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愛されたいならそう言えば

作者: 栗原 光陰


 反省する。俺は彼女と同罪だ。他人は自分を映す鏡なら、俺もずるい人間なんだ。そう、ひとりになって気づいて、人通りの多い道を泣きながら歩いた。

 彼女はいつ見てもほとんどノーメイクで、それほどおしゃれでもない。よく見ればどこにでもいそうな小柄な女性だった。そういえば出会ってすぐに本人から、才色兼備で気の強い姉と親ばかな両親のせいで、甘えん坊で、ネガティブに育ってしまったんだと聞かされた。俺には手に負えないよ、フリーターでお金もないし。猫みたいに甘えてくるとは思ったけど、ペットを飼うのとは訳がちがう。手放すタイミングはいくらでもあって、冷たい態度はとれたはずだった。どんなにさみしがっていても、どんなにかわいい声で鳴かれても、どんなにすり寄ってこられても。


 そのころの俺は、役者を目指す人間が集まる専門学校を卒業したばかりで、簡単に言えば自称役者の卵、その実態は、何者でもない、「野中ともや」って名前のどこにでもいるフリーターだった。今になって冷静に考えれば、短大でもなんでもいいから、大学と名の付く学校に、親の金で入って卒業さえしてしまえば、履歴書に「〇〇大学卒」と書けたのに、と、今更ながらにもったいないことをしたと思う。大学、だなんて大層なもの、俺には合わないと、どういうこだわりなのか頑なに避けた結果、アルバイトの面接官が苦笑いするしかない、最終学歴となってしまった。彼女とは、そんな宙ぶらりんすぎる俺のいくつかのアルバイト経験のなかの一つの、ジーンズショップのバイト仲間として出会った。

 夏の暑さが落ち着き始めたころ。二十歳で新人のアルバイトが入ったという噂を聞いて俺は、せめてマナーはちゃんとしてる人だったらいいなとか、すぐに辞めたりするような人だと困るなとか、そんなことばっかり考えていた。そんな俺のまえで、恥ずかしそうに頭をさげる彼女はあまりにも純粋そうでかわいくて、丸い頬が柔らかそうで、なんでも受け入れてくれそうな、そんな夢みたいな女性に見えてしまった。そのときはほんとうに彼女なら、俺のことを受け入れてくれるんじゃないかと、勝手な夢を見てしまったんだ。

 最初は自己紹介からの、簡単な質問。徐々に、休日はなにをしているのか訊きだして、彼氏がいるのかどうかを探っていく。

「映画を観るのが趣味なら、最近は何を観たの?やっぱり映画館で観るの?」

「映画館にも行きますけど、レンタルして部屋で観たりもしますよ」

「たとえばどんなの?なにかおすすめとかあったりする?」

「野中さん、あの、忙しくなってきたんで、あとでまた話しましょ?」申し訳なさそうに視線をそらした彼女の先をよく見ると、店内のフロアは客でいっぱいで、社員の一人がこちらを睨んでいた。

 やばい、だいぶ前のめりになっていた。隣で見ていたバイト仲間から、なにを浮かれているんだと茶化された。自分が変だ。なにがそんなにいいんだろう。どこにでもいそうな女性なのに。

 そこから、お互いの退勤時間がかぶる日が来るまでの俺は、とにかく情報を集めることに集中していた。

 苗字がオオモリだということは知ってていたが、まだ新人で名札がないため勝手にその読みから漢字で大森と書くのだろうと思いこんでいたが、本当は「大盛」だった。かわいそうに、子どもの頃なら確実にいじめに合いそうな漢字だ。だけど下の名前は平仮名で「さやか」だと知って、さぞかし可愛がられて育てられたんだろうなと、想像した。

 そして、どうやら最近失恋したらしいという情報は、彼女と最初に会った日に俺のことを隣で笑っていたバイト仲間の矢野から聞いた。「最初の彼氏だったからショックがなかなか抜けない、みたいなこと言ってたな」と、話す矢野は片手を差し出したかと思うと「ジュース一本で勘弁してやるよ」だなんて鼻で笑って帰って行った。

 ここで、やめておけばよかったのだと、今では思う。

 俺も恋愛経験がそれなりにあって、失恋したばかりというのはどこもかしこも弱る。初めての恋愛で、初めての楽しい経験をした後だったらなおさらに、弱るし、人によってはモラルが欠如してしまう。あくまで人によって、であって、モラルの欠如具合もそれぞれで。俺の場合は、ひたすら自転車に乗ってどこまでもこぎ続ける。ひどいときは寝ずに県を跨いだりもした。だけど、迷惑をかけた相手はバイト先くらいで、そのときは確か、申し訳ないとは思ったが仮病を使って休んだ。もしかしたら親しい数人は、俺の気持を汲み取ってくれていたかもしれない。

 俺程度のモラルの欠如なんて、かわいいものだと思う。これを女性がやったらちょっと危ないけど、よっぽどのことがなければ無事に自転車旅行から帰ってこられるはずだ。

 退勤時間がかぶらなくても、数時間店内で一緒になることはあって、彼女の様子からするとかなり普通に見えた。それこそ本当に最近失恋したんですか?って聞きたくなるくらいに、まわりにも愛想よくふるまっていたし、接客の合間をぬった俺の急な質問にもきっちり返してくれる。特別なミスをして店長に怒られることもない。新人だから、まだまかされる仕事は簡単なことばかりではあるけれど。

 最初に食事に誘ったのは、もちろん俺だったけど、その後部屋に行きたいと言い出したのは彼女のほうからだった。

 やっとのことで職場から外へ、プライベートな空間へ連れ出すことが出来たと舞い上がっていたところへ彼女からの「部屋に遊びに行きたい」という言葉。ここも、ひとつのターニングポイントだった。だけど、舞い上がっていた男の気持ちとしては、もう、ただただうれしくて、だけど焦ってはいけないし、とにかく冷静に振舞おうということだけを注意して、部屋へと案内した。

 彼女が最初に俺にくれたもの。おでこへの優しいキスだった。それはもう、ほんとうに優しい、そっと触れるだけのキス。

 アパートに着いてから、緊張していた俺がなにをしていたのかあまり覚えていない。たぶん、男友達が来た時もやるような、普通にお茶をだして、クッションをすすめて、他愛無い会話をしていたのだろうと、推測される。そこからどうしてそうなったか、彼女は泊りたいと言い出し、朝は必ずヨーグルトが欲しいんだよね、と言い近所のコンビニへ買い出しに行くのを付き添った。来客用にと、一人暮らしを始めた時に買っておいた布団一式を押し入れから取り出しながら、俺は用意周到な自分自身に感謝した。

「ありがたいけどわたしは、ベッドで一緒に寝てもいいんだけど」と言う彼女は、来客用の布団の上に座り、膝を抱えながらこちらを見上げていた。

 貸してあげたジャージはどうしようもなく彼女にはサイズが大きくて、さっきからずっと、一生懸命腰ひもをきつく結ぼうとしてはうまくいかないようだ。申し訳ない。女性用のジャージなんて持ってないし。こんなに早く、彼女が俺の部屋に泊るだなんてことになるとは思わないじゃないか。だいたい、まだ告白もしていない、付き合ってもいない。

 俺は彼女のほうをあまり見ないように心掛けながら、バイト先に持って行っているいつものカバンの中から音楽プレイヤーを取り出した。疲れた時に聴く用に、以前レンタルして取り込んでおいたヒーリング音楽を選択し、リピート設定する。イヤホンを耳にはめようとして、遠慮がちだがあきらかに強い意志を感じる視線が俺にまとわりついていることに気がつく。でも俺は冷静を装いながら、使い慣れた寝床であるシングルベッドに腰かけて、一呼吸おいてから、声をかけた。

「なに?」

「え?なにが?」

「なにがじゃなくて」無意識に溜息をつきながら、俺は音楽プレイヤーを枕元において彼女を見る。「もうそろそろ寝ないと、俺明日早番なんだよね」「あ、うん」さきほどの視線から感じたのとは違って、笑顔で答える。なにを考えているのか、読み取れない。

