004-1
「ほかいまー」
「ほかいまーって、きょうび聞かない言葉だな。もう死語なんじゃないか?」
「勝手に殺さないでよ。ほかいまとチョベリバを一緒にすんな」
「チョベリバに何の恨みがあるんだよ……」
チョベリバなのはお前の思考回路だ――そんな感じで数十分、全身からうっすら湯気が立ち込める幼馴染こと如月叶夢がリビングに戻ってきた。
「はー、真夏の昼間っからひとっぷろ浴びてクーラーの下でアイス食べるなんて、犯罪級の贅沢ねー」
とか言いながら、勝手に人の家の冷凍庫を漁り誰のかも確認せずアイスを取り出す。
図々しいという言葉を辞書で引いた時の使用例に載ってそうな女だ。
「……一応、食べる前に確認しとけよ。姉妹のだったらどうするんだ」
「その時はあんたが食べたって言えばいいじゃない。あの二人なら絶対に怒らないでしょ」
「…………」
そうだろうけど、そういう問題ではないんだよなぁ……。
「そう言えば、服、あんがとね――けど、朝着たのに比べたら随分地味目な下着選んだわね。もうちょっと派手なのなかったっけ?」
「言うほど派手なのなんか持ってないだろ、お前は。それに、どうせこの後は家にいるだけなのに、なぜ派手な下着を身に付ける必要があるんだ」
「それを言うなら、学校に行かなきゃいけない女子高生に、休日用にと買って来た派手な下着を朝から着用させる必要性はどこにあったのかしら」
「むう」
だってそれが一番手前にあったんだもん。
「文句があるんなら、せめて下着くらい自分で出してくれよ……お前だって、幼馴染とは言え異性に下着を用意させている現状の自分を、少しは見返した方がいいと思うぞ?」
「別にいいじゃない。あたしとあんたの仲なんだし。今更あんたに下着姿を見られたからって、恥ずかしがれないわよ」
ほら、と叶夢が僕が用意したオーバーサイズのTシャツをペロンと大きく捲る。当然、その下からは真っ白い、女子高生特有の華奢な体躯と、その白さを余計際立たせるように身に付けられた下着が上下、姿を現す。
「ってお前。どうして下を穿いていないんだ」
「風呂上がったばっかだからよ。暑いんだから下なんて穿いてらんないでしょ」
「そうかもしれないけど、あまりそんな恰好でうろつくなよ」
「うっさいわねえ。あんた以外誰もいないんだからいいでしょ。あんた、あたしの母親か何かなわけ?」
「母親でなくとも幼馴染だ」
今、叶夢が身に付けている下着は、先程彼女自身が言っていた通り、デザインだけで言えばとてもシンプルなものであった。フリルやレースのあしらわれていない、ストラップの金具が静かに金色に光っている以外は、ともすれば地味とも言える落ち着いた造りとなっていた。だが、そもそも黒い下着と言うだけで、正直、地味な印象からは程遠いであろう。また、先述の通り叶夢は髪や肌が透き通るほど白いので、黒い下着は殊更目立ってしまっているというか、かなり扇情間の浮き出るマッチングとなってしまっていた。
……こうして見ると、やっぱりめちゃくちゃスタイルいいんだよなあ。オマケに顔も可愛いし、性格に難があるのは、最早仕方のないことなのかもしれない。天は二物を与えずともいうし――まあ、僕には一物も与えられていないけれど。
それに、下着ってやっぱり下着そのものを見るより、身に付けられた状態を見る方が興奮するよなあ……下着そのものの付加価値なんて実は大したことなくて、それをこうして女性が身に付けることによって、秘められた魅力が一気に解放されるというか。しかも、服を捲って見せつけているという、その構図とシチュエーションもまた、余計にポテンシャルを引き出しているというか……。
「……ねえ」
「ん?」
「見すぎ」
見れば。
服の裾を掴んだまま、頬を少し赤くした叶夢がジト目でこっちを睨んでいた。
肌が白いせいで、少しの紅潮でもバレてしまっている。
ってか、僕に下着を見せても恥ずかしがれないんじゃ……。
「何か言うことないわけ?」
「ブラって取って見せてくれないの?」
暴ッ!
