歌姫イザベラ
イザベラは幼いころから歌を歌うのが好きな姫だった。
炭鉱夫たちの無事を祈って国民の前で歌うようになってから、歌がうまい姫だから〝歌姫〟などと気安く呼ばれるようになり、協会や学校などで歌う機会が増えた。
そんな中、町の孤児院で歌っているイザベラにたまたま鉢合わせした吟遊詩人が彼女の歌にいたく感動し、彼によってイザベラの名は世間に広められ、〝歌姫イザベラ〟は有名人となった。
そうして噂が噂を呼び、イザベラ姫の歌は天使の歌声、〝聴けば幸せになれる〟などと仰々しいうたい文句で近隣諸国に知れ渡って早七年。
他国にも招待されることが増え、歌姫としていくつかの周辺国を旅することもあった。
一応、一国の姫なのだが、そのような自由が許されていたのには理由がある。
イザベラの国エルゴルは、炭鉱業を国を挙げて行っている小さな国だ。華やかな社交界も存在しない、国民の半分の男たちは炭鉱夫であり国民全員が顔見知りという、かなり規模の小さい国である。それでも資源豊かな鉱山を有しているおかげで、国としては一目置かれている。小国ながらも無視できないというのがエルゴルの立ち位置で、エルゴルの発掘技術なしでは鉱物の調達は難しいと言われている。
そんなエルゴルで唯一の姫なのがイザベラなのだが、その下に年の離れた弟が二人いる。彼らは若いがとても優秀で、執務や城の業務などは既に彼らに一任されている。炭鉱業は基本的に男の仕事になるので、イザベラははじめからエルゴルの後継者としては扱われていない。
だからこそ、歌姫として他国を巡業することを許されていた。
自分の歌でみんなが元気になってくれるなら嬉しい。歌を聴いて笑顔になってくれるなら嬉しい。みんなと一緒に歌うのはとても楽しい。
そんな幼いころから変わらない単純で純粋な気持ちを原動力に、はにかみながらもイザベラは歌姫として皆の心に寄り添ってきた。
とはいえ、本当に自分の歌声がそんなにすばらしいのかいつまで経っても自信のないままだった。
なぜならイザベラにとって一番美しい歌声は、炭鉱に潜る夫たちの無事を祈って歌う、彼らの妻達のそれだったから。
そんなイザベラに、本人も周囲も予想だにしなかった出来事が起きた。
歌姫イザベラが、歌を歌えなくなったのである。
二年前、エルゴルとは山脈ひとつ隔てた隣に広大な国土を有するアステート公国の騎士棟に、国家間交流との名目で招待されたときのこと。
歓迎はされていないのだな、とがっかりしたことがあった。
騎士団の責任者だという若く美しい男に、イザベラはにこりともしてもらえなかった。
多くの国で様々な人々を見てきたイザベラでも息を飲むような、美しい容姿をした男だった。アステートの軍服を着こなし、腰には剣を佩いていた。その剣が儀礼用ではなく装飾の少ない実戦向けのものだったことも印象深かった。その剣にはエルゴルでとれた銅が使われている。
彼は一言も喋らなかった。無言でイザベラに手を差し出し、機械的に騎士棟のなかを案内する。
無骨な造りの騎士棟は足場がいいとはいえず、そこかしこで足を取られるイザベラを彼は黙って支え続けた。
礼を言っても笑顔が返ってくるわけでもなく、視線すらまともに合わない。
たまたますれ違った仲間に、彼が小さな笑顔を向けたのが印象的だった。
(私の歌でこの人の笑顔を引き出すことができるかしら)
こちらを見ようともしない美しい男の横顔を、イザベラはじっと見つめた。
会話すら交わされず、眉一つ動かしてもらえない自分が本当に歌姫として求められているのか不安になったが、これも親睦を深めるための王族としての仕事である。
