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ひとことで不安になる


「大浴場……ってあれですよね! 大量のお湯を溜めた浴槽のある広いバスルーム。ここにあるんですか!?」


 部屋に向かいながら、ジェームズから屋敷の説明を聞いている最中のことだ。魅力的な単語にフロラが思い切り喰いつくと、ジェームズが優しく微笑む。


「ええ、そうなのです。フロラ様はご友人といらしていますから、お二人でお楽しみいただくのもよろしいかもしれませんね」


「そうします!」


 そんなやり取りがあったその日の夜、フロラはリリアンと早速大浴場に集合した。




***







 オルラリエ王国には湯に浸かる文化がほとんどない。そのため大浴場というものは極めて珍しく、フロラにとってもリリアンにとってもこれは初めての経験だった。


「リリアン、見てください! 広いですね」


「とっても素敵な浴室ですわ!」


 扉を開けた瞬間、真っ白な大理石造りの広々とした大浴場が現れた。溢れんばかりのお湯を湛えた浴槽は温かい湯けむりを上げていて、ゆったりと身を沈めればとても気持ちがいいだろう。


 中央には女性を模した彫刻が据え付けられ、女性が手に掲げた壺から滝のようにお湯が流れ落ちている。ザーッというその音がまた適度な背景音楽のようで、不思議と無音よりも心が落ち着く気がする。

 フロラが興味深く像を眺めていると、リリアンはその視線を辿って同じように像の方へ目を向けた。


「まあ。女神フロラレーテ様の彫刻ですわ」


「!? ……げほっ!」


 不意打ちで見事に咽せた。


「お姉様?」


「いや、湯けむりが喉に!」


 よく分からない言い訳をしながら像を二度見する。あれは自分なのか。改めて見ると確かに、背中に大きな翼が付いている。


(けど、顔が似ているかというと……うーん)


 微妙に自分に似ているような似ていないような女神フロラレーテ像をまじまじと眺めながら、フロラは浴槽のお湯にちょんと指先を付けてみる。その瞬間、像のことは頭から吹き飛んでしまった。


「わあ、すごく温かいわ」


 ドキドキしながら、事前に聞いていた作法に従って、浴槽の横に用意されていた桶で身体に湯をかける。

 熱っ……!と驚いたが、これはこれで気持ちいいような。


 それから浴槽に踏み入れ、思い切って一気に肩まで浸かってみた。


「……蕩ける…………」


 すぐにリリアンも横に入ってきて、同じように身を蕩けさせている。

 この全身をお湯に包み込まれる心地よさ。長い馬車移動でこわばった身体がほぐれていく。これは誰だって蕩けずにはいられないことだろう。


「どうしてこの素晴らしい文化はオルラリエに浸透していないんでしょう……」


「本当ですわ……でもこれほどのお湯を王都で用意するのは難しいかもしれませんね……よほど豊かな水源がなければ……」


 蕩けるあまり、なんだか喋るのもゆっくりになってしまう二人である。


 しばらく無言で湯を堪能してから、フロラはちらりと隣のリリアンの様子を伺う。ずっと聞きたかったことがあったのだ。それを今聞けるだろうか。

 楽しそうに手のひらで湯をすくっている彼女にそっと話しかける。


「……リリアンは、好きな人とかいないんですか?」


「へ? お姉様、いきなりどうしたのですか?」


 唐突すぎたかもしれない。キョトンとするリリアンに、フロラは慌てる。


「いえ、特に深い意味はないんですけど。……ただ、リリアンはいつも私とアースのことをすごく応援してくれているじゃないですか。だけどリリアン自身の恋の話は聞いたことがなかったので、どうなのかなって」


 すると、リリアンは何でもないように小首を傾げた。


「幼い頃に決められた婚約者がいるのです」


「えっ!」


 どんな人? と聞こうとして、フロラは言葉を失った。いつも楽しそうなリリアンの表情がどこか曇ったように感じられたからだ。


「リリアン……その、あまりお相手の方のこと……?」


「……はい、お恥ずかしながら。お相手は我が家門にとって重要な方ですが、かなり歳上ですし、お人柄も──好ましくはなくて。ですから、できるだけ結婚の時期を後ろ倒しにしているのですけれど。でも政略結婚ですから、破談という選択肢はあり得ないのです。

 だからわたくしにとっての"恋"は、憧れで、ファンタジーで。恋のお話をするのは好きですけれど、自らが当事者になる想像は、できないのですわ」


 フロラは言葉が継げなくなった。リリアンは自分自身が恋をすることを初めから諦めて、家門のための望まぬ結婚を覚悟しているのだ。

 貴族に生まれた者の自覚と責任感。矜持。リリアンの強さが切なくて、胸が締め付けられるように痛む。


 リリアンがフロラの恋をあんなにも一生懸命に応援してくれるのは、リリアンには決して許されない"恋"を、フロラが自由にできるから。自由に恋をする権利を持つことがいかに恵まれたことかを知っているからだったのだ。