 何をどう納得したのか、彼女は大人しく布団にもぐりこみ、自分のスマートフォンの電源を切ろうとしていた。

「わたしは明日休みだよ?」仰向けで布団から顔だけだして、笑顔で言う。俺も休みだったらよかった。心底そう思うけども、急に仮病を使って休むのは俺の性格上無理なことだ。そういうことはしない。したくない。

 どうも、俺がアパートを出るのにあわせて起きようという緊張感がまるでない彼女を見て、「朝起きられなかったら、スペアキー使ってくれていいから」説明しながら立ち上がり、玄関近くの壁にかけてある鍵の定位置へ。一人暮らしのワンルーム。隅から隅に移動しても、数歩でついてしまう。それなりに料理はできる、狭いけど綺麗に使っているキッチン、あとはユニットバスがあるくらい。

 スペアキーと言っても、わざわざどこかに大事にしまっておくと逆にどこへやったかわからなくなりそうで、大家から預かってすぐキーホルダーに二本ともつけたままにしていた。玄関のほうを向いたまま、鍵の一本だけをはずす。と、彼女が布団からでてこちらに歩いてくる気配がして振り向こうとした。それよりも早く、彼女は俺の腰に背後から手をまわしていた。お手上げだ。俺は、その場のノリでとか、勢いでとか、なしくずしとか、そういうのは性格上無理なんだ。そういうことはしない。したくない。なのに口からでる言葉はまったくもって彼女の雰囲気に流されるばかりで、心底なさけない。

「俺、明日は十四時あがりだからそれまで好きに過ごしてくれてても大丈夫だよ」

「じゃあ、待ってようかな」

「帰ったらすぐスパゲッティ作るけど、一緒に食べる?」言い終わるやいなや、彼女は「ほんとに?」と嬉しそうな表情を見せんばかりに、俺の正面にまわりこんで、今度は俺の胸に抱きついて来た。もうお手上げだ。

 俺はそこからとにかく冷静に照明を消して、ベッドにたどりつくことだけに残りの気力をつかおうと集中した。だから、ベッドわきの間接照明だけになった薄闇のなかで彼女が俺のおでこにキスをしたことは、まるで自分がつくりだした妄想のように思えた。彼女の身長で、俺のおでこになんて簡単に届くはずがない。あとから考えて、俺がベッドに腰かけたときだったんだろうと理解した。彼女はかなり小柄で、甘え方が猫みたいだと思った。自分がどういう態度をとれば男が落ちるか、よおくわかっているみたいだった。

 俺が最初にあげたもの。敷布団での一泊、昼食スパゲティ付き。

 翌日、彼女は俺が出かける直前に目を覚まして、「野中さんのベッド、気持ちよさそう」とだけつぶやいたかと思うと、玄関を閉めるときには俺がさっきまで横になっていたベッドに勝手にもぐりこんでいて恥ずかしくなった。このまま放っておくのは危なくてしょうがないので、外から鍵をかけて出かけた。もちろん、スペアキーはテーブルの上に置いたまま。

 こんな、ただされるがまま受け入れ、甘やかすだけの状況とはいえ、他人からしたらそれはもう恋人同士がやることでしかなく。俺から、それこそ猫をかわいがるみたいに触れれば嬉しそうにして、もっとしてくれと言わんばかりの態度をとるばかりの彼女。なにを伝えるべきなのか。わからなくなりそうなくらい、彼女は自然と俺のそばにいて。それでも、話さなければときちんとした告白をしたのは、そこから一週間後くらいだった。

「付き合っている人、みたいなのはいるよ」と言いながらまるで自分のもののように、俺の部屋のクッションを抱きしめて手元ばかり見ている。

 俺が黙っていると、ゆっくりと見つめ返してくる。その大きな目は「なにか問題でもありますか?」と言いたげだ。

 俺がそのときどんな表情を彼女に向けていたか、ほんとうのところはわからない。ただ、そこから少しの沈黙と溜息を合図に、俺にとってはキスしたくてしょうがないぷっくりとした彼女の唇が、ゆっくりとひらいて、答えをつむいだ。

「はじめて両想いになって、付き合った相手のことをわたし、ばかみたいにそれこそ少女マンガみたいに信じていて、このまま何年も何年も一緒にいるんだろうなってけっこう本気で信じてた。ほんとうばかみたい。そんなうまくいくわけなかった。そもそも家族とだってあんまり仲良くないし自分以外の人を思いやったりするのほんとに出来ないわがままなままで育っちゃったから。べつに、家族がとくべつ悪いわけじゃないの。たぶん世間一般でいうところの普通の家族。悪いのはわたし。最初の彼氏とは二年目くらいからどんどんすれ違ってケンカばかりになって、わたしが彼のために料理を作っても一緒に食べてくれなくなった。かなしくない?二人分作ってるんだよ?かまってくれない時間が多くなって、さみしいさみしい言ってたら、彼は劇団辞めちゃったの。相談もなしに、急に言うの。おまえがさみしいさみしい言うからやりたいこと一つ辞めてあとはバイト頑張ろうかと思ってだって。そんなことされてもうれしくないし、当てつけみたいに言うんだよ。わたしのせいでやりたいことできなくなったみたいに。その話のときも彼、わたしのこと見てないの。スマートフォンでSNS見ながら言うの。ちがうの。結局悪いのはわたしなんだよ。それで嫌になってわたしから別れるって言った。そしたらそこから、毎朝泣きながら起きるの。彼の夢ばかり見ちゃうの。なにしても楽しくないし、ずっとぼんやりしていてあんまりそのころのこと思い出せないし。いつの間にか、彼の友達で知り合いだった男の子と仲良くなって、そういう関係になっちゃったの。優しいし、話聞いてくれるし、わたしのこと大事にしたいって言ってくれてる」

 話し終えたかと思ったら泣きながら、わたしがいけないの、を繰り返す。

 

 そこから数日どんな風に自分が毎日を過ごしていたか、あまり思い出せない。ただしくは、理性では思い出そうとするけれど自分のまんなかにある強靭ななにかがそれを許さない。どうにも疲れるなと感じ、視界がひらけたようになったのは二週間が経ったころ。その時点で朝起きたのがいつものベッドで、すぐに気になったのはバイトのシフトであることから、警察の世話になるような問題を起こすなど、無職になるような失敗はせずにすんでいたということだ。そういえば、記憶の端々でいつも通りに働いて家事してたようなことはなんとか思い出せる。彼女とは、どうしただろう。会っていたのか。

 いつもならベッドわきに置いているスマホがない。仰向けになりながら手をのばしてみるが、シーツがこすれる音がするだけ。左手をのばすと指先に触れるのは壁で、右を向けば反対側の壁にはデスク。シフトなど大事な予定だけ書きこんでいる卓上カレンダーに眼をこらすと、今日の日付にはなんの書きこみもない。バイトは休みということ。助かった。ゆっくりとこれからのことを考えられる。天井を見上げながら深呼吸して、「いったいなにを考えるんだ」と寝起きのかすれた声で自分に問いかけた。自分で自分に心底あきれる。

 いつの間にか二度寝していたらしく、壁掛け時計が最初に起きてから二時間経過していたことを静かに教えてくれる。変な夢を見ていた。もっと楽しい夢を見られたらいいのに、現実にやらなければならないはずのことを、夢のなかで実行しているだけの内容。ゴミだしをして、野菜ジュースを飲む。冷凍庫のなかの御飯を温めて、食事を用意する。たまにはおかずを作らないとと、買い出しリストを書き留める。いつも飲んでいる野菜ジュースの紙パックが溜まっていたので、いつも行くスーパーの資源ごみ回収ボックスまで持って行かねばならない。掃除もさぼっていたはずだから、窓をあけながら風を入れて、部屋中を綺麗にする。だけどそれは全部、全部が夢で、部屋のなかはなにも変わってはいなかった。