なんとか舞台へ向かおうとしたイザベラをまっすぐ見つめて、男は言った。
『国のために戦った兵士たちへ、あなたの最良の歌を』
言われて、イザベラは心臓が早鐘を打つのを感じた。
真正面からじっと見つめてくる男は、イザベラよりずっと多くのものを背負い、それらを大切にしているようだった。
男が守ろうとするものを、託されている――。
イザベラはそう感じ、その思いに応えたかった。
男に頷き返し、舞台へと上がる。
観客席側では、血の匂いが充満していた。そこかしこで痛みに呻く声がする。
(彼らのために歌おう。彼らを思う、あの人のためにも)
そう決意して、いつものように天使の歌声を披露したときだった。
どこからともなく男の声で「下手くそ」と罵倒されたことが、イザベラの心を深く抉った。
それまで歌姫だ天使の声だなどと持てはやされてきていただけに、その衝撃はかなりのものだった。
やっぱり歓迎されていなかった――思ったと同時に、美しい男の顔も浮かんだ。
(……彼の言葉に応えられなかった)
その場はなんとか歌いきったが、初めて浴びせられた悪意の言葉にイザベラのささやかなプライドはぽきりと折れた。
もともと、歌は好きだが自信が皆無だったイザベラにとって、現実を突きつけられた瞬間でもあった。
(本当は歌も大してうまくないのに、みんなは私が王女だからと褒めそやしていただけなんだわ)
陽気すぎる炭鉱夫たちに囲まれて育ったイザベラだったが、なぜか少し卑屈な女の子に育っていた。
そんな性格もあってか、隣国アステートでの一件以来、人前で歌おうとするも、その度にあの罵倒が耳に蘇り、歌姫イザベラは人前で歌えなくなってしまった。
歌おうと思っても、ぐっと鉛のように得体の知れない何かが喉を詰まらせる。
そしてそんなときに決まって、あの美しい男の顔がよみがえるのだ。
あのにこりともしない男の期待を裏切ってしまったことも、イザベラに重く圧し掛かっていた。
今ではどうあっても、人前で伸びやかに歌うことはできなくなってしまった。
元々底抜けに明るいという性格でもなかったイザベラは塞ぎがちになり、皆の前では笑顔でいようと努めるが、陰でこっそり涙することが多くなった。
そんなイザベラを、更に追い詰めるような出来事が起きた。
原因は、小国のくせに調子に乗って隣の大国アステート公国に喧嘩を売った父王である。
前時代より長く取引を続けてきたアステートを差し置き、他国との貿易を進めてしまったのである。
少し前に歌姫イザベラを慰問へと赴かせ、国家親交を深めたことなどなかったかのようなその所業を、当然アステートは見逃さなかった。
軍事の天才と名高いフェルナード王子が守るアステートにイザベラの父は身柄を拘束され、父王の解放条件として、歌姫として名高いイザベラをフェルナード王子の妻としてアステート公国に差し出せというのである。
父王がエルゴルに帰ってくるまでの一ヶ月の間、イザベラは突然訪れた人生の岐路に戸惑い、いっそう憂鬱に日々を過ごすこととなった。
(どうして私なのかしら。アステートでは私の歌は不評だったのに、歌姫として求められることにどんな意味があるの?)
しかも、今のイザベラは歌えない。
歌姫として求められたところで、恐らくなんの役目も果たせないだろう。
そもそもアステート公国のフェルナードといえば、若くしてアステートの軍事国家としての基盤を築き上げた才能ある王子だと聞く。そんな優秀な王位継承者の妻として、何故イザベラを指名してきたのか。
(……裏切りの姫を妻として迎える意図は?)
