西堂寺麗華の幸福
―これから話すのは、あたしの……《西堂寺麗華》の半生だ。
馬鹿馬鹿しくて滑稽で、そして愚かな子供だったあたしが、どうしてこういう所に収まったのか―そんな話だ。つまらないだろうけどしばらく聞いててくれ。
平安時代から続く名家、そして今でも政財界に強い影響力を持つ西堂寺家―あたしはその本家に生まれた最初の子供だった。
幼い時のことはあまり覚えていない。もちろん蝶よ花よと育てられたんだろうけど、覚えているのは寂しさだけ。仕事で忙しい両親が家に帰ってくることなんて殆どなかったから。
それでも、いい子にしてればきっと両親にほめて貰える―そう思って毎日過ごしてきた。
そんな生活が変わったのは中学生になった頃だった。
―弟が生まれた。西堂寺家待望の男の子だった。
両親は弟にかかりっきりで、あたしのことはいっそう気にかけなくなった。そして子供だったあたしはこう考えた。
『ああ、あたしはいらない子なのだ』と。
今から思えば本当に馬鹿だけど、その時は思い詰めてさ。悪いことに手を染めだした。万引き、煙草、喧嘩……お決まりの不良コースさね。
それは両親への当て付けだったのかもしれない。もしかすると、両親の関心があたしに向くかもしれない、そう思ったんだろうね。
何回も警察のお世話になって、やさぐれて……中学の三年間はそうやって過ごしたよ。
そして、中学を卒業した次の日のことだった。もちろん高校になんて行く気はなかったし、すぐにでも荷物をまとめて家出しようと思っていた、その矢先だった。
スーツを来た男が秘書の女を連れて屋敷に訪ねてきたんだ。しかも両親じゃなくてあたしに会いに来たという。
訳がわからなくて、その男をブッ飛ばして帰そうと思った。だけど、実際に顔を会わせたらふっとそんな気が無くなったんだ。不思議だろう?むしろ『この人を喜ばせたい』、そんな気持ちになってくるんだ。どう見てもちょっと顔が整ってる程度の普通のおっさんなのにさ。
男は皆本グループの社長だと自己紹介した後、あたしを自宅に招待したいと言い出した。あたしは断れず、ふらふらと秘書の運転する車に乗って社長の家に向かった。
屋敷に着くと、玄関を抜けて長い廊下を奥に進んだ先にある部屋に案内された。社長が扉を開ける。そこは白い壁と大きな窓が光を取り込む、明るい部屋だった。床にはふかふかの絨毯。その上にはいくつかのおもちゃが散らばっていた。そして―あたしは見てしまった。
大きなウサギのぬいぐるみを抱き締めてすやすやと寝息を立てている、半ズボンの幼い子供の姿を―。
その姿はこれまで見たどんなものよりも愛らしく、胸に響いた。『嗚呼、天使に出会ってしまった……!』そんな大きな感動まで抱いた。自然に涙が溢れて止まらなくなった。
呆然としているあたしの隣で、社長が言った。
「親御さんも《かかりやすかった》から、君もと思ったけど……予想以上だ」
その意味は全くわからなかったけど、社長の次の言葉はあたしを驚かせた。
「君、この子のために働かないかい?」
混乱して黙ってしまったあたしに社長は続けた。
「この子はね、母親を亡くしているんだ。それに僕もあまり家に帰ってこれない。だから、この子と一緒に居てくれる人が必要なんだ」
社長はにっこりと微笑む。
「もうすぐ小学校に上がるのだけど、友達もあまりいなくてね。簡単に言えば遊び相手になってあげて欲しいんだ。どうかな?」
あたしは一も二もなく頷いた。断るなんて選択肢は頭に浮かばなかった。
こうして、その子供―《純さま》と過ごす日々が始まった。
純さまは優しく、聞き分けのよい子供だった。小学校に入るまではずっと子供部屋で遊び相手をしていたが、ふわふわとした可愛らしい笑顔を絶やさず、「ねえや、ねえや」と慕ってくる姿に心を鷲掴みにされた。いつも吸っていた煙草は、「ねえや、くしゃい」と顔をしかめた純さまを見て、永遠に禁煙中だ。