 そういえばあの朝、このベッドに彼女は、大盛さんはもぐりこんで、気持ちよさそうにしていた。俺は、彼女のことなんてなにも知らない。ただ、泣き虫で甘えるのが上手で背が低くて小さくて、かわいくてかわいそうでひどい人。ずるい人だ。スパゲティを作って食べさせていたとき、彼女は唐突に、自分の家族のことを話し始めた。両親はなぜか娘たちには畳の部屋に布団で寝かせるのが良いとしていて、ベッドは与えられなかったらしい。だけど大人二人はダブルベッドで仲良く寝てるの、と愚痴をこぼした。たまに、風邪をひいたときなどは広々としたそのベッドをひとり占めできたんだと、うれしそうに言って、笑った。俺の部屋のベッドでよければ、いつだって眠ればいい。俺は来客用の敷布団でいい。

 一人暮らしは、まず音が恋しくなる。たいして興味がないテレビ番組しかやっていなくても、とりあえずスイッチを入れる。遅い朝食となってしまったらもう昼食も兼ねて、ただ米に納豆というわけにはいかず、近所でたまに利用するパン屋で多めに買い物をして帰宅する。そのときたまたまスイッチをいれて放送していたのはドラマの再放送。どうでもいい。自分が虚しく感じなければ、ドキュメンタリーだろうがバラエティだろうがお堅い報道番組だろうがかまわない。食欲が勝れば、医療ドラマでも気にせず観られるほうだ。パン屋からアパートまでの途中にあるスーパーで買ってきた、野菜ジュースのストローをさし込んで、軽く横に振った。口をつけようとして、俺のほうが一時停止になった。専門学校で一緒だった奴が、テレビ画面のなかにいる。あわててチャンネルを変えた。でももう遅い。たしかに、あいつだった。続きを観たいという興味と、いや、これ以上観たら自分が虚しくなるだけだと、客観視している自分が言う。

 べつに、ものすごく向いていなくて恥をかいて、大失敗したというわけでもない。目立ちたがり屋の人見知り。自分のような性格で、明るい人生を歩みたいなら、人前にたつ仕事は避けたほうがベストだろうと悟った。実際、裏方の真似事をやっているときのほうが気楽で楽しく感じたんだ。選択としては間違っていないはずだ。だけどたまに、無性に芝居がしたいと思うときがある。どこかで聞いたことがあるが、一度でも、観客に喜ばれる経験をしてしまったらそいつは舞台から離れる事はできない。それほどに、舞台というのは感動するものなのだ、と。憧れの役者さんが出しているエッセイなど、図書館で借りたりして、いろいろと読んだ。俺みたいな性格だけど、地道に活躍の場を広げて今や出演作品は多数、なんて人もいる。うまくやれた奴がいたからといって、みんながみんなそううまくはいかない。人それぞれに向き不向きがある。夢をみるときは、周囲の人間に「成功するまでやれば成功する」とか「やってみないとわからない」とか言っておいて、夢をあきらめるときはその理由として、周囲から幾度となく聞かされた反対意見と似たような言葉で、自分を言いくるめて終わらせる。それが将来の自分のためになる選択だったのか、今はまだわからない。

 大盛さんの元カレは劇団を辞めたらしいが、俺は劇団にさえ入っていなかった。俺がいたのは専門学校であって、劇団ではない。いくつか受けたが、面接で落ちたり、書類選考で落ちたり、実技試験で落ちたりした。そこからしてもう、俺は大盛さんの元カレには勝てっこない。そういえば劇団名は訊いていない。もしかしたら俺が思っているような有名な劇団ではないのかもしれない。だがどちらにせよ辞めてしまったわけだから、彼の演劇に対する情熱はさほど大したものではなったのかもしれない。そこまで考えて、大盛さんはどこでその彼と出会ったのかという疑問に行き着く。そして、今彼女が「付き合っている人、みたいなの」とは何者なのか。

 そこにあることはわかっていたが、わざと見ないふりをしていた。卓上カレンダーの近くに電源が入っていないスマートフォンが、まるでただの背景の一部となって真っ暗な画面を上にむけている。彼女はどうしているだろう。俺に連絡をいれてくれてただろうか。この二週間のあいだ、たぶんバイトですれ違うこともあっただろう。俺は食べかけのパンをビニール袋のうえに置き立ちあがると、覚悟を決め、それを手に取った。


 ジーンズショップで働いているというと、経験のない人からしたら客に買わせるために口が達者でないといけないのではないかとか、その店の商品を着なくてはいけないから大変なのではと思われがちだが、俺がいるところはノルマなどそれほど厳しいものではなかった。

「やっと人間の顔にもどったな、おまえ」隣で伝票処理をしていた矢野に顔を覗きこまれたかと思うと、唐突にそんなことを言われた。

「ちょっと待て、だったら俺はいままでどんな顔だったんだ」

「ゾンビか妖怪」

 セールの時期も終わり、平日の昼どきで店内は客がゼロになって事務的で地味な作業をするのにもってこいだ。売れ残った商品など本部からの指示でここより大型店に移す作業がある。店内から該当する商品を集め、タグを専用の機械で読み取ってはダンボールに詰めていく。俺はわりとこの作業の、ダンボールに畳んだジーンズやシャツが箱いっぱいになると成果が目に見えてわかる感じが好きで、矢野の行動をいちいち気にしていなかった。

「あんまりにも顔色悪いからさ、逆に声かけづらいのなんの」

「それは気を使わせて申し訳なかったです先輩」

「いつもため口のくせに、こんなときだけ後輩面するなよ野中」ふふんと鼻で笑ったかと思うと、「しょうがないな、相談にのってやってもいいが俺は車だからお前もノンアルコールだけしか飲めないからな」

「炭酸ジュース?」

「十分だろうそれで」

 そこから矢野と、ノンアルコールの焼酎がなぜ居酒屋にないのか自分たちの想像だけでしばらく盛りあがった。きっとインターネットで検索してしまえば理由が一発でわかってしまうだろうに、俺たちはあえてそうせず、次に客が自動ドアをくぐってくるまでの時間を手は止めずにしゃべりつづけた。

 そんな会話をしておきながら、矢野の誘いを断って俺は閉店作業後まっすぐにアパートに向かった。

 自転車に乗って、四車線の大通りから脇道に入ると途端に灯りが少なくなって、こんな時間まで彼女を待たせていることに申し訳なくなる。アパートの前についたところで、長袖シャツ一枚ではもう、さすがに寒くなっていることに気がつく。とくにこの時間だとそうだろう。急いでいたのか、首筋が汗ばんでいてあわててハンカチでぬぐった。季節の変わり目は、気をつけないと風邪をひいてしまう。

 昨日、スマートフォンの電源を入れると、大盛さんからのメールが一件だけ届いていた。元気ですかと、こちらの機嫌をうかがうだけの短い文章。それは、ずるいことをしている自分自身を理解したうえでのことなのか。いや、もしそうなら一切の連絡を絶つのが告白してきた男への礼儀だろう。彼女は、世間一般でいうところの彼氏もち、ということなんだから。それとも、職場を変えるわけにはいかず、円滑にこれからも仕事仲間でいようという気持ちのあらわれなのか。きっと、彼女のことだ、あまり問いただそうとするとまた「自分が悪い」と繰り返して泣くのだろう。そうはしたくないが、会って話したい。

 三年前の二十歳になってすぐ、役者を目指し、一人暮らしのために初めて自力で部屋をさがした。この安アパートのチャイムを自分が押す日が来るとは思っていなかった。

 大盛さんがはじめてこの部屋に泊って、バイトから帰って来たときは「もしかしたらもう自分のアパートに帰ったかも」と思いチャイムは押さず、自分のカギを使った。でも今夜は、確実に彼女が俺の部屋のなかで俺の帰りを待ってくれている。それが、とても不思議に感じた。

