引越しの朝
「―――ディスコ」
スマホから流れるフレーズを聴いて、晴夏は荷造りの手を止めた。独特な歌声とキレのいいダンスがウリの3人組ユニットが歌っていたっけ。今まさにこの曲と同じ事をしている晴夏は何だか応援されている気がして、もう少し頑張らなきゃと目の前の荷物を箱に詰める作業に戻った。
3月の始め、無事に卒業式を迎えて高校を卒業した晴海と晴夏は地元を離れて2人暮らしをする事に決めた。晴海は元々ここに住んでいた訳ではなく母親に連れられて来た。それからの10年間は、晴夏との記憶を除くと特に思い入れがある訳ではなかった。以前から晴夏は自分の力がどれだけ通用するのか試したいと思っていた。そこで2人は春休みを使って部屋を探し、条件に見合う部屋を見つけたのだった。
ルカはあっさりと、ルミは何とか親を説き伏せてまだ見ぬ新天地に向けて準備を始めたのだった―始めたはずだったのだが、引越しを数日後に控えた今日になっても晴海はまだ荷造りをせずどこかに出かけてしまっていた。心配になって家を訪ねたルカがこうして荷造りをしているという訳だ。後回しにするほどでもない量の荷物を詰め終わると、窓の外には夕焼けが広がっていた。「ルミ君、絶対確信犯だよね」
ルミは高台にある公園から海に沈んでいく夕陽を眺めていた。この街に引っ越してきてから、何か嫌なことがあった時はこの場所から海を眺めるようになっていた。取るに足らないものだと思って来たこの景色も、離れてしまうと懐かしく思うのだろうか。寂しい、という感覚を覚えたのは初めてかも知れない。段々と引越しが近づくにつれ所謂マリッジブルーのような気怠さに襲われて、荷造りが面倒になってしまった。ルカの奴、今頃すげぇ怒りながら荷造りしてんだろうな。メシ1回分で許してくれねぇかな。そんな事を考えつつ、間近に迫る新生活の足音に気もそぞろになっている自分がいる。今分からない事を考えても仕方ない、その時になって困ったら考えよう。1人じゃなく、2人で。
月明かりの中を家まで歩くと玄関先に座り込んでいるルカが見えた。「あ〜やっと帰ってきたー!荷物ほっぽって何してるのもー!」「わりぃ、めんどくさくなってお前に任せようと思って散歩してた」「あのね、引越しのトラックをもう1台呼べるほど僕らはお金持ちじゃないんだからね?」「分かった分かった積み込みは手伝うから飯食おうぜ。今日は何だ?腹減ったわー」「無いよ?」「なに?」「誰かさんの荷造りしててそれどころじゃ無かったんですけどー?」「んじゃコンビニ弁当にするか。今日はオレが出すわ」「ほんとっ?じゃあプリンもよろしく☆」「あいよ」「はっ!もしかして食べ物に釣られて有耶無耶にされてない??ルミ君さぁ、やり始めたら早いんだから自分でやろうよ~」「ん、考えとく」「もーっ!!」
それからは新居のライフラインの確認や移動予定の確認など慌しくしているうちに引越しの朝を迎えた。先にカーテンを外した所為でやけに眩しい日差しに目を覚ますと、ルミはベッドと旅行鞄しかない自分の部屋に驚いて眠気が吹き飛ぶのを感じた。そうか、もうオレの部屋じゃなくなるのか。こういう時はやはり後ろ髪を引かれる気分になるものなんだな。ルカの奴はもう起きてるだろうか。ベッドにあるスマホに手を伸ばすとチャイムが鳴った。玄関先で母親とルカの話し声がしている。オレを心配して起こしに来たらしい。まったく世話焼きな奴だ。部屋を出て階段の上から声を掛ける。「おいルカ、もうガキじゃねえんだぞ、心配し過ぎだ」「あ、ルミくんおはよう!まだ寝てのるかと思ったよ」「そいつはどーも」「じゃあ朝ごはん食べたら布団を畳んでベッドの下を掃除しなきゃね」「まだやるのかよ…」「立つ鳥何とやらって言うでしょ?」「ルカ、任せた」「ダーメ、自分の部屋なんだからルミ君がやるの!」「へいへい」
そのうちにルミの家に引越し業者のトラックが来た。荷物を積むとトラックに同乗してルカの家に向かった。費用を抑えるために自分達も積込みを手伝うプランにしたお陰で、2人分の荷物を積み終えた頃にはじっとりと汗ばんでいた。ルカの家で出されたお茶を飲んで一息ついたルミは母親に挨拶すると言って一度家に帰った。ルカも両親としばらく会えなくなる事を思ってか、いつも以上に話に花が咲いたのだった。
ルミもルカも荷物を送り出して空っぽになった、昨日までは確かに自分の部屋だった空間を目の当たりにしてもまだ、自分が引っ越すのだという実感が無かった。今夜は引越し先の町にあるホテルに泊まる予定になっている。それすら旅行に行くような気分でさえあるこの不思議な感覚。今日のことはきっと忘れないだろうという根拠の無い確信が2人にはあった。
これから始まる初めてだらけの生活―
ひと部屋、ふたり暮らし。