こうしていつも明るい純さまだったが、時々元気が無くなることがあった。それは決まって夜で、社長が帰ってこない日だった。そんな日はウサギのぬいぐるみを抱いて、部屋の隅で黙ってうずくまっている。あたしが話しかけると、返事はするがどこか物憂げだった。
―ああ、寂しいのだろうな。
そんな時は眠る前に、純さまの大好きなお話をしてやった。おとぎ話をちぐはぐにしたような、口から出任せの冒険譚だったが、純さまは目をきらきらと輝かせて聞いてくれた。物語が終わる前に、純さまは疲れて寝入ってしまう。そのやすらかな寝顔を見るのは、何よりの幸せだった。
純さまが小学校に上がると、日中は暇になった。なので、何か他にできることはないかと秘書の女に言うと、とある道場に連れていかれた。女はここで鍛えることが純さまのためになると言い残して去っていった。
それから厳しいトレーニングが始まった。喧嘩殺法はまるで通じず、こてんぱんにされる日々が続いた。ある時は銃の扱いまで習った。相手をいかに無力化すべきか、それに特化した技術を徹底的に教え込まれた。
一年後、純さまの登下校に初めて着いていくことを許された。着いていくとはいっても、純さまに気づかれないよう後をつけると言った方が正しい。先輩の護衛と一緒に尾行していると、一人の見知らぬ男がランドセルを背負った純さまに話しかけた。しばらく言葉を交わした後、男はなんと純さまの腕をつかみ、引きずっていこうとした。その瞬間、あたしの隣に居た先輩が、凄い速さで男に近づき、純さまをつかんでいた腕をねじりあげた。そしてドスの効いた声でこう言った。
「二度はあると思うな」
男は悲鳴を上げて逃げていった。ぽかんとしているあたしに対し、先輩と純さまは平然としていた。純さまはあたし達に手を振ると、学校へ向かって歩き出した。先輩とあたしも尾行に戻る。その間、先輩はあたしに事情を説明してくれた。
「社長や純さまは生まれつき、ああいう妙な輩を近づけてしまう。それを排除するのが我々の役割だ」
そうして先輩はあたしの顔を見て言った。
「お前も純さまに特別な感情を抱いているだろう?それが限度を超えて、純さまに危害をなした時は……わかるな?」
あたしは黙って唾を呑み込んだ。先輩は表情を緩めて言った。
「なに、私も同じさ。護衛はもともと《そういうやつ》が集められている……私は今度社長付きに異動になった。純さまはこれからお前が守るんだ」
―そうして、あたしは子守役から護衛になった。やることは何も変わらない。純さまを守る……ただそれだけを考えればよかった。
ある日の朝、珍しく屋敷に戻っていた社長と純さま、そして秘書とあたしの四人で朝食を採っていた時のことだった。
「純、お前に手紙が来ているよ」
社長が純さまに封筒を渡した。純さまはそわそわとしている。社長は微笑んで言った。
「いいから、読んでおいで」
「はい!」
純さまは勢いよく返事をすると、子供部屋へ駆けていった。慌ててあたしも追いかける。部屋に入ると純さまはハサミを取り出し、慎重に封筒の端を切り開いた。中から出てきたのは数枚の便箋と写真が一枚。その写真に写っていたのは、薄い色の長い髪をした純さまと同じ年頃の子供だった。
純さまは食い入るように便箋を読んでいく。そうして読み終わった後、ぎゅっと便箋を抱きしめた。頬は紅潮し、とても幸せそうな顔をしていた。そんな表情は今まで見たことがなかった。
「おへんじを書かなきゃ!」
しばらくして純さまは便箋と鉛筆を持ってきて、ああでもないこうでもないと勉強机の上で悩み始めた。
「ねえや、こういうときはどう書いたらいいの?」
そう訊かれても、あたしは手紙なんて出したことがない。二人でうんうん唸りながらやっとのことで便箋を文字で埋めた。
「純さま、一体どなたに出すのですか?」
興味本位で聞いてみると、返ってきたのは意外な答えだった。
「えへへー。僕の《いいなずけ》!」
照れながら言ったその言葉に、あたしは酷いショックを受けた。まさかもう純さまに相手が居るのか……何故か落胆してしまったが、頭を振って考え直す。純さまは本当に幸せそうだ。この幸せを守って差し上げなければ。相手の子供もこれほど純さまに好かれるのだから、相当素晴らしい人物に違いない。