考えても考えても答えは出ない。
わかっていながら、イザベラはアステートに嫁ぐまでの間、そんなことばかりをぐるぐると考え続けた。
「お初にお目にかかります、エルゴルのイザベラと申します」
目の前に座る美しい青年の前で、イザベラはゆっくりとこうべを垂れた。
この日のために誂えたドレスは美しかったが、それに反してイザベラの心は重い。
エルゴルからアステートまで、全行程一ヶ月と少し。
山脈を越えてやって来た隣国の空気は冷たかった。
あのトラウマを生んだ国に、イザベラは再び足を踏み入れていた。
騎士棟どころか城でも歓迎されていないのかと、あの日の苦い思いがよみがえり、憂鬱になっていく。
更に、出立の際の父王の取り乱しぶりも尾を引いていた。
小さいながらも一国の主が涙と鼻水を流して別れを惜しむのである。冷たく差し出されるよりはよほどいいが、あの調子だと数日は、執務や事業が滞るかもしれない。苦労するのは弟たちと周りである。
祖国を支えてくれる皆の苦労を思うと、ますます心が重くなるイザベラだった。
そもそも泣いて後悔するくらいなら、余計な欲をかくなと言ってやりたい。
ちなみに弟たちは、姉のイザベラが嫁ぐことで大国と貿易以上に太いパイプができたと喜んでいた。薄情なものである。
「山脈を越えるのは大変だったでしょう。今日はゆっくりとお休みになってください。アステートは貴女を歓迎いたします」
イザベラが頭の中で父王をサンドバッグにしていると、正面に座る美しい青年ではなく、その後ろに立つ若い従者が口を開いた。
イザベラが嫁いだ男――フェルナードは、ひと言も発することなく、ただイザベラを見つめている。
イザベラの夫となる人は、それはそれは美しい人だった。
歌を嗜んできたイザベラは、それこそ見目麗しい吟遊詩人や踊り子とも何度か会うこともあったが、彼ほど美しい人は見たことがない。
陽光を反射させる金髪は少しうねり、その白磁の肌を柔らかく縁取っている。
瞳は美しい緑だ。例えるなら、春に芽吹く新緑の色。アーモンド型の瞳がともすれば愛らしい印象を与えそうなものだが、きゅっと閉じられた唇は薄く、それが逆に顔全体を引き締めている。鼻は高すぎず低すぎず、少しだけそばかすが散ったイザベラの鼻とは異なり、しみひとつない。
容姿はとても優雅なのに、着ている服は詰襟の軍服だ。黒に近い深緑に、金色の刺繍でアステート公国に伝わる蔦の紋様が成されている。ともすれば禁欲的なそれが、フェルナードにはとても似合っていた。
(……美しいのに表情がないから、まるで人形の顔みたいだわ。なにを考えているのかまったくわからない)
心が読み取れない人が一番怖い、と、イザベラは未来の夫を見ながらぼんやりと考えた。
彼に見覚えがあった。
見覚えどころか、記憶に焼きついている。
一度見たら忘れられないほどの美しさ。
この美しさを、イザベラは知っていた。
(なんという運命のいたずら)
神様は無慈悲である。
今イザベラがいるのは、恐らく客室である。それもかなり上等な部類に入る部屋だ。貴族たちに用意されるようなものではなく、王族が客人を迎えるために作られた部屋である。
内装は白で統一され、ところどころ金色のアクセントが入る壁紙の品がいいこと。天井には薄緑で蔦の文様が踊るように描かれ、置かれた家具はどれも一級品だとわかる。
その部屋の主であるフェルナードは、大きな窓を背に腰かけていた。
「このたびは、我が父の帰国を許していただきありがとうございました」
引き換えにイザベラがこの国へと嫁いだわけだが、非があるのはエルゴルある。なにをおいても、まずは感謝の気持ちを伝えなければと、イザベラは深く頭を下げて謝辞を示した。
イザベラの輿入れと引き換えに父王が解放されるというものだったが、父王が自国に帰った後も、イザベラは暫くエルゴルにとどまることを許され、アステートに向け出立するまで猶予をもらえた。おかげで嫁ぐ準備は父王の采配で滞りなく行えたし、涙と鼻水をドレスにつけられたとはいえ、父王を含む家族との別れもきちんと済ますことができた。
長きにわたって親交があったとはいえ、裏切りを働いたエルゴルに対して大変寛大な処置といえる。
そんなイザベラの思いを知ってか知らずか、フェルナードはとくになにを言うでもなくうなずいただけだった。
(話してはくださらない……。一言でも話してくだされば、彼がどう思っているか少しはわかるのに)
イザベラは、人の声で嘘を見抜くことができる。精度はまちまちだが、声の微妙な変化で相手が嘘をついているかどうかがわかるのである。
イザベラは昔から〝声〟に対して敏感で、成長するにつれて、なんとなくそういったことがわかるようになった。
アステートに着いたら、彼にこの結婚についてどう思っているのか聞いてみようと思っていたのだが、そもそも口も聞いてもらえないのでは話にならない。
どんな事情があろうと、一応は婚姻が決められた王族同士の顔合わせに変わりはない。小国の王女相手とはいえ、己に嫁いできた相手にひと言もないのは失礼にあたるのではないかと、イザベラは少し不満に思った。
(裏切った国の女とは話す価値もないということかしら。それとも、二年前のあの日、役に立たなかった私など、相手にする気も起きない?)
