけられなかったので、この塔を登ろうかとふたりで見上げていたところだった。
一瞬目眩でも起こしたのかと錯覚したが、感じたことのある闇の力で察した。ふたりは同時に杖を持って背中合わせに構える。刹那、靄が現れ、ふたりを囲んだ。
シェラは杖を槍に変化させると、その場に突き刺した。青白い光がふたりを包みつつ、氷の波動を放った。ヘイレンも呪文を唱えて集中する。彼の杖に白い光が集まりだす。
氷の波動を受けた靄は一瞬霧散したが、すぐに集まって今度は大きな球体になっていった。その中心がほのかに赤く光りだす。
「壁を!」
ヘイレンが叫んで光の壁を作り出すのと、赤い閃光がふたりに放たれるのとが、同時だった。閃光は壁に当たり、そして跳ね返った。シェラが球体に向けて氷の刃を放つ。ざくりと刺さる音が数回した。直後、衝撃がふたりを襲い、光の壁が弱まってしまった。
「まずい!」
シェラは左手をかざした。氷の壁が瞬時に現れるも、二度目の衝撃で一気にヒビが走る。シェラは念じた。
エール、ヘイレンを頼む!
三度目の衝撃が、氷の壁を粉砕した。シェラの周りが青白く光り、氷狐がヘイレンを抱えて飛び退る。シェラは目の前に現れた闇の種に槍を振るった。
相手は柄の長い杖を持っていた。それはほのかに赤い光を纏っている。いつ拘束の魔術が来てもおかしくない状況だったが、シェラは杖の先にある魔石を見ないようにしながら相手が放つ魔法に対抗した。
互いの力がぶつかり合い、遺跡を震わせる。氷の刃や吹雪が舞い、闇の靄は次第に弱まっていった。ヘイレンは杖に集中して魔力を溜め続けている。エールは片手で彼を抱え、遺跡の塔のそばで氷の壁を作っていた。
シェラと交える相手と一瞬目が合うも、奴はヘイレンに気づいていないのか、目の前の氷河召喚士に必死なのか、こちらに魔法を放つ様子はなかった。やがて靄が掠れ、視界が良くなってきた。が。
ひとつ、大きな波動がヘイレンたちを吹き飛ばした。エールに守られながら、遺跡の一角にぶつかる。実際にぶつかったのはエールなのだが、彼女は何も言わず体勢を立て直して再び氷の壁を作ろうとした。
「わっ!」
砂煙から男が飛び出してきた。赤と紫のオッドアイ、がたいの良い、けれどもかなり歳を重ねた魔導士。
バルドは杖をエールに向けた。刹那、氷狐が赤黒い炎に包まれ、あっという間に消えてしまった。そして、奴の反対の手がヘイレンの首を掴み、地面に叩きつけた。
「うっ……」
反動で杖を手放してしまい、転がっていった。ヘイレンは両手でバルドの腕を掴む。ぎりぎりと力を強められ、途端に苦しくなる。意識が吹っ飛びそうになるのを、必死に耐える。
『ここで私に処刑されるがいい。テンバを滅ぼした罪だ』
大きな手が、細い首を折らんとばかりに絞めてくる。声は出ない。視界が霞む。頭が真っ白になる。もうダメなのか……?
やだ……やめて……死にたくない。
ボクは……いつか帰るんだ……。
ボクが生きていた時代に!!