「おかえり」と、声がして背の低い彼女がドアの隙間からこちらを見ていることに、気がつくのに少しかかった。

「なに、してるの?」

 きょとんとした目で、俺を見上げている。チャイムを押そうとしていた右手の人差し指が固まる。

「いや、よく帰って来たの気がついたね?」

「だって、足音がしてドアの前でとまったから」当然といように、俺のためにドアを開いて部屋にあがるようにうながしてくれる。

「まったくの他人だったらあぶないよ?」

 俺は靴を脱ぎながら後ろ手にドアのカギを閉めた。なんでこうも他人を信用するのかわからない。もっと、男というものを疑ってほしい。そもそも、彼氏もちの大盛さんがこうして己に好意をよせている男の部屋に二人きりになることをなんとも思っていないのがおかしい。

「だって、このまえと同じ靴音だったし」

 この前と言うのは、最初に泊ったときのことを言っているんだろう。三週間以上まえじゃないか。考え事をしている俺のことなどお構いなしに、彼女はラグマットに座り、クッションを抱きしめている。なんだかもう、その表情はいまにも泣きだしそうに見えて不安になる。べつに、尋問するつもりで会いたいと言ったわけではないのに。

「ごめんね?こんな時間に。もう、なにか食べたよね?」

 俺はカバンを、デスク用の椅子に置いて、出来るだけ自然にと自分に言い聞かせながら彼女のふわふわ揺れている髪を、優しくなでた。俺を見上げるその瞳は少し落ち着いたようで、ほっとした。

「ともくんは、今から食べるの?」「は?」今なんて言ったんだ。俺の名前が「ともや」だからか?「あ、だめだった?」ローテーブルをはさんで向かいに座ろうとする俺の顔を、また不安そうに見てくる。

「べつに、いいけど」

「いいけど?なに?」なんでそんな、名前の呼び方くらいでその大きな目をさらに大きくして、俺のことを見つめるのか。そう理性では考えながらも、一番気にしているのはきっと俺のほうだ。大盛さんの視線から逃げるように、俺は壁掛けの時計を見上げる。すでに二十三時をまわっている。

「さすがにもうこんな時間だし、なにも食べないよ」

「そう」

「マンションの暗証番号、だいじょうぶだったんだね」

「もう覚えたから心配してくれなくていいよ」

「風呂はユニットバスのくせに入口だけちゃんとしてるんだよね、ここ。面倒くさいでしょ?ありがとね、来てくれて」

「ううん」だんだんと、元気がなくなっていく声。いまさら遅いよとでも言わんばかりに、もう目をあわせてはくれない。

「だいじょうぶだよ、これだけ渡したらちゃんとアパートまで送っていくから」立ち上がり、俺は台所に置いていた平らな箱を手に取る。「え?なに?」大盛さんまで立とうとするので、いいからいいからと座らせて、テーブルに箱を置いてからフタを開ける。

「焼き菓子。昨日休みだったから作ってみた」

 アーモンドヌガーっていってね、と説明してみるがそもそもこちらの話を聞いているのか、彼女はただただじっと箱のなかを見つめている。その口は今にも食べたそうに半開きで、まだ食べるまえなのに口角があがっていて、その表情を見ているこちらがうれしくなる。ほんとうなら、彼女が俺の彼女ならと、その唇に触れる自分を想像してすぐにやめた。

「これほんとうに手作り?」はじめに出た言葉がそれで、笑った。「ほら、端のほうなんて少し焦げてるでしょ?お店で買ってきたらこんなのは入ってないでしょ」

「この、上にのってる甘そうなのは?」

「クッキー生地を一度焼いて、そのうえにアーモンドと蜂蜜と生クリームを煮詰めたものをのせて、もう一度焼いて冷ましてからカットして、出来上がり」俺は本棚からお菓子のレシピ本を取り出し、ひらいてみせる。

 しばらくして、「ねえ」とこちらを見つめる彼女。壁掛け時計はもうすぐ日付が変わることを示している。それでも、食べたくてしょうがないんだろうなとわかりすぎるくらい、わかりやすい顔で唇をかむ様子に、俺は「いいよ」と少し笑いながら、答えた。

 結局その日も彼女は俺の部屋に泊っていった。


 それからも俺は、なにひとつ大盛さんに真意を確かめることはできないまま、デートに誘いつづけた。

 そろそろ厚手のコートが必要という時期になって、ライブのチケットを二枚取った。もちろん、彼女には友人がいけなくなったからチケットが一枚余っていると嘘をついた。彼女が断る理由がないように。

 最初のころは、お互いのアパートの中間地点にあるカフェで会っていた。出会って一か月以上経ったころからは、レンタルした映画を二人で観ながらお酒を飲んだりして過ごすことが多くなった。だけど、自分の理性を保つ自信が日々薄れていくのを感じて、夜にアパートで会うのはやめようと決めた。大盛さんの態度だけを見れば、「あなたにならなにをされてもいい」と実際には動いていないその唇が囁いているのが聞こえてくる。

 お日様がさしている時間に、ライブ会場近くの大型のショッピングセンターのなかを他の客とすれ違いながら歩いていると、平和でしかない。新しいコートが欲しいという大盛さんに付き合って、バイト先とは雰囲気の違うショップで服を選ぶ。ライブ前に食事をすませようと、洋食のお店に入った。

「ちょっと早いんだけど、クリスマスプレゼント」

「だいぶ早いよ」

「俺、年末には実家に帰省するから」

「あ、そうなんだね」と俺からのプレゼントを手にしながら少しさみしそうに大盛さんが答える。クリスマスにはきっと彼氏と会うんだろうなと思いながらも、それは声にはださないでいると、「ありがとう」と遠慮がちにこちらを見た。

 ずっと彼女を見ているとたまに、ずるいことをしている自分自身に気づいてどうしたら良いのかわからなくなっている節がある。わたしが悪いの、という彼女の口癖もそうだ。わざと演じているのとはちがって、急に暗闇に落っこちたみたいに落ちこんでしまう。

「いま開けてみたら?」

「え?いいの?」

 包装紙をあける時点で、もうその中身が本であるのは形からしてばればれだ。

「えっと、絵本?」

「ちょっと啓発本みたいな、なかに書きこめる部分もある」

「けいはつ?」

「そっか、あんまりこういうの買ったことないか」テーブルのうえで彼女の小さな手のなかの本をめくって、説明する。

「生活するなかで、嬉しかったこととかほっとした瞬間とか、ほらこのページの絵みたいに」と言いながら白紙のページから次のページをめくる「駅のホームで落としたICカードを知らない人が拾ってくれる、とか」

 絵の中の主人公がカードを受けとろうとする手のアップから、主人公の視界に映る光景が水彩画で温もりを感じる雰囲気に描かれている。

「ふーん」

「日記とか手帳に書くのもいいけど、こういうのに書き込むのも面白くない?」彼女に見えるようにパラパラとその先をめくっていくと、白紙のページの途中にときどきエッセイのような短い文章と、日常風景を描いた絵が載っている。最後の白紙のページのすみに、「ほら あなたは こんなにも あいされてる」と手書き文字が印刷されている。

「きれいな絵だね」

 書店のロゴが入ったビニール袋に本をもどし、彼女はそれをカバンのなかにしまった。


 一人暮らしのアパートから、片道四時間以上かけて地元に帰省した年末。友達と居酒屋に行って解散まえに、あわててヘッドライトを頼りに駐車場で撮った写真の俺は、なんの間違いか心霊写真なのか、右腕が写っていなくて焦った。都会でなにかに憑りつかれたのではないかと、友達は馬鹿みたいに茶化して笑い話にしようとしてくれていたのに、逆にいらいらしてしまった。

 大盛さんとライブを観たあの日、彼女は年末も自分のアパートで過ごすと言っていた。彼女の実家は近所にあっていつでも帰れると普段から話していたけど、バイトのシフトからすると俺と出会ってからの彼女は長期休暇をまったくと言っていいほど取っておらず、そのことがどうにも気になった。

