立ち直りは早い方
「この紅茶、濃すぎるわ。入れ直してくれる?」
「かしこまりました、殿下」
地味なメイド服に身を包んだフロラはにっこりと微笑み、卓上へ並べたばかりのティーセットをすべて撤収する。
このやりとりをするのはすでに四回目だ。曰く、薄すぎる。濃すぎる。薄すぎる。濃すぎる。
同じ部屋の中にはイレニヤの侍女やメイドたちが立っているが、フロラを手伝うことはない。イレニヤの勘気に触れるのが嫌なのだろう。
とはいえこの状況には罪悪感を覚えるらしく、みな一様に体を小さく縮めて目を逸らしている。
そしてそれがよりいっそう、この部屋の空気を重苦しいものにしていた。
「次、急いでちょうだいね」
イレニヤはなぜこんなにも楽しそうなのか。嫌がらせに勤しんでいる間、ご所望の紅茶を飲めていないわけだが、喉は乾かないのだろうか。
(それとも嫌がらせのために頼んでいるだけで、実は紅茶自体を欲していない、とか……?)
そんな取り留めない疑問を浮かべながら、フロラはほぼ手付かずの可哀想なティーセットをワゴンに乗せて廊下へ出た。
「うん?」
遠くの方に見慣れた姿を見つけた。アースがそわそわとこちらを窺っていたのだ。
この屋敷の主とは思えない所在無げな様子が少し面白い。
せっかく見つけたし、と軽く手を振ってみると、アースは片手を上げて応えた。
「アースってば、屋敷の主人がそんなところでコソコソ何しているんですか」
「どうにも気になってな。調子はどうだ?」
「今のところ特に問題はありませんよ。ひたすらお茶を入れているだけです」
「ひたすら?」
「これで四回目」
軽くワゴンを指し示すと、アースが苛立たしげに舌打ちしたので、フロラは思わず苦笑する。
「怒るほどのことでもないんですよ? 私が全自動お茶入れ機と化すだけでイレニヤ殿下のご機嫌が良くなって、ひいては和平が保たれるんですから、これくらいお安い御用です」
「女神に茶を入れされたと知ったら彼女はひっくり返るだろうな」
「知る日は来ませんから」
「知らせて度肝を抜いてやりたい気もするが」
「あはは、まさか。とにかく大船に乗った気持ちで私に任せてください。──ところで」
今朝から着用を始めたメイド服の裾をつまんで、ひらりと一回転する。
「どうですか、この制服。似合っています?」
実は自分でも、なかなか着こなせているのではないかと思うのだ。公爵邸のメイドが着用する制服は地味ながらも着心地良く、デザイン性が高い。
たっぷりとしたドレープが美しいシルエットを描く、くるぶし丈の黒いドレス。可愛らしいフリル付きの真っ白なエプロンは、紐が背中でクロスを描くように着て長さを調節し、腰の辺りで大きくリボン結び。
清潔感第一のまとめ髪はエプロンととも布のヘッドドレスで仕上げている。
長いリボンがフロラの動きに合わせて尾を引くように靡くのを、アースはなんとも言えない表情をして目で追った。
「……新鮮だな。似合ってるよ、とても。他人のメイドにしておくなんて勿体ない。今からでも俺のメイドに転職しないか?」
「ええ? アースのメイド……?」
フロラは想像してみる。
朝、ベッドでまどろむアースに声をかける。すると長い睫毛がふるりと震え、やがて漆黒の瞳がゆっくりと姿を表すだろう。そしてフロラの姿をとらえた彼は、半分寝ぼけたまま無防備に微笑むのだ。
(あれ、結構いいかも?)