その波動は、一瞬でシェラを吹っ飛ばした。
靄が晴れ、ついにバルドの全貌を目にした瞬間、奴はひとつ力を解放した。赤い閃光は無かったが、踏ん張っていられなかった。
遺跡の傍を抜けて、木々の枝を何本折っただろうか。身体が落ちて、転がって、一際大きな木の根元に軽くぶつかった。
すぐに起き上がりバルドのもとへ駆けたかったが、全身に走る激痛がそれを拒んだ。唸りながら上半身を起こし、槍を杖代わりにゆっくり立ち上がるも、喉を伝って鮮血が飛び出してきた。
咳き込みながら、シェラは自分が飛んできた方向を睨む。森が騒めいている。風が木々を、シェラの亜麻色の髪を踊らせた。
「つっ……」
突然右肩に刺すような痛みが走った。左手で覆うと、どくん、と鼓動が大きく聞こえた。頭の中から低い声がした。
『シェラ……』
ディアンが呼んでいる。シェラは俯いた。
『我を……求めよ』
「ディアン……」
一呼吸置いた。鉄の味が込み上げてきそうになったからだ。少しして、シェラは見開いた。
「ディアン、力を貸して!ヘイレンを助ける!」
左手に力を込めた。再び大きく鼓動が聞こえた。それはシェラの速い鼓動ではなく、ゆっくりと重たい鼓動だった。
右腕は、槍を握ったまま変化した。相変わらずメキメキと筋肉の盛り上がる音を立て、鋭い爪、青黒い肌、ひと回り大きい腕が現れた。右側の肩甲骨が妙に重たく感じたが、まだこの時シェラは気づいていなかった。
シェラは少し腰を落とし、そして一歩駆け出した。枝を失って幹だけとなった木の間を、隼の如く飛んだ。
「……見えた!」
シェラは左手に魔力を溜め、そして放った。小さくも鋭い氷の刃が、ヘイレンを絞めるバルドの身体に集中砲火した。同時に、奴の手元が、ヘイレンの両手が、白く眩い光を放ち、何かが壊れる音と共に奴が吹っ飛んでいった。
ヘイレンの前に着地すると、シェラは槍を突き立てた。地から氷の壁が現れ、ヘイレンを守る。彼を一瞥し、呼吸をしていることを確認すると、シェラはバルドを目で追った。
バルドはそう遠くない場所に、崩れた遺跡の建造物からのそりと出てきた。奴を纏っていた靄は消えている。ついでに片腕も消えていてシェラは息を呑んだ。
『う……うおおああああ!!』
怒りと痛みの雄叫びがこだました。バルドは左腕を失い、肩から鮮血を流していた。赤黒いそれは、薄紫の煙を天へ昇らせていた。
『おのれえええ!!』
バルドは左眼を光らせた。目を逸らすことを失念してしまい、身体が痺れて動けなくなった。
マズい……また奪われる。今度は命もろとも……!
シェラは大股で迫ってくるバルドから目を逸らせなかった。視線すらも拘束されてしまっていたのだ!右手の指がピクピクと痙攣している。ディアンも必死にこの拘束を解こうとしているのか。
『あの波動では死なんかったとは。……処刑の邪魔をするな!』
バルドは左手を地に向けてかざした。すると、落ちていた奴の杖がすん、と手元に収まった。
『お前を先に始末する。奴を庇った罪だ』
杖の先に刃を作ると、そのままシェラの心の臓に向けて突き出した。
それは一瞬の出来事だった。
シェラは死んだと思った。
刃はシェラの心の臓を貫くすんでで右腕が動き、刃を掴んでいた。不思議と痛みはなかった。相手の押す力も感じられなかった。一方バルドは、この状況に驚愕していた。
『貴様……な……んだと?』
シェラは何も言っていない。しかし、バルドは何かに反応して声を漏らしていた。
ぐっ、と右手は刃を強く握った。じわりと血が刃から滴る。その一滴が地に着いた瞬間、右手首を捻って刃をバキンと折った。そして、呆気に取られていたバルドにそれを投げつけた。
それは、バルドの首元にぐさりと刺さった。鮮血を少し浴びたシェラは、瞬間、無意識に行動に出ていた。
ディアン(の腕)は刃を投げた後、シェラを動かした。ぐんと距離を縮め、鋭い爪でバルドの腹を切り裂いた。さらに、左手で氷を放って相手を地に縫いつけた。
そして、血塗れになったバルドに向けて槍を突き刺そうかと振り上げた時、赤い光がシェラの右肩を貫いた。同時に、我に返った。
「あっ……」
シェラは脱力し、バルドの隣に転がった。槍は杖に戻り、彼の手からこぼれ落ちた。右腕の感覚がない。仰向けに倒れ、天を見つめていると、氷の割れる音がした。
『コア・ドラゴンとは恐れ入ったな。絶命させる前にそのコアごと力をいただこうか!』
シェラの腹の上に馬乗りになると、杖で右肩を押した。熱く鋭い痛みに悲鳴を上げた。
腕を、ディアンを守らないと!それなのに、身体はもう動かない。それでも奪われまいとシェラは足掻いた。
目を固く閉じ、痛みに意識を持っていかれそうになるのを必死に耐えながら念じた。
ディアンを、バルドの魔術から守れ!