 俺が気づかないあいだに、実家に顔をだしているのかもしれない。俺がとやかく言うことではないが、どんな親子関係であれ、さみしがっているに決まっている。両親に心配をかけるような女性には、なってほしくない。

 実家で両親とこたつに入りながら新しい年を迎え、テレビ画面のなかが盛り上がっているのに合わせて、三人でなんとなく挨拶をかわす。今回の母はなぜか深夜からやる気に満ち溢れていて、いままで行かなかったはずの近所の神社への初詣へ俺を強引に誘った。

 俺が風呂から出ると、先に準備していた母が玄関で靴をはいたまま座って待っていた。あわてて大盛さんに新年のあいさつだけ、メールを打って送信した。

 一人暮らしのアパートに戻る日。駅ビルで職場のお世話になってる人たちにお土産を買っていくと言ったら、なぜか父がついて来た。

「そのバイト先でもう就職しちゃえばいいんじゃないか?」と俺のキャリーバッグを持ちながら繰り返し言ってきた。これが目的だったようで気が重い。

「彼女とかいないのか?」

「うーん」

 荷物をかわりに持ってくれるのはありがたいが、終始こんな会話ではぐらかすのがやっとだった。新幹線の指定席に座るとやっと少し落ち着いて、スマートフォンを確認する。大盛さんからこの帰省中、一度も返事がなかった。


 俺のバイト先は一応全国チェーンのジーンズショップだけあって、それなりに休憩室も広い。

「これだけ?」と、せっかく買ってきた俺の地元のおいしい水で作った炭酸水ペットボトルをこれでもかと握る矢野の声がひびく。もちろん、従業員はほかにもいるので、全員がひとつは食べられそうな小分けのお菓子も買ってテーブルにひろげてある。

「このお菓子も食べたらいいじゃん」

「どれだけいつもお世話してやってると思ってんだよ」言いつつも、ペットボトルのフタを開け、お菓子にも手を伸ばしている。

「三日から営業してたんだっけ?」

「そうだよ、おまえが呑気に帰省してるとき俺たちは、毎年恒例の福袋に並ぶ行列相手に大変な思いを」そこから先は、お菓子を食べながらしゃべるので、ぜんぜん聞こえない。

 午後からの出勤まえに早めに来た俺とちがって、朝から働いている矢野は短い休憩中でどうもストレスがたまっているらしかった。

「残ってたら買おうかと思ってたけど、さすがにもうぜんぜんだね」

「ベルトとかキャップが入ってるグッズのみの福袋なら、ちょっと余ってるけど」

 パイプ椅子に座っている俺とちがって、矢野は立ったまましゃべり続けるので話しづらい。だまって隣の椅子をひくと、矢野は自分の腕時計の盤面を指した。

 しょうがないので出来るだけ小声で「大盛さんは? 元気に働いてた?」と訊いてみるが、「どうだったかな、普通だったと思うけど」とはっきりしない返事だけ。

「会ってないの?」

「明日久々に会うつもりなんだけど、メールの返事がまだ来なくて」

「結構忙しかったから、疲れてんじゃないか?」

「そんなに何日も働いてたわけでもないし」

 休憩室の壁にはシフト表が貼られている。大盛さんは三日から出勤して、週に四日か五日働いて他は休んでいるし、今日明日と連休になっている。

「あー、もうあとは自分で聞いてくれ」ペットボトルを冷蔵庫にしまうと、矢野は休憩室を出て行った。

 翌日、二人が常連となっているカフェに彼女があらわれたときは、約束から一時間以上経っていた。

 人ひとりが通れるくらいの狭い通路にテーブル席が三組。外観は新しくて入りやすいが、メニューだけ見るとカフェというよりも喫茶店と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。それでも二人は断固としてカフェと呼ぶことにしていた。

 俺を見つけた大盛さんが、うなだれたまま静かに隣にすわった。「ごめん」と言われて「いいよ」と返す時間が数分つづいて、彼女がまだなにも注文していないことに気がついた俺はメニューを目の前に差し出す。それでも気がつかない様子を見て、彼女がいま飲みたいものを予想する。

「ホットココア飲む?」

「あ、うん」

「だいじょうぶ? 体調悪い?」

「うん、ごめん」

 どっちの意味でとらえればいいのかわからない返事に困っていると、彼女はふいに顔をあげてあっけらかんとした笑顔を見せて、文字通り「あはは」と声に出した。

 両腕をテーブルに投げだして、また下を向いてしまった。大盛さんは、普段から時間をきっちりまもるタイプではない。いままでも、五分くらい遅れてくるのは当たり前で、バイトもぎりぎりにタイムカードを押していることが多いと、自分で話していた。この前のライブに行ったときも、もっとゆっくりショッピングセンターをまわる予定だったのに彼女の遅刻が原因で予定どおりとはいかなかった。でも一時間の遅刻は、今日がはじめてだった。

 いつさわっても綺麗な髪が、今日は少し傷んでいる。店内に二人だけいる他の客の目など気にせず、何度もなぐさめるように撫でた。

「彼氏となんかあった?」

 いつもなら俺からは絶対に訊いたりしない。彼女からたまに、愚痴ともなんともとれない内容をぽつりぽつりと話してくることはあった。不満があるならさっさと別れればいい、と思っても言葉にはしないでいたが、態度にはあらわれていたと思う。そこまで心のひろい人間ではないんだ、俺も。

「注文してくるね」とだけ彼女の耳元でつぶやき、俺は一人しかいない店員のもとへ歩いて行く。ほんの数メートル離れるのも、心もとない。彼女の分の水をもらって、手早くテーブルにもどるとなにひとつ変わっていない。

「もう帰る?」

「帰らない」

投げだした腕はそのままに顔をあげた。

「まだあけましておめでとうございます言ってないし」

「へんなとこ真面目だね」

「よく言われる」

「そういえば昨日矢野に会ったときお互い言わなかったな、その挨拶」

「混んでた?」

「うん、まあ、それなりに」

「おつかれさまです」

 そう言うと、やっと少し、普段通りの俺が好きな笑顔をみせてくれた。

「あのさ、いま、思いついたんだけど」言いながら自分でも戸惑う。なんでこんな気持になるのか。「どんなことがあっても離れたくないから、そうだな、たとえば二年後とか、二年後の今日、一月十一日、必ずここで会うっていう約束をするのはどうかな?」

 大盛さんはいつのまにか姿勢をただし、まっすぐにこちらを見ている。俺の唐突な思いつきにどんな返事をしたら良いのか迷っているようで、すこしの間があってから、目を細めて楽しそうに笑った。

「おもしろいね」

「成人の日」

「そうだっけ?」

「正確にはちがうけど」

 狭い通路を会計の終えた客が一人出口へと歩いて行き、店員がホットココアを持ってきた。それを「あったまる」と言いながら飲む大盛さんの表情に、俺のほうがほっとする。

「でもさ、二年後だとあっという間すぎるから、五年後にするのはどう?」と彼女が提案してきて、その後はしばらく俺の地元でのことなどを話して、二人で店を出た。

 彼女のために買っておいた、地元のお土産が入っている紙袋を渡す。一月の後半には大盛さんは二十一歳になるけど、きっと当日にお祝いするのは俺ではないと、わかっている。その場では彼女に言わず、紙袋のなかにこっそりとプレゼントと手紙をいれておいた。

「あ、結局言い忘れるところだった」と、あらためてこちらを見上げたかと思ったら「あけおめ! 今年もよろしくお願いします」と彼女は小さく頭をさげた。

「急に略すんだね、大事なところ」

「だって、なにげに何回も話しながら言ってたし」

「まあ、たしかに」

 夕方から用事があると言っていたから、たぶん、彼氏と会うんだろう。引きとめたい気持ちはあったけど、彼女の着ている上着があの日一緒にショッピングセンターで選んだものだと思い出して、楽しい気分のままで見送った。

 