と、酸素が激しく燃えるような音を立てながら、炎をまとった握り拳が豪速で飛んで来――眼前すれすれで勢いを止めた。
「調子に乗るな」
炎の鉄槌。
若干、鼻先を火傷した。
「ご、ごめん」
「ったく……幼馴染だからって何でも許されると思わないでよね」
それは死ぬほど僕の台詞だ――とは言え、叶夢のお陰で僕も漸く我に返る。
ん?
僕、今、幼馴染に劣情を抱いていなかったか?
叶夢に対して、いやらしい気持ちになっていなかったか?
危ない危ない――なんだろう、明日から夏休みということで、気持ちが変に浮かれてしまっているのだろうか。叶夢が風呂に入る前のやり取りもそうだったが、僕、ひょっとして欲求不満なのだろうか?
だから、叶夢相手でも興奮してしまうのだろうか――叶夢は「やれやれ……」と独り言をつぶやきながら、服の裾からパッと手を離す。当然、重力に従って服は元の形へと戻っていった。
「そういうのは然るべきときに言いなさいよね」
「燃るべきとき?」
「然るべきとき!」
「僕とお前との間に、そんな然るべきときが来るのか?」
「うっさいわね! 今はあんたを叱るべきときよ!」
こっわ。
まあ、今のは文句なしに僕が悪いのだけれど――「よ、よし、じゃあ僕も風呂に行ってこようかな」なんて、わざとらしく慌てる素振りで僕は叶夢の横をすり抜け、逃げるように風呂に入ることにした。後方で舌打ちをしている叶夢を無視する形で脱衣所へ向かい、汗で湿った夏服を下着もろとも脱ぎ捨てて、風呂場へと入って行く。
サービスシーンという奴だ。
叶夢じゃなくて悪かったな。
「はぁー……」
深い溜め息を一つつき、風呂桶で湯を掬って全身にぶっかける。夏の昼間ということもあってそもそもの設定温度が低かったのか、はたまた叶夢が年甲斐もなく湯船で暴れたからなのかはわからないが、お湯の温度は大分ぬるくなっていた。とは言え今日の気温を顧みれば、ある意味適温とも言える温度であろう。
ここにさっきまで、あの巨乳が浮かべられていたのか。
全身の汗を流し終え、浴槽へと入っていく。そのまま縁に腰掛け、膝下だけを湯船にくぐらせた。
半身浴、否、四分の一身浴である。
高校入学と言う、大人の階段を一段上がったことを祝うかのように少し濃くなった臑毛を恨めしそうに睨んでいる自分の顔と、若気の至りなんて言葉では到底許されそうもない上半身のセルフタトゥーが、水面に反射していた。
これこそ正に若気の至りである――気が付いたら無心で掘ってる経験、誰でもあるよな?
え、ない? マジで?
まあ、これに関しては本当、ピアス穴の比ではないくらい取り返しがつかないのが悔やまれる。しかも何が不便って、今の僕の身体ではタトゥー除去のレーザー治療が意味をなさないという点にある。どうやら僕の身体はこのタトゥーをも体の一部として認識しているようで、いくらレーザーで焼き切っても、左胸を皮膚ごと抉って解体しても、しっかりばっちり、ご丁寧なことにタトゥーも完璧に再生されるのだった――それは裏を返せばこれ以上模様は掘れないし、それにピアス穴も増やせないということになるので、捉え方次第ではメリットにもなるのだが、何が一番恐ろしいって、うちの高校では今時古臭いと言ってもいいんじゃないかと思うけれど、水泳授業があるのだ。
夏休み前に一回、夏休み明けに二回。
絶対無理。
否、既に無理を通り越している――無理を通している。つい先週、その夏休み前の一回である水泳授業が行われた際には、水着を忘れて借りる友人もいないという寂しすぎる設定を何とか駆使して授業の参加を見送って頂いたのだが、初犯であるにもかかわらずこっぴどく絞られてしまった。
大した能力もないくせに。
授業すらまともに受けれんのか――と、中々心に来ることを言われてしまったのだ。
……まあ、教師の言っていることはごもっともだし、水泳授業に出れないのもやはり自業自得なので仕方ないのだけれど。
そもそも泳ぐ泳がないとか出る出ない以前に、まず、水着姿になれない。
……入学前に調べろよ、と言われたらそれまでなのだが――まあそこは諸事情あって東雲に入学する他なかったわけなので後の祭りでしかない。僕にできることなど、今からどんな手を使って残り二回、来年以降も含めれば八回ある水泳授業をサボろうかと、そんなことを考えるくらいのものである。