己の宿す氷の力を、全身に纏わせた。それはシェラを頭から足先まで隙間なく覆い、バルドの魔術を遮断した。
『……なんと』
バルドはなす術無しと判断し、シェラからゆっくり離れた。白く硬い氷像が、陽光に溶けることなく輝いていた。
『……その鉄壁も、長く覆えば自滅する。コア・ドラゴンを守るのに己の命を盾にしたところで、結局は私に奪われるというのに』
ふっ、と嘲笑うと、バルドは振り返った。氷の壁がひとつ、解けずにヘイレンを守っている。
『さて、処刑の続きだ……』
一歩踏み出した瞬間、バルドはくずおれた。首と腹からドクドクと赤黒い血が流れていく。
『……いや、ここは退散しよう。なかなかに……いい勝負だったぞ……シェラード』
静かになったライファス遺跡。ヘイレンは氷の壁ができてからずっと、自分の力を回復させていた。涙で地面が濡れている。今も涙が止まらないでいた。
仰向けのまま、ゆっくり両手を上げる。熱いものを感じたかと思うと、バルドは吹っ飛んでいった。ブチっとちぎれる音の後、焼失していく音がした。
上げていた手を返して涙を拭い、ヘイレンは起き上がった。氷の壁は今もヘイレンのそばに佇んでいた。そっと様子を窺うと、少し先に白い塊が輝いていた。バルドの気配はない。シェラが屠ったのだろうか。
警戒しながらその白い塊に近寄った。目を固く閉じ、バルドから守る魔法を使った、シェラの氷像ができあがっていた。
「え……うそ……」
ヘイレンはくずおれる。氷で体温を奪われ、肉も骨も内臓も凍結して……やがて死ぬ。もちろん氷像を砕くことは身体を砕くことに繋がる。
守るための技が、結局は死に逃げる技となってしまう。それをシェラは使ってしまったのだ。
『……我を……守る……ために』
声が聞こえて、ヘイレンはハッと顔を上げた。紺碧の靄が漂い、中央に青い光が2つ控えめに現れていた。反射的に身体がビクついたが、恐怖はその時だけだった。
「……ディアンを、守るために?でもこれ……シェラは……シェラの命は?」
聞かなくともわかっているのに、ディアンに答えを求めてしまう。どうしようもないとわかっているのに、目の前の現実を受け入れたくない。
それでも、とヘイレンはシェラの右肩に手を置いた。癒しの力がシェラの魂に届いたら、きっと戻ってくるかもしれない。きっと氷が溶けるかもしれない。
きっと。きっと。
目を閉じて、集中し、念じる。
……バルドはいなくなった。もう氷を解いても大丈夫だよ。ディアンも無事。だから、戻ってきて……。
手のひらがほんのり温かくなり、淡い白と黄色の光が混ざり合い、手を、氷像を、周りを包んだ。
*
真っ暗闇の空間に、ひとりの召喚士が漂っていた。
ゆっくり瞼を開けても、何も見えない闇。
本当に今度こそ、死んだのかな。
まだ『シェラードだ』という自覚があるから、狭間にいるのかな。
己を凍らせることで究極の防御策を実行した。核を……ディアンをバルドから守るために。しかしそれは、時間と共に己の命に終止符を打つ、という捨て身の魔法だ。
僕は死ぬけど、核が無事であればディアンは生き続ける。……でも、どうやって生きていくのだろうか?