 一か月後、彼女がバイトを辞めることを知ったのは突然だった。

 でも急だと感じたのは俺くらいで、店長には去年の暮ごろから話はしてあったらしい。二月分のシフト表が休憩室に貼られて、大盛さんの欄の途中から斜線がひいてあることに驚いた俺はその日一緒だったパートのベテラン主婦さんに問いつめると、「なんか、引っ越すらしいよ」と言われた。俺と大盛さんが仕事仲間以上の関係だということは、ここでは矢野しか知らないことだ。

「もしかしてショック?」と、にやついた顔で見られて、なんとかごまかす。

 数えてみると、あと三回しか出勤しない。

「あの、送別会はどうなるかって聞いてます?」

「なんか、ここにいたの半年くらいじゃない?だから、それはいいんじゃないかって店長が言ってたよ。だからあれ」主婦さんが示す先には、シフト表近くの画鋲に引っかけてある袋。

 嫌な予感がして、足もとがおぼつかないままにその袋に手をかける。

「え? けっこう前からそこにあるのに気がつかなかったのぉ?」主婦さんの声がずっと遠くにあるように聞こえるなか俺が手にしたのは、キッズサイズのピンク色の半そでTシャツ。

 バイトを辞めていく人、社員で他店舗へ移動になる人、そういった人たちにこの店では色紙ではなくここの商品であるTシャツに寄せ書きをするというルールがある。すでに俺以外はみんな寄せ書きを済ませていたようで、もう空白の部分はほとんど見あたらない。

 その日は夕方であがるシフトだったので、それまでなんとか落ち着いたふりをしながら働いて、アパートまでの道も事故のないように普段よりゆっくりと自転車をこいだ。

 自分の部屋でカバンをおろすとすぐに、大盛さんに連絡しようとスマートフォンを取りだすとまずメールが届いている知らせが目に入る。メールの内容を確認した俺は急いでいま脱いだコートを羽織った。

 俺のアパートから電車を使ったとして、一駅と半分くらいの距離。大盛さんのアパートがどこにあるかは、知っていたし何度も目の前まで彼女を送り迎えしていて気にならないといえばウソになる。自分から部屋を訪ねることはしないでこれまでやってきた。この先だってきっと、特別なことが起きないかぎり俺が訪れることはないと思ってあきらめてきた。だけど、その特別なことというのがいつやってきてもいいようにと頭の奥にはアパート名も部屋番号もべったりと刷り込まれていて、迷う必要もなく彼女の部屋の前に着いた俺は、初めてチャイムを鳴らした。

「あ、ごめん。こんなことで急に来てもらったりして、申し訳ない」とドアを開けた彼女は、スリッパのまま降りた玄関から動こうせずにこちらを見上げた。

 先ほど彼女から送られてきたメールの内容は、俺が期待していたものとはかけ離れていた。

「これでいいならべつにあげるよ、もう」

 俺がカバンから取りだした缶切りを、差しだして、受けとるだけの彼女。

「え、いや、そんなつもりじゃ」

「ねえ、写真撮らせてよ」

 言うなり俺は、大事に使っていた一眼レフデジカメのレンズを彼女にむける。

「は? なに言ってるの?」

「いいから」レンズ越しに見ている俺の圧に負けたのか、彼女は大人しく、今夜やっと来ることが出来た狭いワンルームのキッチン横まで後ずさり立ちすくんだ。その隙に、俺は玄関で靴を脱ぎながら、ドアを閉めた。

「うん、やっぱり可愛い」撮ったばかりの写真を、デジカメ付属の液晶画面で確認する。

 でも、それは俺が好きな笑顔ではなくて、どこか引きつっていて怯えているようにも見える。そうさせたのはきっと俺だってわかってるけど、俺がいまこうなってるのはあなたのせいなんだよ。

「で? どういうことかな。新しく付き合いたい人が出来たから、いままで付き合ってた相手とは別れたって。バイト辞めて引っ越すのも、新しい男と同棲するからって、それってメールですましていいことかな。だいたい、なんでみんな辞めること知ってるのに俺にだけ今になって、遅すぎないか?どう考えてもおかしいよやってること全部」

 俺は言いたいだけ早口で捲くしたてるとすぐ、彼女の唇にキスをした。胸元にぶらさがるデジカメが邪魔でしょうがない。はじめは驚いていた様子の彼女も、少しずつとじた瞼が気持ちよさそうにとろんとしてきて、俺は薄目をあけながらそれを確認した。胸のなかの奥のほうがじんわり暖かく、熱い。寒空で自転車に乗って来た俺の指先は冷えたままだ。

 よく考えれば、ここ最近の彼女はいままでと少しちがっておかしかった。第一、プレゼントした腕時計をいつ会ってもつけていない。バイト先で勤務時間がかぶったときにそれとなく訊いてみると、仕事しながらだと傷つけるといけないからという返事だった。それから何度かいつものカフェで会ったけど、部屋に飾ってあるけど腕につけるのを忘れてしまうと言われて、その場では納得したふりをしていた。

 いい加減デジカメが本当に邪魔に感じてきた俺は、首にかけてあるひもを肩にかけなおそうと、彼女から体を離す。俺の部屋より狭く、こぢんまりとしたキッチンには確かに缶切りがないと開けられないシーチキンの缶詰が置かれているのが目に入った。

「ずるいよ。あんなメール急に送ってきたかと思ったら、ついでに缶切りがなくて困ってるって俺を試すみたいに」

「わたしはべつに正直にメールを打っただけで、今すぐ持って来てだなんて」

「俺なら持ってくると思ったんでしょ? だから来たんだよ」

 俺が渡した、ステンレス製の缶切りを両手であまりにも申し訳なさそうに持っているものだから、その小さな手から奪ってキッチンのシーチキン缶の横に置いた。

「ともくん、手が冷たい」と言う彼女は心配そうに、俺の手に触れようとする。

 もう俺は我慢が出来なくなって、邪魔のなくなった胸にきつく彼女を抱きよせる。右手で包みこむように触れた彼女の首筋はあたたかく、もうなにかに縛り付けられたみたいにその手はどこにもいけやしない。今度は深く、でも彼女が気持ちの良いようにとゆっくりとしたキスをする。彼女のとじた瞼を目に焼き付けたくて、俺はじっとそれを見つめた。

 なんで抵抗してくれない。なんでそんなに俺を受け入れる。なんでもっと自分を大事にしてくれない。そういう疑問が浮かんでは、無視することに徹した。

「新しい男って、どんな奴なの?またすぐに別れちゃうんじゃないの?」

「そんなこと」

「俺なら、どんな男より大盛さんを大事にする。一生大事にするし、ちゃんと幸せにだってする」言いながら彼女を抱きかかえ、そのままの勢いで玄関をでる。

 俺にお姫様抱っこされてる彼女が「ちょっと待って」と言って、アパートの通路の壁に手をやる。俺から落っこちそうになりながら必死に手をのばすその姿に、俺は夢から覚めたように冷静になった。

「冗談だよ」

 彼女を静かに床に下ろすと、つま先に引っかけただけの靴をしっかりと履きなおし、道端に止めた自転車へと歩いて行く。

 そのとき彼女がどんな表情をしていたか、振り返る余裕はなかった。ただ、彼女にあげたステンレス製の缶切りは、他のキッチン用品とお揃いで同時に買ったものでそれなりに奮発したものだった。それだけが心残りで、だけど取り返す気にもなれずにひたすら俺は、さっき来た道をひとり黙々と自転車をこいだ。


 翌日は今のバイト先では初めての、仮病をつかってのズル休みをした。

 あの後、自分のアパート前まで来たところで自転車を下りる気になれず、大通りをそのまま走り続けた。帰宅したのは夜中で、風呂にも入らずにそのままベッドにもぐりこんだ。

 一週間ほど前に、どうしても腕時計をつけてくれない彼女の真意が気になって、迷いながらも部屋に呼んだときのことを思い出す。

 彼女が好きそうな映画を何作品かレンタルして、彼女が好きな甘いお酒を用意して部屋に迎えた。

 映画を観るまえに俺が作った夕食をふたりで食べてから、どの作品を観ようかと話していたときに大盛さんはふいにスマートフォンを取りだして、マイクでもむけるようにこちらに傾けている。