もしそう思われていたら、この結婚生活は悲劇的だな、とイザベラがぼんやり考えていると、フェルナードではなく従者が口を開いた。
男性にしては少し高く、神経質そうな声をしている。
「なにか必要なものがあればすぐに揃えさせましょう」
なにも語らない主からイザベラの意識を逸らすような言葉だ。
そうと気づいていても、イザベラはこの意心地の悪さを和らげたくてその言葉に飛びつきそうになった。とはいえ、この冷たい空気の中で己を要望を口にする勇気はない。
欲しいものはあるが、もう少し彼らと仲よくなれてから申し出ることにしようと決めた。そして、親しくなるための努力を惜しむまいとも思った。
(今は私の言動でどんな事態を招くかも予測できない。指先一つの動きに、慎重にならなくては。……それでもいつか、彼らと仲良くなれるかしら)
「十分でございます。ご配慮ありがたく存じます」
もう一度頭を下げて、イザベラは護衛の騎士とお付の侍女に促されるままフェルナードの前を辞した。
客室を出て、ふたりに連れられて回廊を歩いていく。
高いアーチ型の天井にはこの国の歴史が宗教画の様相で描かれて、それだけで美術品のようである。格子の窓からは柔らかな光が差し込んでおり、そこから、紅葉を始めた深い森と城下町が見えた。
イザベラが嫁いだアステート公国は、高台に建つ美しい白亜の城と城下町の赤い屋根のコントラストが美しい国だ。周囲は豊かな自然に囲まれ、おおよそ軍事に長けた国とは思えないほど穏やかである。
一方、イザベラの母国エルゴルは、国土は小さいながらも銅と青銅がとれる国で、どちらかというと城も民衆の家屋も、石壁造りの実用性重視のものが多い。
王族と銅鉱山の鉱夫たちは普段から密接に話し合いを行い、年間の発掘量を決めたり産業発展の指針をまとめたりする。基本的に、他の国より王族と民衆の距離が近い。
そしてたまたま新しく発掘した鉱山で、鉄が採れた。
有頂天になったのはイザベラの父王である。この鉄を材料に、あろうことか長年国交のあった大国アステート公国ではなく、別の国へと商売を持ちかけた。
国をもっと発展させようという父王の考えはわからなくもないが、いかんせん敵に回した相手が悪かった。
父王はアステート公国へと連行され、国の鉱山でとれる銅の半分を独占する権利をアステート公国に譲渡することになり、そして自身の解放条件として、イザベラとの政略結婚を提示されたのである。
政治に疎いイザベラでも、この待遇が破格のものであることがわかる。相手は長年その力を誇示してきた軍事国家だ。
ちょっと鉄がとれたからと言っていい気になって喧嘩を売ってくるような小国など、侵略して自国の領地にしてしまえばいい。父王以前の時代から成されてきた交易に免じて、とのことらしいが、どう考えても処罰が甘い。
先ほどのフェルナードの態度も、正直納得できるものだ。
なにが悲しくて、自国を裏切るような真似をした男の娘を娶らねばならないのか。
(私のような、歌うしか能のない姫より、もっと有益な縁を結べる姫はたくさんいるだろうに)
アステートほどの大国なら、国内には有力な貴族もそれこそ多くあるだろうし、フェルナードほどの容姿端麗な王子なら、それこそ引く手あまただろう。
(歌う才能もないのに、それを隠してのうのうと嫁いでくるなんてなんて、私はなんて厚かましいの)
イザベラの歌を聴いた相手に、婚姻を申し込まれたのは初めてのことではない。他国で歌を披露していたときなどは、有力な商家から王族、時たま庶民の男性にプロポーズをされることはあった。
その時の決まり文句はこうである。