 与えられた権利をせめてフロラには活かしてほしいと、幸せになってほしいと──そう願ってくれているからなのだ。きっと。


「リリアンは、それで良いのですか……?」


「お姉様、そんなに悲しいお顔をなさらないでください。昔から分かっていたことですから、今さらですもの。

 わたくしは、わたくしの大切なお姉様が、アース様と幸せになるのをおそばで見届けられれば満足なのですわ。……あら、なんだか長く話しすぎてしまいましたね」


 そう苦笑して浴槽から出ようとするリリアンをフロラは引き止めて、抱きしめる。パシャンとお湯が波打った。


「もし、ですよ。もし……リリアンに好きな人ができたら。私、全力で味方しますから」


 リリアンは諦めた表情で、それでいて心底嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます、お姉様」







 そのあとは気を取り直して、置いてあったハーブを湯に浮かべてみたり、二人で体を洗いっこしたりと、大浴場を存分に堪能した。


「はあ……。満足です」


「わたくし、ちょっぴり逆上せてしまいましたわ」


 大浴場を出てパウダールームに移動すると、入浴前にはなかったバスローブに加え、美容液やら香油やらの瓶が鏡の前にたくさん置かれている。

 至れり尽くせりだな、とフロラがなんてことない感想を抱いていると、キラキラと輝く瓶の軍団を興味深げに見ていたリリアンが、そのうちの一つに目を止めた。


「まあ! これはポムノスクの香油ですわ」


「ポムノスク……って確か、ゼルラント公爵領の隣の小国でしたよね?」


 ポムノスク王国。ゼルラント公爵領の北側の鉱山を越えた向こう側の国だったはずだ。昔、鉱山を取り合って戦争になりかけたこともある、微妙な関係性の隣国。


「ええ、お姉様。ポムノスクは山の向こうなので、ここと距離は近いですが気候が全く異なり、よく雪が降るのだとか。

 そしてこの香油は、そこにしか生息しない特別な木の成分から作られた、滅多に手に入らない幻の香油なのです!」


「幻の香油……」


 リリアンが掲げ持つ美しい瓶の中で、赤みがかった香油がとろりと揺れた。


「ポムノスクとは歴史上、戦争になりかけた時代があるくらいなので、国同士もっと仲が悪いのかと思っていました」


「ううん……仲が良いとは言えませんけれど、最近は悪いわけでもないのではないでしょうか? ここ五十年ほど和平が保たれていますし、こうして香油も入ってきていますし」


「五十年──人にとって、決して短くはない期間ですね」


「ええ。もちろん外交的に気を使わなければならない国ではありますけれど。ゼルラント公爵家の外交手腕があれば、きっと今後も問題は起きませんわ」


 なるほど、現在のゼルラント公爵はアースだ。彼が外交をしくじり隣国と関係悪化や開戦を許すとは思えない。

 フロラはリリアンの言葉に深く同意して、香油の瓶をちらりと見た。すでにものすごく気になっていた。幻の香油というやつが。香油というもの自体初めて使うので違いが分かるかは不明だが、せっかくのレアアイテムだし。


「それじゃあ……早速その香油、使ってみちゃいます?」


「ええ、お姉様! そうしましょう」


 瓶を開けると香り立つのは、ほのかな甘さと深い森の空気が溶け合ったような、複雑で魅惑的な匂い。

 きゃっきゃと盛り上がりながら香油を楽しんでいると、パウダールームの扉が外からノックされた。


 フロラが返事をすると、入ってきたのはエバだ。相変わらず隙のない様子でメイド服を着こなした彼女は一見いつもの真顔のように見えるが、フロラには分かる。


「エバ。そんなに深刻な表情をして、どうしたの?」


「明日の朝、隣国のポムノスクから急な客人が来ます」


 タイムリーな国名が出たことには驚いたが、それだけ? とフロラは首を傾げる。

 旅行で短期滞在中にたまたま国外から客人が来るというのは、すごい偶然ではあるものの、それほど深刻になるようなことではないはずだ。


 頭上にはてなを浮かべるフロラをじっと見つめ、エバは重々しく口を開く。


「いらっしゃるのはポムノスクの女狐──ごほん。第二王女殿下です」


「今聞こえてはいけない単語が聞こえた気がしたわね」


「お姉様、わたくしにも聞こえた気がします」


 使いかけの幻の香油が倒れて、赤みがかった中身がピチョンと不穏な音を立てた。


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