「なにしてるの?」

「声がね、好きなの」

「誰の?」

「だから、ともくんの」なにやらスマートフォンの操作をして、こちらに画面をむける。

 いつの間にか俺の声を録音していたらしく、そこからはさきほどの二人の会話が再生される。

「ちょっとかすれたみたいな優しい声だよね」

 そんなことは生まれて初めて言われたから、微妙に緊張する。

「ねえ、なんかしゃべってよ」と、またスマートフォンをこちらにむけてくる。

 そんな、急に言われてもなにを話せばよいのかわからないし、オーディションを受けたときのことを思い出しそうになって冷汗がでた。

 そのあとはいつものように映画を観ながらお酒を飲んでいたら、大盛さんの後ろでベッドに背中をあずけていた俺の胸に寄りかかり、自分の背中をぴったりくっつけてきた。これじゃまるでカップルみたいだと、俺が言うと、ほんとだねと言いながら俺の両腕を自分のお腹のところに持ってきた。俺がほんの少し、もう少しお酒に酔っていたら、そのまま抱きすくめてずっとそこから離さないでいられたのに。

 俺は冷えた体のままずっとベッドのなかで、その瞬間を夢に見ては目を覚ますことを繰り返し、気がついたら朝になっていた。


 そこから半年以上経って、また夏が終わり肌寒い季節がはじまろうとしていたときに大盛さんから連絡があった。

 胃腸炎で入院して、それが原因で同棲していた男とは別れたらしい。それがきっかけで不仲だった両親とも会話が増えたそうだ。俺にたいしてはどういう感情で連絡してきたのかよくわからないが、大変なことがあったのは電話で彼女の声を聴いたときになんとなくわかった。

 この半年の間、俺は彼女との思い出のあるものをすべて処分して、バイトに励んでいた。今更大盛さんとどうにかなりたいとか、まして付き合いたいとかはもう思わない。だけど、やっぱり心のどこかでは期待していた。彼女の連絡先を消去できずにいたのは、こうなるだろうと思っていたから。それに、俺がしていたことはいったいなんだったのか。それくらい、たしかめる価値はあると思って会う約束をした。

 あのカフェには行きたくなかったから、俺が行きたい場所をメールで伝えてそこで待ち合わせをした。

「なんで銭湯?」と、久しぶりに会うなり大盛さんが言うのであっけにとられる。

 ほかに言うことがあるだろうと思ったけど、彼女らしいといえばそうだ。急に敬語でこられても戸惑ってしまう。

「いいよ、疲れた時には」

 あまりそれ以上の会話はせず、ただあきらかに痩せてしまった彼女のほほや腕の細さに視線がいってしまう。

 銭湯と言っても最近できたスーパー銭湯で、広くてきれいな館内には食事するところなどもあり、家族連れなどで賑わっている。もちろん混浴とか如何わしいことがしたくて誘ったわけではなく、ただそれぞれに日帰り入浴をして帰るだけの目的だった。

 館内に入ってすぐのカウンターで受付をすませ、荷物をあずけるとそれぞれ必要なものを買った。

「じゃあ、だいたい三十分後くらいにあがってこの広場で集合」

「わたしいつも長風呂しちゃうから、もしかしたら待たせちゃうかも」

「わかった、ゆっくりしてきな」

 別々に暖簾をくぐろうとして、彼女は俺を見上げると少しだけ手に触れてきた。指先がかるく、俺の手の甲をかすめる。それはただの偶然だったのだと、気にも留めずに俺は大浴場を堪能して早々にあがった。

 予想どおり、彼女は約束より二十分以上経って女風呂から出てきて、広場のなかの俺をさがしていた。

 ふかふかの絨毯に、いくつものソファーが並んでるなか、俺みたいに連れを待っている男性や風呂からあがったばかりのカップルがまったりと過ごしている。その空間を、まるで迷子の女の子のように、一人でいる男性客の顔をそれぞれ確認してはこちらに歩いてくる大盛さん。あまりに不安そうな表情をしていたから、こちらから手をあげて合図すると駆け足でやってきた。

「ごめん、待たせて」

「だからいいって」俺は自分の隣に彼女を促すように、ぽんぽんとシートをたたいた。

 大人しく座ると彼女は「なんか、眠い」とつぶやいて、うつらうつらした目でゆったりとソファーに体をあずける。さすがにまわりの目があるから、俺に寄りかかったりはしてこなくてほっとした。

「体調どうなの?」

「うん、もう退院して一か月経つし実家だから家事もなにもまかせっきりで、今は元気だよ」そう話す彼女はすでに目をとじていて、無防備気廻りない。ここでは浴衣やパジャマみたいな館内専用の着替えは用意されていないから、服装はさきほどとなにひとつ変わっていない。なのに、彼女の表情や少ししっとりしている髪が俺を誘惑してくる。

 せめて頭を撫でて、髪に触れるくらいはいいだろうと片手をあげようとして、やめた。

「わるいけどこの後俺用事あるから」

「そう」

 ぱっちりと目をあけた彼女と、預けていた荷物をカウンターまで取りに行き、出口まで歩いて行く。

「ありがとう、なんかすごく気分転換になった」

「でしょう」

「いいね、たまにはこういう健康的なのも」

 そこで別れて、俺はわざと自分のアパートとは逆方向の電車に乗って大きな駅ビルのなかをひとり、だらだらとウィンドウショッピングをしながら時間をつぶした。

 ほらやっぱり、俺にしておけばよかったんだ。俺のほうが大盛さんを理解しているし大事にできる。そう、思う気持ち。それに反して、うすうすわかってはいたけどやっぱり彼女は、特別な誰かを必要とはしていないんだという、妙に納得している俺が混在していた。

 大盛さんが必要としているのは、無償の愛。どこまでも甘やかしてくれる相手。痛みのないぬるい毎日。ただぽっかり空いている穴を誰かに埋めてもらうのを待っている。体は彼氏だった人に、心は俺に。だから俺が強引に彼女を抱いてしまえばもうそれきり。自分のことも俺のことも彼氏のこともなんとも思っちゃいない。守りたいものも特別ない。俺が心底大盛さんに惚れていることをよくわかっているけど、俺が毎日どれだけ傷ついているかなど考えもしないし、興味もない。彼氏のことも俺のことも、自分自身も愛してはいない。今だったらもしかしたらと思って期待した自分が馬鹿らしい。


 そこから一週間後、また大盛さんから連絡があってどうしようか迷ったあげく、外での買い物なら付き合うと言って約束をした。

 だけど、約束の時間を一時間経過しても彼女は現れず、やっと送られてきたメールにはあと三十分以上待たせるという内容に、俺はもう付き合いきれないと思った。

 それでも、メールが届いてから三十分は一応その場で待つことにした。近所で会うのとはちがうし、途中で乗り換えたりして二十分以上は電車に乗って来なければ待ち合わせの公園には着かない。この前のスーパー銭湯よりもいくらか遠いのは確かだ。もしかしたら体調が悪くて家を出るのが遅くなった可能性だってある。

 いくつものビルやおしゃれなカフェが建ち並ぶ都会のど真ん中。そのなかのイベントにも使われることがある広い公園の片隅。俺はまわりを囲っている柵に腰かけながら待った。

 俺の気持にはまったくそぐわない、子供の楽しそうな声がときおり聞こえてくる。よく見ると雲ひとつない秋晴れで、男の子がひとり数えるほどしかない遊具で遊んでいて、その母親らしき人がベビーカーの近くにしゃがんでいる。今日はなんのイベントもないから、ただただ平らな土地がひろがっていて、逆にむなしい。