それから眠気覚ましの紅茶を出してあげて、会話をしながらゆったりと朝のひと時を過ごす。アースの目が覚めてきたら、顔を洗うぬるま湯を持ってきて、フロラが密かに気に入っているさらさらの短い髪を梳り、着替えを手伝う。
大きな鏡の前、パジャマのボタンを一つずつ外すたびに少しずつアースの引き締まった胸元、そして腹筋が露わになるシーンまで想像したところで、フロラはボッと真っ赤になった。
「あわわわわわ!」
「ふむ。フロラ、今何を想像した?」
「いや何も! 全然不埒な想像なんてしていませんので!」
ダダ漏れである。
「正直に言ってみろ? ん?」
フロラの頭の中で何が起こったのかおおよそ察したらしいアースが、機嫌良さげに問い詰めてくるのが恨めしい。悔しくなったフロラは、苦し紛れに叫ぶ。
「アースの方こそ、メイド服を着た私を見て変な想像したでしょ──!?」
その瞬間アースがピタリと動きを止めた。
どうしたのかしら? とフロラが顔を覗き見ると、獣のように好戦的に煌めく漆黒の瞳と目が合う。
(あ。私余計なこと言ったわ)
とフロラは悟った。啖呵を切った自分を悔いても後の祭りだ。
「変な想像、か」
アースがゆっくりと距離を詰めてくる。あまりにも近い距離にそろそろと後ろに下がっていたら、とんと背中が壁に触れる。
「たとえばどんな想像かな」
横に逃げようとしたけれど動きを読んだアースが顔の横に手を置いてきたので、フロラは完全に逃げ場を失った。
捕まえたと言わんばかりに、吐息が触れるほど近い距離でアースが笑う。
「俺が何を想像したか、聞きたいか?」
「いえあの、やっぱりいい、というか近──んむ」
(キス、してる……)
何度しても慣れない感覚に、一切の動きを止めて固まる。
アースの唇は意外と柔らかい。押しつけられ、やわやわと唇を食はまれるだけのそれで、フロラはあっさりとのぼせ上がってしまった。
顎に添えられたアースの指先が、そっとフロラの首筋を撫でる。きっと速すぎる脈拍を全部知られた。……恥ずかしすぎる。
潤んだ瞳で無意識にアースを見上げれば、愛おしげにこちらを見つめる漆黒と視線が絡む。
フロラがぎゅうと目を閉じていれば、いつの間にか腰の辺りまで下がってきていたアースの手がモゾモゾと動く。
ん? と思って見下ろすと同時に、するりと音がして、腰で結んでいたエプロンのリボンがアースの指に解かれていた。
「この紐を解きたい──そう思ってた」
「!?」
ぽかん、と。フロラはしばらく思考停止した。
それから数秒後にやっと、それが"フロラのメイド服姿を見て変な想像をしたか"の問いに対する答えだと気付く。
エプロンの紐が解かれたからと言って何というわけでもない。……ない、はずなのに。
アースが意味ありげな熱い視線で解いた紐の端を弄るから、まるでドレスのそれを解かれたみたいにフロラは心臓を跳ね上がらせてしまったのだ。
次の瞬間には脱兎の如くアースの腕から抜け出す。
「あ、あああ、アースのすけべっ!」
「そんな言葉どこで覚えた」
「どこだっていいでしょう! というか私、仕事中なんですからね!」
困ったことがあればすぐに言うんだぞ、と後ろから声をかけられたが、それどころではない。
フロラはがっしゃんとワゴンを持つと、真っ赤になったまま厨房へと走り去った。
その様子を後ろから見ていた人物が、憎しみの籠もった目で扇子を握りしめたことに気付かずに。
***
「お待たせ致しました」
入れ直した紅茶のワゴンを押したフロラは、そう言って礼をした途端、頬にバチンと鋭い衝撃を受けて床に転んだ。
「一体どこで遊んでいたのかしら」
ズキズキと痛む頬に手を当てれば、血が滲んでいる。平手ではない。扇子で殴られたのだ。
目の前のイレニヤは水色の瞳を怒りに染め上げてこちらを睨んでいる。
(これは、見られていたのかな……)
心の中でため息をつく。今回のことは、仕事の途中で気を抜いてしまった自分の落ち度だ。
床から立ち上がるのをやめ、代わりにイレニヤに向かい深々と頭を下げる。
「申し訳ありません」
大切な仕事中なのだからアースの戯れはきちんと躱すべきだった。
扇子で殴るのは過剰だと思わないでもないが、その程度のことはフロラにとって大したことではない。どの道やる気になれば全治1秒の怪我だ。
(それよりも──迂闊な行動の結果、仕事に支障をきたしてしまったというのが、少し堪えるかな)
などと考えるフロラは安定の仕事中毒である。
俯くフロラに、イレニヤは自分が優位に立っていることを確信したのだろう。高圧的に詰め寄る。
「わたくしは、どこで遊んでいたのかと訊いたのよ?」
「言えません……」
言えるわけがない。アースと会っていました、なんて馬鹿正直に伝えれば、目の前のお姫様がさらに激怒することは火を見るよりも明らかだ。
今は何も言わない方がいいことは、世間知らずなフロラとて流石に分かった。
懸命に黙り込むフロラをしばらく睨みつけていたイレニヤだが、そのうちに埒が開かないと思ったのか、ふいと後ろを向く。
「罰として今日一番大変な仕事をあなたひとりでやってもらいます。そこの者、何がいいかしら?」
尋ねられた侍女は躊躇いながらもおずおずと告げる。
「ここまでの旅で全員が使った服やリネン類の洗濯がございます……」
「まあ、それはさぞ沢山あることでしょうね。フロラさん、紅茶はもういいから下げて、洗濯をしてちょうだい。終わるまで休んでは駄目よ」
フロラは了承を返して部屋を出た。そして落ち込む気持ちのままにため息を吐いて──それから大きく吸って、気合を入れ直した。
「なんの、このくらい!」
生半可な気持ちで人間界に来たわけではないのだ。
起こってしまった事は仕方ない。反省して次に活かせばいいのだから、クヨクヨしているのは時間の無駄だ。
(よし! とりあえずイレニヤ殿下が帰るまで、アースとは距離を置こう!)
アースが聞いたら泣くだろう内容の決意を固めて、フロラは洗濯場へと向かった。




