Addicts
マンションの部屋から見える空はあかね色に変わっていた。
なるほど、「秋は夕方になる時間帯が早い」とよく聞くが、確かそうだ。
俺はビル・エヴァンスの曲を聴きながらあかね色の空を眺めた。
ビル・エヴァンスもジャズ好きなリスナーならば知らぬ者はいない、ジャズ界屈指のピアニストだ。
俺はジャズが好きで、部屋の中でジャズを聴くことが多い。
ジャズのピアニストで個人的にお気に入りなのはエロール・ガーナーもお気に入りだが、ビル・エヴァンスは好きだ。
ビルが奏でるピアノの音、それはまさに美しく、聴いていてリラックスには最適だ。
ラッキーストライクを一本吹かそうとした時だ。
隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。
俺の隣には母親と父親と娘の三人家族が暮らしているが、娘の方は真っ昼間でもドキツい化粧をしており、あの家族のもとには宅配便が来ることが多い。
宅配便の中身は恐らく娘の化粧品だ。
化粧品と言っても安物の化粧品でない。
ブランド品に値する化粧品だ。しかし、ブランド品ならば値段は高い。
家には請求書が度々届いているのは予想できる。
そもそもあの娘はプー太郎で、悪く言えば親の金で飯を食い、そして自分を美しく変化させて男をゲットするための化粧品を多く買っている。
ならば親が怒るのは無理のない話だ。
隣からは母親と娘の怒鳴り声がうるさいほど聞こえる。
やれやれ、うるさい怒鳴り声でビル・エヴァンスの美しい曲が台無しだ。抗議でもしてやろうかと思ったが、抗議したってしょうがない。
隣の部屋のバカ娘はどうしようもないバカ娘だ。
化粧をすることに命をかけ過ぎている。いや、命をかけているというよりも“中毒”と言った方がいいかもしれないな。あのバカ娘の場合は。
“中毒”。まぁ人間なんてはこの世に生きる生物の中で最も中毒に陥りやすい生き物だ。
俺なんかもタバコがやめられないタチだ。
俺は独身だから未だ許されることかもしれないが、金をタバコ代に使ってしまうことが多い。
そう考えると俺もあのバカ娘とさほど変わらないのかもしれないな店。
中毒か…。あぁ…あのバカ…。中毒さえ陥らなければ今頃…。
俺は友人のことを思い出した。
俺の友人に有名人がいる。そいつはファンが多くいるタレントだった。しかし、有名人に群がる者の中には悪い輩も少なからず存在する。
いつ頃だったか、俺はそいつと会った。
しかし、そいつは人が変わっていた。周囲からチヤホヤされ過ぎたが故に言葉の一つ一つに傲慢さがあり、常に自慢話ばかりしていた。
こんなこと言っていた。
「なぁ、有名人になるって最高だよな。無償で人気者になれるし、金だってガッポリ儲けられる。美味い物だって奢ってもらえる、ポルノ女優ともヤレる。しかも高級車だってもらえるんだぜ。まるで世界の覇者になった気分だよ」
俺はそいつの言葉を聞いて一つ思った。
そいつはもう後戻りできないところまで来てしまった、と。確かに人間というのは周囲からチヤホヤされるのが好きだ。
俺は周囲からチヤホヤされたことがそれほどなく、そいつが一時羨ましく思ったことがあった。しかし、そいつに群がってそいつをチヤホヤする輩はそいつを心から好いていた訳でなかった。
そいつをチヤホヤするタニマチの素性はわかっている。ペテン師だ。ペテン師は言葉が上手い。
そいつはペテン師が様々な貢ぎ物を用意する代わりに多額の金を請求していたのだ。
俺はそいつがタニマチとこれ以上かかわればいずれ身を滅ぼすことがわかっていたので、友人にタニマチと手を切れ、と言った。
しかし、もう手遅れだった。
そいつは俺の警告に逆上した。
「お前は羨ましいんだろ。妬ましいんだろ。だからそうやって言うんだろ。だいたい、あの人が危険だなんてなんの根拠がある? 俺は努力の末にここまで大きくなったんだ。俺のことにとやかく口出しするのはやめてもらいたいね」
友人はチヤホヤされ過ぎたが故にそれが骨の髄まで染み込み、警告を「ただの僻み」と解釈し、俺に逆上したのだ。
あの日以来、俺は友人と会っていない。いや、向こうから俺に「これ以上かかわるな!」と絶縁を言い出したのだ。
こうなったら仕方がない。たとえ友人であっても所詮は赤の他人。
俺は友人と絶交した。
それから二週間後のことだった。夕刊を見て俺は驚いた。友人が殺人を犯したのだ。殺人の動機は金欲しさだった。
タレントとして売れに売れていた友人だったが、些細なことで一般人とモメた末にブン殴って大ケガを負わせてしまったのだ。
友人に殴られた一般人は命に別状はなかったが、当たりどころが悪かったらしく、言語障害の後遺症を負ってしまったのだ。
相手に言語障害の後遺症を負わせてしまったのならば立派な傷害罪であり、たとえ有名人でも刑務所にブチ込まれてもおかしくはなかった。
だが、事務所の方が多額の賠償金を被害者に支払ったことで和解が成立し、友人はブタ箱送りは免れた。
しかし、それからだ。友人の人気はガクリと下がり、映画の出演は取り消し。仕事も少なくなった。となれば収入も減る。
ここからが友人の破滅の道への始まりだった。
人気がなくなれば周囲がチヤホヤしなくなるのは当たり前で、ペテン師は友人から摂取していた金を持ってどこかへとトンズラ。
しかし、チヤホヤされた時の味が快楽同然になっていた友人、その味を求めるようになった。だが、その味を求めれば求めるほど友人は人が悪くなっていく。
やがてその味を求め過ぎたことで殺人を犯してしまったのだ。
刑は未だ決まっていない。だが、死刑を免れたとしても仮釈放無しの刑を与えられるのはほぼ決まりだった。
俺は友人のことを考えてしまった。
しかし、友人が死刑になろうが一生涯ブタ箱で過ごすということになっても俺には知ったことでなかった。
中毒。人が陥る中毒は様々だ。俺はタバコ中毒だ。タバコは“健康の毒”というで世間では悪い価値観を抱かれている。
笑ってしまうな。俺が中毒者だなんて…。
やがて隣の部屋から怒声が止み、その同時にドアが乱暴に開く音が聞こえた。
あのバカ娘が飛び出したのだろう。
俺にはあのバカ娘が飛び出そうが知ったことでないがね…。
その一週間後のことだった。隣の部屋の家族がどこかへと引っ越した。引っ越したのは父親と母親だけ。娘の行方はわかっていないらしい。
しかし、うわさによれば金欲しさに詐欺行為をやらかしてブタ箱送りなったという。
中毒。それは人を奈落の底へ叩き落とす原因の一つだ。好きなこと、趣味があることが悪いことだとは言わない。
けど、人はほどほどに生きないとな…。
終わり