〝イザベラ姫、あなたのその歌声を私だけのものにしたい〟
有難い申し出だが、イザベラは断り続けてきた。
イザベラの価値はその歌声だけ。
卑屈だとはわかっているが、まるでそう言われているようで素直に喜べなかったのである。
アステートの婚姻も同じようなものだ。
イザベラの歌には興味があるが、イザベラそのものには用はないと言われているような気がした。
フェルナード王子との結婚。どんな相手かもわからない人に嫁ぐのは怖い。王族同士の結婚とはそういったものが多くあることだが、小国育ちのイザベラは、自国のよく知る誰かといつか結婚するのだろうと理由もなく漠然と考えてきた。
それがまさか、こんな大国の、あんな美しい王子に嫁ぐことになるとは。
あの王子に果たして自分が見合うかと言われたら、誰が答えてもノーだろう。
自分でもノーと答える。それでも、この結婚はもう決まったことなのだ。
イザベラはこの結婚で自分に何ができるのか、何を得られるのか、考えてみることにした。
舞踏会や貴族たちが集まる席で、歌を求められるのは当然だ。
そのとき歌えなかったら、きっとイザベラは笑い者になる。フェルナード王子にもアステート公国にも恥をかかせることになる。
そして何より、歌えない歌姫を差し出したとして、今度こそイザベラの国は制裁を受けるかもしれない。
だからといって、「人の目が怖くて歌えません」などと言ってはいられない。人前で歌う機会が訪れる前になんとかしなければと思う。
この国でのイザベラの評価はひどいものだ。実害を及ぼさなかったとはいえ、この国を裏切った隣国の姫である。王家や国民が、イザベラの一挙手一投足に注目している。
今、イザベラの前と後ろを歩いている騎士と侍女も例外ではない。彼らはいわば監視役なのだ。
そんな中で、一番求められている歌が歌えないと知られれば――。
想像して、イザベラはぞっとした。
この国になじむには、きっと相当な時間と労力を費やさなくてはならない。
回廊を歩きながら、イザベラは静かに心の中で悟っていた。
「本日の晩餐は、フェルナード王子もご一緒されるそうでございます。それまでごゆっくりとおくつろぎください」
ここまでついてくれた侍女と騎士に礼を言うと、イザベラはひとり部屋へと入る。
普通ならば、自国から従者を数人連れてくるのが普通だろうが、生憎イザベラにそういった者はいない。
小国ならではというか、イザベラのお国柄というか、使用人はいるがお手伝いさんという感覚だし、従者は友達、民衆も友達、命令というよりお願い、といった形中で生活してきた。
イザベラにとって、城の者達は従わせるものではなく同じ国で共に生きる者であり、友人であった。
お姫様然としていないことは、イザベラが一番よくわかっている。
ドレスの着脱も、水浴びも、部屋の片付けも、全部自分でこなしてきた。時には城の給仕の者たちと一緒にご飯を作ったり、鉱山に出向いて鉱夫たちと歌い合ったりもした。
イザベラにとって、国は家族だ。
人質として政略結婚するイザベラについてきても、その者が辛い思いをするだけである。
ついていく、と言ってくれた者たちもいてくれたが、自分のせいで要らぬ苦労などさせたくない。
だから、家族も友人も置いてきた。
歌えなくなった歌姫イザベラの、小さな覚悟である。
故郷から遠く離れたこの大きな国で、イザベラは生きていく。
そう思うと、少し胸が苦しくなった。
窓際に置かれたソファへと腰掛けて両開きの窓を少しだけ開けると、乾いた風に乗って緑と土の匂いが入ってきて、鼻をくすぐる。
豊かな自然を思わせるそれに、フェルナードの美しい瞳を思い出した。
