十五章 死の実感
悲劇は、恐怖を忘れた頃に、やってきた。
「っ!? がっ!?」
突然、愛理の首に何かが巻きついてきた。しかも、凄い力で首を絞められる。
愛理は、巻きついてきたものを掴み、抵抗する。
感触は縄のようだった。
(な、縄なんて、どこ、から……っ!)
愛理は恐ろしいものを見てしまった。
愛理が寄りかかっていた壁から、
人の手が生えていた。
「かっ!?はっ!?」
その手は縄を握っている。
愛理の両側に、手が壁から生えている。
奇怪な光景だった。
愛理は、何が何だか分からなかった。
分かっているのは、
このままでは、殺されてしまう、ということだった。
「あっ! ぐっ!」
必死に愛理は抵抗する。
足をばたつかせて、助けを呼ぼうとする。
縄を掴んで、それを剥がそうとする。
しかし、縄は深く首に食い込み、力がまるで入らない。
「がぁっ!」
声を出そうとしても、やはり無駄だった。
それでも、抵抗を試みる愛理の耳に、何かが聞こえてきた。
このマンションの防音はかなり優れている。隣の住人がいくら大声を出しても、こちらには聞こえないだろう。しかし、それは、壁の向こう側から聞こえる、いや、向こう側というよりは、壁の中から、聞こえてくるようだ。
「……この、淫乱ビッチめ……なに、男、連れ込んでんだよ! しかも、あんなドチビ……俺がせっかく、見守ってあげてるのに……酷い裏切りだ……」
そんな言葉が、ぶつぶつと聞こえてくる。
(お、男? って千風のこと? 淫乱って、私のこと!?)
壁からはさらに、呟きが聞こえてくる。
「幻滅だよ! お前は、清純で、理想の彼女だって思ってたのに……だから、色々、世話してやったのに……影から見守って、家事を手伝ってやってたのに……もういいや……お前は俺が見守ってあげる価値がなくなった……淫乱な奴は死ね。せめて、俺の手で殺してやるから、早く死ね!」
薄れゆく意識の中、この呟きを聞いて、今までの奇妙な現象の事実を、愛理は理解してしまった。この、壁の手の人物の仕業であることを理解してしまった。
犯人は、おそらくストーカーなのであろう。愛理の家事の手伝いをすることで、自己満足に浸り、それをすることで、愛理への愛を表現していたのだろう。
しかし、千風という男装した少女を、愛理が部屋に入れたのを見たストーカーは、愛理が男を連れ込んだと勘違いし、身勝手にも逆上し、自分の理想とは違う彼女だった愛理を殺そうとしている。
そこまで分かった。愛理はそこまで事実を理解したのだ。
しかし、愛理は、すでに毒牙にかかってしまった。
そして、その毒は、もはや、全身を巡っている。
愛理の意識は、靄がかかったようにぼやけている。
腕にも足にも、力が入らなくなってきた。
(わ、たし、死、ぬ、の……?)
こんな身勝手な奴に殺されるのか?
こんな身勝手な理由で殺されるのか?
こんなあっけなく、殺されるのか?
こんな、こんな、こんな、こんな理不尽が許されるのか?
自分が何をしたというのだ?殺されるようなことをしたか?理不尽な、こんなにも理不尽なことで死ななければならないのか?何のために?何のために、死ぬんだ?勝手に人に幻想抱いて、勝手に勘違いした変態のために、死ぬのか?
何故?何故?
何故、こんな変態のために、死ななくちゃいけないんだ!
愛理が今際の際に見たのは、走馬灯ではなかった。
自身の中に、渦まく、憎悪、怨嗟、怨念、悔恨、憤怒…。
彼女の、負の塊が、どんどん溢れ出していくのを見た。
そして、その負の塊は、彼女が抱いた、最も強い気持ち、欲求に取り憑き、さらに、規模を大きくし、爆発した。
『生きたい』という強い欲求が、黒い負の塊とともに、自身の中で、爆発して、全身を駆け巡った。
そのとき、愛理の身に起きたことは、奇跡だった。
あるいは、さらなる悲劇だった。