挿話: 不穏な気配
ゼルラント公爵邸に吹き荒れるトラブルの嵐をよそに、朝から外出したカリュストは、散歩というには遠すぎる郊外へと足を伸ばしていた。
出てくる時、隣国の王女と和平がどうのこうのとばたついていたが、フロラは上手く対処できるだろうし、できなかったとしても別にどうということはない。
人間界の中の一国。その中の一領土の和平についてなど、興味もなければ全く気にしていないカリュストは、ある意味で非常に神らしい気質を持っていると言える。
ゆったりとした足取りで黄金の麦畑に囲まれた畦道を歩いて、カリュストは辺りを眺める。
「ふむ、悪くない」
銀色の髪を風に遊ばせながら深呼吸をすれば、麦の香りが胸を満たす。
天上界では感じることのないその感覚を楽しんでいると、数人の人間の気配が近付いてくる。
実際のところカリュストは、数十分前から村の男らしき者たちがずっとこちらの様子を伺っていたことに気付いていた。気付いていて、無視──もとい自分の愉しみを優先していたのだが。
とはいえ相手から話しかけてくるのならば応対するのはやぶさかではない。もっと興味深いことがあるかもしれないのだし。
そう、思いもよらないことは、思いもよらないところから生まれるものだ。
そんな思考で、カリュストは相手の方に視線を向けた。
「何かご用かな?」
「あのう……恐れ多くも、貴族様とお見受けしますが」
「おや。なぜそう思われたのだろう」
「そりゃもちろん、あまりにもお美しく、威厳がおありじゃあないですか。少なくともこの田舎には貴方様のような方、一人もいやしません」
聞き返されたことこそが理解できないという様子で答える村人に、カリュストは首を傾げる。
「真実を言うと身分はないのだが」
「はは、まさか。ご冗談を」
本当のことを告げたのに嘘だと思われてしまったようだ。
「それはそうと、何の用かな? 当然理由があって話しかけてきたのだろう」
「実は、このパンをいくらかでもお買い上げいただけないかと思いまして」
そう言って差しだされた袋の中には大量のパンが詰まっていた。
これまでこの世界を彷徨って得た知識が正しければ、通常こういった農家は麦を麦のまま売るはずだが。
「なぜ、パンを?」
「ここ数日、麦に病が流行っておるのです。それで実った麦をを急いで刈り取ってパンにしているのですが、なにぶん麦と違ってパンは日持ちしませぬゆえ」
「麦の、病か……」
カリュストは一つ頷くと、いくつかのパンを買い取ってやった。
「礼はいらぬから、代わりに病に罹った麦を見せてくれ」
すぐに持って来られた麦は確かに、病で黒ずんでいる。
普通に育った穀物には決して宿り得ない禍々しい気配がはっきりと漂ってくるのに、カリュストは眉を顰めた。
「やはり──」
思案するカリュストの頰を、風がぞろりと撫でていく。先程までの爽やかな心地はすっかり鳴りをひそめてしまった。
周囲を吹き抜けるのは、不穏な気配を孕む生暖かい風。