芽吹く春の色。美しい生命の色だ。
(あの人はなにを思って、なにを考えて私を妻に迎えるのかしら)
考えてもわかりそうもない。
言葉ひとつさえもらえなかった。
しかし、好意など持ってもらえなくてもいいと思った。
(……エルゴルだけは守るわ)
目の前には、超えてきたばかりの山脈がその美しい尾根を連ねている。
あの向こう側に、イザベラの大好きな祖国がある――。
そう思うと、口から自然と歌がこぼれ落ちていった。
歌はイザベラにとって言葉と同じ。人には聴かせられなくても、自分自身で聴くことはできる。
生まれた頃から、鉱夫や鉱夫の妻たちの歌を聞いて育ってきた。
イザベラの歌は、イザベラの心の声そのものだ。
届くはずがないと知りながら、それでもどうか届いてほしいと願いを込められ、イザベラの歌は山脈の向こうへと流れていく。
恐らく、明日から結婚式に向けてさまざまな準備が行われることとなる。
大国アステート公国王位継承者の式である。世に名高い軍師フェルナードが小国の姫と婚姻を結ぶとあって、注目度も高い。招待客も多く、舞踏会も盛大なものになるだろう。
考えただけで憂鬱だが、その準備に追われてフェルナードとの時間も取れなくなるかもしれない。
ならば今夜の晩餐で、少しでも打ち解けなくては。
窓の外に漏れないよう小さく声を抑えて、故郷の歌を歌いながら、イザベラはそう決意した。
太陽が沈みきる前に侍女に呼ばれ、イザベラは晩餐室へと連れてこられた。
そこは、入り口に左右に一体ずつ甲冑が置かれた重厚な雰囲気の部屋である。
「今日は晩餐をご一緒できて嬉しいです。ありがとうございます」
室内に入ってすぐに挨拶をしたが、フェルナードからの返事はない。わずかに口もとを緩ませたような気はするが、イザベラの願望が見せた錯覚かもしれない。
赤を基調とした壁に、アステートの城が描かれた大きな風景画が飾られている。中央には十人は悠にかけられそうなダイニングテーブルがあり、その真ん中に王子の席が設けられていた。イザベラはすでに席に着いている王子の向かい側に座るよう、侍女に案内される。とはいえ、テーブルの幅がそれなりにあるので、距離は遠く感じる。
「そういえば、この国へ入る前に大きな鷲を見ました。長い旅の行程に疲れておりましたが、大空を旋回する勇壮な姿にとても励まされました」
料理が運ばれてくるまでの間に少しでも場の雰囲気を和らげようと、席に着くなり話題づくりに励むことにした。
この部屋に来るまでに廊下を歩きながら必死で考えてきた話だったのだが、フェルナードの反応も頷くだけに留まり、後が続かない。
「このスープ、とてもおいしいです」
繊細な織り柄が見事な真っ白なテーブルクロスの上に、一皿めの料理が運ばれる。
何種類もの野菜を煮込んだ味わい深いスープに、イザベラは思わず素直な感想を漏らした。しかし、目の前のフェルナードは静かにスプーンを口に運ぶだけである。
「これは、アステート公国で採れるムクの実でしょうか。採れたてのものはきれいな赤色なのですね。エルゴルには乾燥させたものしか出回りませんから、新鮮なものは初めて食べましたが、みずみずしいですね」
今度は質問を交えてみる。反応はない。
「えーと」
イザベラのためを言うと、これらすべて彼女の独り言では決してない。
目の前に優雅に腰掛け、共に晩餐を過ごすフェルナードに向けて発した言葉の数々である。
笑うでもなく怒るでもなく、王子の表情が読めないイザベラは、なんとか王子の言葉を引き出したいと、話題探しに辺りを見回してみる。