「……出家でもしようかな」
本当に。
本当に、若気の至りでしかない。
至りというよりかは、痛りとでも言った方が適切だろうか。
「高校生、か……」
そう言えばこの春めでたく高校生になった僕であるが、やはりと言うか当然と言うべきか、僕には大変不釣り合いな高校であると、この一学期、三ヶ月強を過ごして思うのであった――国立東雲高等学校。正式名称を東京能力研究第一大学附属東雲高等学校と呼ぶその高校は、まあ、入る前からわかりきっていたことではあるのだが、僕が来るべき学校ではなかったと心から思ってしまう。ただ、幼馴染や他の数少ない友人達がそこを志望しており、そして僕もまた、諸般の事情でそこに行かざるを得なくなってしまったため、流れに身を任せるような形で、寧ろ消去法的にそこが残ってしまったため、僕も東雲を選んでしまった。
そこ以外に選択肢がなかった、と言った方が、だから正しいのだけど。
貧乏人が入学金だけ死ぬ気で用意してお嬢様学校に入ってしまうような、そんな場違い感を生み出してしまうこととなり、結果として、叶夢や中学時代の同級生を除けば、友達らしい友達は出来ずじまいであった。
友達なんて数人いればいいとは言うが、今の僕は、友達がいないというよりかは、ハブられている――若しくは無視されているような、或いは興味そのものを持たれていない感じの、そういう存在になってしまっていたのだ。
弱者の相手をしないように。
面倒な相手に関わらないように。
僕のことは、相手にしない。
叶夢の心配もよくわかる――だが、その状況を集団虐めだと声を上げる者がいてくれるだけ、まだしも救われていると言えるだろう。学年全体、学校全体が敵と言う状況までは言っていないし、別段、敵になってすらいない――彼らだって、僕のことを敵などとは考えてもいないであろう。
敵になるほどの力を、僕は持っていないから。
それを踏まえて考えてみれば、直接攻撃を受けているわけでもなければ、精神的、肉体的に実害を受けているわけでもないので、捉え方次第ではまだマシどころか全然マシである。ぶっちゃけ何もされていないようなものだし、安心安全、このまま何事もなくトラブルもなく、できればピアスもタトゥーもバレずに、卒業さえしてしまえれば、僕としては万々歳どころかお釣りが返ってくるくらいの成果であろう――少なくとも。
少なくとも、中学校時代に比べれば。
今の状況は、天国とも言える――僕に天国なんて、それこそ不相応だけれど。
「……………………」
なんて、何故か意味もなくアンニュイな気分に耽ってしまう。叶夢がどうして突然、あのタイミングで僕の高校生活を問うてきたのかはわからないけれど、食事のお供に軽い雑談くらいの感じで振っただけなのかもしれないけれど、なんとなく、頭の中で同じことを反芻してしまっている。叶夢に心配をかけてしまっている申し訳なさと、上手くはやれていなくとも失敗はしてないと自分に言い聞かせている気持ちとが、なんだかごちゃまぜになってしまっているようだ。
つい考えすぎてしまう――僕の悪い癖だ。
思考の靄を振り払うように、僕は大きく首を振る。お湯に浸った足をぶらぶら揺らし、揺れる波紋と漂う短めの臑毛をぼーっと眺めながら、さてそろそろ全身をお湯に浸して日も高いうちから入る風呂に罪悪感と高揚感でも覚えますかと、そんなことを思いながら腰を浮かしかけたところで。
光った。
「?」
目の前が光った。
刹那、飛行機のナビゲーションライトのように、目の前の空間がキラリと光を放つ。
風呂場の中、ぬるま湯の上、僕の眼前で何かが光る――その事象が異常だと脳が気付くより先に、さらなる激しいフラッシュによって僕の視界は遮られる。
「なっ――」
思わず目を伏せるほどの閃光――その瞬きと同時に、ドバッ! と風呂のお湯が盛大に氾濫し、僕の顔面をビショビショに濡らした
明らかにおかしい――そんなことはわざわざ言わずともわかっているわけで。
「……風呂が」
爆発でもしたのか――そう呟くつもりで薄目を開けると。
「ふー。なんとか逃げ切れましたかねー」
目の前に――全裸の少女がいた。