誰かが核を保護してくれたら、そのヒトのそばで生きていける。実態のない状態だけど、意識と力はある。
……ヘイレンが保護してくれたら、ディアンは守護神のように君を守ってくれるだろう。僕の肩から、核を取り出して。どんな手でもいいから。
「ヘイレン、無事かな……」
ぼそっと口から言葉がこぼれ出た時、刺すような冷たい風がびゅおんとシェラの髪を揺らした。
『……覚悟はあるか?』
いつか聞いた声がした。シェラは少し視線を上げた。姿は見えないが、確実に目の前に……いる。
シェラは、死と向き合う覚悟を決めたはずだった。
だが。
『……竜と対話せよ。テンバを守れ。……その命を果たしているようだな』
「え……?」
『果たせぬならば容赦はしない。が、しかし其方は果たしている。故に……』
シェラの左側がほんのり温かくなった。振り向くと、小さな白い光が、黄色い光と混ざり合って真っ暗な空間に浮いている。
「これは……?」
『テンバが生み出している光。其方をここから救い出すための、唯一の光』
「な……!」
ヘイレンはシェラに、癒しの力を施しているのか!?あの壁というか氷像は、溶けることは叶わないはずなのに……!
『テンバは其方を求めている。其方に宿る生命もまた然り。そのものたちの声を受け入れるか否かは、其方次第だ』
「みんなが、僕を……」
今すぐにでもその光に手を伸ばして元の世界に戻ればいいのに、シェラは躊躇った。自分を必要としてくれているのはありがたい事なのだが……。
「僕は……何のために生きてきたんだろう?これからも生きるとしても、何のために生きていくのだろうか……そう思い考えると、答えが無いことに気づいてしまって……」
一旦言葉を切ってため息をつく。生きる目的が無ければ、ここで生涯を閉じてしまっても構わないのではないだろうか。死に至るような事をしたのだから。
『……其方は死を選ぶのか?シェラードという存在が、意識が、己から消えるぞ?それでいいのか?』
シェラは声の方を向いた。ここで頷いたら全てが終わる。痛み、苦しみから解放される。
……しかし、頷けなかった。どうしたものか。
『……この空間は、其方のその『迷い』が生み出したものだ』
迷い……。
『死を選ぶなら連れ去ろう。生を選ぶならその光を追うがよい』
シェラはもう一度、光のある方に身体を向けた。ヘイレンが生み出したであろう光は、変わらず漂っている。しばらくの間、ぼんやり見つめていた。
ヒトは、何のために生きるのか。そもそもなぜ生まれるのか。答えようのない問いが、ずっと頭の中で繰り返されていた。そして、だんだん疲れてきた。
大きくため息をついて思考を停止し、何も考えないようにしてみた。ただただ、光を見つめ続ける。眼が焼けてしまいそうな錯覚に陥るが、気にしない。
『……きて』
微かに声が聞こえた、ように感じた。
『……きて……にいて……のために』
それは光から発しているようだった。
「……ヘイレン?の声かな……」
シェラは何のために生きるのか。
『……ボクのそばにいて……のために、戻ってきて』
シェラはほんの少し考えた。誰のために戻らねばならないのか。ヘイレンのため、もあるけど他というと……ああ、もしかして。
光のやや上を見た。ぼんやりと映る氷狐の姿、その隣には青黒い体躯。さらに見上げると青い双眸を光らせてこちらを見下ろしていた。自然と笑みが溢れた。
「……まだ、許されるのなら僕は……」
シェラは光に手を伸ばした。