彫刻で細工された木製のテーブルの脚は艶々に磨かれ、重厚感を放っていた。
だが、テーブルの脚が美しいですねと話題を振られて答えようがあるだろうか。少なくともその話題には、イザベラも頷くしかできなさそうである。
イザベラは挑むのをやめた。
「……ご馳走様でした」
結局、一度も言葉を返してもらえなかった。小さく頷いたりはしてくれるのだが、あくまでそれだけで、声を聞かせてもらえない。
どちらかというと無骨な料理の多かったエルゴルとは違い、その見た目も香りも優美な晩餐に思わず心が躍ったのだが、待っていたのは話しかけても返事をしてもらえない、随分と寂しい晩餐だった。
テーブルと同じ細工の椅子に腰掛けたフェルナードは、昼に身にまとっていた軍服から簡素な詰襟のシャツとズボンに着替えており、ずいぶんとリラックスしているように見える。
昼間、フェルナードの言葉を代弁していた従者も、恐らく今は席をはずしており、結果、イザベラがひとりでしゃべり続けるという状況に陥ったのである。
(話す価値もない、ということかしら……)
それならわざわざ晩餐を一緒にする必要もないのでは、と思わず口にしそうになり、イザベラはフェルナードをじっと見つめた。
すでに外は暗く、いくつかの燭台で照らされた部屋の中で、美しいフェルナードは妖しく浮いて見える。
まるで人をたぶらかす悪魔のような人だ。
暗い鉱山に住まい、人々を土の闇の中へと引き寄せる、美しくも妖しい悪魔。
「……フェルナード王子」
彼にとって、イザベラとの結婚も、この晩餐も、政治的な意味合いしかなく、王子としての果たすべき義務でしかないのかもしれない。
けれど。
「私はあなたの妻として、山脈を越えてこの国へと参りました。私が嫁いだからといって、父王の愚かな所業が帳消しになるとは思っておりません。私にできることでしたら、なんだってやりましょう。あなたが私を疎ましく思っても、私はこの国に骨を埋める覚悟で嫁いできたのです。……どうかそれだけは、お忘れくださいませんよう」
目の前の美しい悪魔がどのような人か知らない。言葉も交わしてもらえない。
けれどイザベラは、この男に嫁いできたのだ。
いうなれば、イザベラとアステートを繋いでいるのはこの男の存在だということ。
無視をするならすればいい。けれどそうしたところで、イザベラは消えたりしない。
フェルナードはやはり何も言わなかった。
恐れ多いことを言ってしまったと、震えながらも拳を握って耐えるイザベラを、彼はじっと見ていた。
けれど、何も言わずにすぐに部屋を出て行ってしまった。
なにか話そうと唇が動いた気がしたが、やはりそれもイザベラの幻想かもしれない。
「……これは、本格的に嫌われたわね」
そんなひと言がイザベラの口をついて出る。
無遠慮な女だと呆れられただろうか。
言葉を飾ることを知らない女だと思われただろうか。
それとも、母国を守るためにいけしゃあしゃあと媚を売る女だと、嫌悪されただろうか。
フェルナードの意図が全く読めない。この婚姻は言わばエルゴルの裏切りに対しての処置である。彼がこの結婚に乗り気でないのなら、晩餐を共にする必要はない。イザベラの歌が目的なら、さっさと歌えと命じてもいいくらいである。
しかしそれをするでもなく、晩餐は開かれ、しかし会話もなく、歌を要求されることもなかった。
イザベラがこの国に相応しいかを試しているのかとも考えたが、効率のいいやり方とはいえない。
(仲良くなれたらピアノを用意してもらいたかったのだけれど、まだまだ道のりは長いわね)
イザベラはお行儀悪く背もたれに身体を預けると、深い深いため息をついた。