 ほんとなら、もうとっくに二人で昼食を済ませている時間だ。今日はほんとうにただ、買い物を楽しんで食事をして、たわいない会話をして過ごそうと思っていた。一度届いたメールから、その後の連絡はないから俺はその場を動けない。だんだん、自分の彼女に対する甘さに腹が立ってきた。

 スマートフォンを確認するが、やはりあれから連絡はない。もう嫌になるくらい読み返したメールの内容をもう一度だけ確認して、送られてきた時刻に三十分を足してみる。自分でもどうかしていると、疑っては、腕時計の盤面も何度も確認する。三十分どころか最初の約束から二時間は経過している。ここで親切に電話などして、たとえば彼女が出たとしたら俺はいくらでも待ってしまいそうに思えた。たぶん、俺が許してしまうような嘘をいくらでもならべて、甘えた声で謝るんだろう。

「もう待てないので、帰ります。あなたはこれまで、何度もおなじことを繰り返しては俺を傷つけました。べつにそれを謝ってほしいとは思いません。俺との関係は、はっきりとは言わずにいた俺も悪いかもしれないけど、世間からしたらあれはただの二股です。大盛という苗字ははじめ、たくさん食べるという意味でからかわれる要因になるからかわいそうだなと、思っていました。でもいまではあれはあなたに限って言うと、大勢の男に盛っているという意味だと思います。それがぴったりだし、あなたの前から俺が消えても、あなたのことだからいくらでも男なんて寄ってくるでしょう」

 大盛さんにメールを送って、ただちにこの場を離れようと公園の敷地を出る。

 もしこのまま鉢合わせたりしたら、また逆戻りだ。それでは、このメールを打った意味がなくなってしまう。

 駅に向かうわけにもいかず、俺はとりあえず来た道ではなく一本外れたどこに出るのかもわからない道を歩いた。

 それなのにどうしてなのか、車が一台通れるかどうかの細い道をすれ違った女性は、まぎれもなく大盛さんだった。

 スマートフォンを片手に、下を向きながらとぼとぼと歩くその姿からは表情は見えないけれど、ちらりと前を確認するために目線をあげた一瞬で、確実に彼女だとわかる。口元は力が抜けたように半開きだった。完全に俺の真横を通り過ぎたのに、彼女は俺に気がつかずにそのまま公園のほうへ歩いて行った。

 あやうく声をかけそうになって、彼女が近眼だと言っていたのを思い出した

 俺の部屋で一緒にレンタルした映画を観たときも、あまりにテレビ画面に近づいて観ようとするので注意すると、「このくらいの距離じゃないと少しぼやける」と言ってなかなか動こうとしなかった。仕事でも常連客の顔を覚えられずにいたのを店長に注意されていて、なぜメガネをかけないのかと聞いたことがあった。彼女いわく、「メガネが似合わないから」だそうだ。

 よっぽど自分の素顔が可愛いと自信があったんだろう。そんな女のどこが良かったんだか。自分にあきれる。

 遠回りして歩いて、やっと駅につこうとしていたとき、彼女から電話がかかってきた。無視してもよかったけれど、縁を切るならきっちりしなければならないと覚悟を決めて電話にでた。だけど、耳にあてたスマートフォンからはときおり泣いているんだろう彼女の鼻をすする音だけが聞えてきた。

「もしもし? なに、なんか言えば?」と声を発するのは俺だけで、延々と会話にならない時間が過ぎる。しばらく我慢して待ってみたけれど、二分ほどしてから自分から通話を終了させた。

 子供だ。大盛さんは、たしかに子供っぽいところがあるなとは思っていたけれど。中身がずっと子供のままに、体だけ女になった。どんな教育をうけてきたのか。どんな親だったのか。どうしてこんな。そこまで考えて、なぜか俺は駅前の人通りが多い道のど真ん中で、泣き始めた。

 それでも、彼女が愛おしいと思った。いや、彼女だったから、愛おしかった。無邪気に甘えてきて、素直に頼ってきてくれる彼女を、俺は必要としていた。俺だって、同罪なんだ。


 居酒屋で飲むノンアルコールカクテルはやっぱり、炭酸ジュースでしかなくて、俺は目の前でジョッキに入ったレモン酎ハイを飲む矢野を睨みつけた。

「まだまだ、お前にはそれがお似合い」となぜだかうれしそうに矢野はジョッキをテーブルにおいた。

「なんでだよ」

「まだな、顔が、あれなんだよ」

「あれ?」

「ゾンビ」

「もう一年前だぞ」

「俺がオッケーだすまではアルコールは飲んじゃだめ」

「なんでだよ」

「忘れたのかおまえは、その一年前にどれだけ俺が介抱してやったか」

 そこからうんざりするほど、矢野は俺が大盛さんと別れたあとのことを大声でしゃべり続けて、他の仕事仲間もいる手前、正直逃げだしたかった。

 このとき矢野は社員になっていて、俺はいまだにただのアルバイトだった。

 自分がもうこの先、もう一度役者を目指すなんて夢はもう持っていなくて、正直このまま矢野の後輩として社員になるというのもありかな、なんて考えていた。最終学歴が高校卒業ののちに、演劇の専門学校に一年通っただけ、だなんて立場で社員になんてなれるのか自信がなかったけれど。アルバイトとしての成績や店長からの評価によっては、本部の人間に推薦してくれるという話だった。あとは面接でどれだけ自分からアピールできるかによるだろうということだった。

 俺が今のジーンズショップで働こうとアルバイト面接を受けたのは、単純にそろそろ服もおしゃれに選べるようにならなきゃなと、思ったからだった。ジーンズに興味があったわけではないし、どちらかと言うとまだ役者になる夢に未練があったから、劇団のオーディションなどで見ためをよく思われたいと考えただけだった。そんなきっかけで選んだ仕事で、社員になって良いものか。

 しばらく悩みつづけた結果、俺は、地元にある小さな書店の社員になった。そこも最初はアルバイトとして働いて、頑張って働いてなんとか社員にさせてもらえた形だった。

 なんでもよかった。少しでも、自分が好きな世界に繋がっていて、家族もいて安心して働いていけるなら。

 それでも、大盛さんと約束した一月十一日はわざわざ有給休暇をとって、あのカフェに行ってみた。カフェ自体が無くなってしまっているという俺の危惧は無駄になったけれど、持って来ていた本を読み進めるだけで閉店時間が近づき、有給休暇も無駄になった。


彼女に最初に出会ってから十年後。

 地方の小さな書店にもかかわらず、著名な作家がサイン会に来て下さるということで今日は朝からみんなどこかそわそわしていた。

 だけど、サイン会開始の十分前になっても作家は現れない。事前に参加者を募っていて当然ながら、地方の書店であっても予定人数は満員になっている。実際は一時間前には到着していてもらう予定だった。

 サイン会開始時間の五分前。俺はめったにないトラブルと緊張からか尿意をもよおし、トイレに駆けこんだ。男性用トイレは個室がひとつしかない。

 俺が急いで用を足して個室を出ると、スーツ姿の男性があわてた様子で入れ替わりに個室に入っていった。どこかで見た顔だった。誰だっただろうと手を洗いながら考えていたら、大盛さんにプレゼントしたあの絵本みたいな啓発本の帯に載っていた、作者の顔だと思い出した。そして、あと五分で始まるサイン会の主役だ。

 ベストセラー作品がいくつもあって、翻訳され海外でも出版されている著名な作家だ。そんな大人が、俺の倍以上の年齢なのに大事な仕事に遅刻しそうになっている。厳密に言えば書店との約束としては一時間の遅刻だ。

 個室のドアが閉まる音がしてつい振り返り、俺は必死にベルトを直しているベストセラー作家の姿に、どうしようもなく笑いがこみあげてきて、我慢できなかった。

 大盛さんにプレゼントした本の最後のページを、彼女が目にすることがあったのか今はもう確かめようがない。それでもいい。俺がしたことが無駄になったとしても、いつかどこかで気づいてくれれば。

 俺のことは忘れていいから、自分を大切に、自分の人生を大事にしてくれたら。


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