加藤香澄の諦念
―俺は信じていた。
《普通に生きてれば普通の生活を送れる》ということを。
だが、現実は違った。
《周りがおかしければ否応なしに巻き込まれる》のだ。
―これは、俺が全てを諦めた日の出来事である。
ほのぼのとした陽気に満開の桜。
そんな春の空気を満喫しながら、俺は通学路を歩いていた。
いつもと変わらない道をいつもと変わらずに進む。強いて言えば、今日は学園の始業式であり、春休みが終わったことによる気だるい気分が多少胸に残っていた程度か。
「おーい、香澄ー!」
路地の向こうから手を振って近づいてくるのは、親友の皆本純だった。いつも通りの時間のいつも通りの光景。
突然、黒塗りの高級車が猛スピードで走ってきた。それは純の側に急停車し、中からスーツの男達がぞろぞろと現れた。男達はきょとんとしている純を取り囲み、腕をつかんで車の中へ引きずり込もうとした。
―そして、純に近づいていた男の一人がふっと姿を消した。否。物凄い勢いで吹っ飛ばされたのだ。男達は次々とノックアウトされていき、気がつけば紺色のスーツの女が純を守るように立っていた。
「純さま、ご無事ですか?」
女―西堂寺麗華がそう言うと、純はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう、ねえや」
麗華は顔を赤らめながら、来たときと同じく一瞬でその場からいなくなった。純は小走りで俺の方へ駆けてくる。
「香澄、おはよう!」
「ああ、おはよう」
俺達は何事もなかったように挨拶を交わした。車の襲撃も今年に入って五度目である。すっかり慣れてしまった。
「今日は始業式だね」
並んで歩きながら純がおっとりと言う。
「そうだな。またラブレターで靴箱が埋まっているんじゃないか?」
「はぁ……そうだね。入学式で新入生も来るし、この時期は大変だなあ」
「去年は何人告白に来たんだったか」
「えーっと、24人。全員断るのに苦労したよ」
純はため息をついた。
―純はモテる。それも異様な程に。
整った顔立ちをしているが、別に絶世の美形というわけではないし、勉強もスポーツも中の上程度。父親は大企業の社長だが、それが老若男女無差別にモテるのとは、あまり関係がないと思う。
以前、純にモテる理由を訊くと、純は困ったように笑って「遺伝かな」と言った。真実は定かではない。
モテるというのはトラブルも呼ぶ―先程の車は酷い方の例だが、小さな事件や衝突は日常茶飯事だ。純は誰に対しても笑顔で平等に扱うことによって、トラブルを最小限に押さえているフシがある……だが、それでも回避できないものは俺も協力してひとつひとつ解決していた。
―今年度もそんな生活……俺にとって普通の生活が始まるのだろう。
その見通しが甘かったことを俺は後で思い知ることになる。
2年B組の教室。
クラス替えもなく、お馴染みのメンバーが揃っている。この学園は中高一貫だから余計に変わり映えがない。
「今日は転校生が来るって噂だよ。どんな人かなあ?」
隣の席の純が楽しそうに言った。ちなみにクラスメートの視線は純に集まっている。このクラスの中にも純に想いを寄せている者は多い。
「さあな。おとなしいやつだったらいいな」
早速純に一目惚れして余計なトラブルを起こしたりしなければ、万々歳だ。
そうしているうちに、チャイムが鳴って担任が入ってきた。
「おはようございます、皆さん。今日はこのクラスに新しい仲間が加わります」
担任の言葉に生徒達がざわつく。
「ほら、香澄!転校生だって!」
純がわくわくしながら俺に小声でささやく。俺は純ほどには期待も興奮も感じなかった。
「では、転校生に入ってきてもらいましょう」
担任の言葉が終わると、教室の入口が開いた。そして、入ってきたのは―
生徒達が思わず息をのむ。
色素の薄い腰まで伸びた長い髪。
紺色の女子制服をまとった華奢な身体。
すらりと長い手足。
髪と同じ色の強い意思がこもった瞳。
映画かなにかに出てくるような美しい人間がそこにいた。
クラスメートが圧倒される中、俺は言い様のない既視感に襲われていた。―どこかで会ったことがあるのか?そう首をかしげて、ふと隣の純を見た。
―純は震えていた。
口に手を当てて、肩を小刻みに震わせている。不自然なその姿を疑問に思い、声をかけようとしたその時だった。
転校生と俺の視線が合う。転校生の目は笑みを湛えていた。獲物を見つけた猛禽のような―そんな印象を与える目だった。そして数瞬後、その目が捉えているのは俺ではなく隣の純だということに気がついた。
「自己紹介をよろしくね」
担任の言葉に、転校生は唇の両端を笑みの形に釣り上げて言った。
「《久世涼》。皆本純の許嫁よ」
クラスが静まり返る。
俺は酷く困惑した。
―《久世涼》だと?まさか、あの《涼》なのか?だったら……!
涼は固まった皆の席の間を通り、純の側まで颯爽と歩いてきた。震える純に微笑みかける。
「純、ただいま」
純の目からぽろぽろと涙がこぼれる。
「涼…さん…」
「これからはずっと一緒よ」
「……っ!涼さんっ!」
純が涼にぎゅっと抱きつく。そしてわんわんと泣き出した。涼は純の頭を優しく撫でた。
―我に帰った生徒達は様々な反応を見せた。
あまりのショックに卒倒する者、悲鳴をあげる者、無言で固まる者……その一人だった俺の方を見て、涼は言った。
「あら、かすみん。居たの?」
久世涼―皆本純の許嫁にして、幼い頃にアメリカへ渡った帰国子女。
―そして、俺の母方の《いとこ》だ。
「……かすみんは止めろと言ってるだろう」
何とか絞り出した言葉を意に介さず、涼は楽しそうにこう告げた。
「これから世話になるわ。よろしくね」
こうして、俺は《普通》の生活を諦めた。
まずはこの混沌とした事態を、どうにかして収拾しなければ。
純本人は今は役に立ちそうもない。《純の婚約者》の情報は一気に広がるだろう。そうなると学園中がパニックに陥る。駆けずり回ってでも暴動の類いは阻止しなければ。
俺は頭を抱えて机に突っ伏した。もう何も考えたくない。
「あれー?かすみん、どうしちゃったのかなー?」
「……黙れ」
嗤う涼の声に俺は耳をふさいだ。