―そう思っていた幻想が崩れたのは、実際に《久世涼》と出会ってからだった。なんだあの高飛車は!純さまをいじめるわ、 あまつさえ泣かせてしまうだなんて!それにそもそも……あん?それはいいから続きを?……わかったよ。続けるさ。
純さまが小学校六年生の頃、皆本家に大きな出来事が起こった。
―社長とあの秘書が再婚することになったのだ。それに男の子まで生まれるという。
それを知った純さまはというと、意外なことに二人を心から祝福した。あたしは……自分の過去を顧みて複雑な気持ちになったけど、嬉しそうな純さまを見て表に出すのはぐっと堪えた。
そして二人目が生まれるのを機に、本社の近くに新しくより広い屋敷を構えるという。社長が家に帰れる日数は増えるし、純さまも喜ぶと思った。でも……。
純さまは一人でこの街に残ると言い出した。純さまが言葉にされた理由は、友達と別れたくないというものだったけど、本当はもっと暗い何かがあるような、そんな気がした。
社長達は当然反対したが、あたしも純さまの側に立ったこと、そして何より純さまのかたくなな意思が折れなかったことが、勝敗を決した。
社長は純さまが独り暮らしをなさる条件として、警備のしっかりしたマンションに住むこと、あたしが近くで監視すること、そして何かあったら直ぐに迎えに行くことを挙げた。純さまはそれを承諾し、中学一年生の春から独り暮らしが始まった。
純さまの成長に従って、不届きな輩は増えていった。あたしも純さまが外に出られる時は忙しかったけど……その話はいいだろう。授業時間が伸びてさらに暇になったあたしは、高卒資格をとったり、パソコン教室に通ったり、簿記を学んだり……色んな資格をとったさ。将来、護衛だけでなく純さまのお役に立てるようにね。
純さまは小学生の頃と、何ら変わりなく楽しんで学校に通った。いつも一緒に登下校する《加藤香澄》を初めとして、学友には恵まれたらしい。
時折一緒に食事をさせてもらう時……というか、純さまに「ねえや、最近野菜食べてないでしょ!」と叱られて無理やり手料理をごちそうになる時、純さまは楽しそうに学校での出来事を語った。それを見て、あたしもほっとした。
だけど、ふとした時。例えば、あたしが気配を消して遠くから独りでいる純さまを見ている時に、純さまはひどく悲しそうな、切なそうなお顔をされていることがあった。
なんとかしてあげたかった。でもあたしにはかける言葉がなかった。
そうして、高校二年生になった途端。純さまを取り巻く環境は一変した。そう、《久世涼》がアメリカから帰ってきたんだ。
あいつは純さまの許嫁なのをいいことに、純さまのお部屋の隣を借りて、実質同棲状態だとか……ああ!腹が立つっちゃあありゃしない!もしも純さまを汚すような真似をしたら刺し違えてでも……え?それはいいって?わかったわかった。
とにかく、そんなこんながあって今に至るという訳さ。純さまは最近は泣いたり怒ったり表情が目まぐるしく変わるけど、あの悲しい顔はしなくなったよ。
……どうだい?《あたしと純さまのこと》が聞きたかったんだろう?
―そう言って酒を煽る女に、若い男はにこにこと微笑みながら拍手をした。
「ありがとう、麗華さん。おかげで貴女と純ちゃんのことは大体わかったよ」
場所は洒落た居酒屋の個室。二人の男女が向かい合って座っていた。女は紺色のスーツを着ており、長い髪を後ろで束ねている。男は色素の薄い髪と目を持ち、終始笑みを絶やさなかった。酒を飲みほした女は男を睨んで言った。
「こっちは全部話したんだ。今度はそっちの番だよ?《久世修》。」
《久世修》と呼ばれた男は、机に両肘をついてにっこりと笑った。
「もちろん忘れてないよ。涼のことを話せばいいんでしょう?」
「ああそうさ。あいつの弱い所とか教えておくれよ」
麗華はにやりと笑った。
そうして聞かされた修による涼へのえげつない仕打ちの数々にドン引きした麗華は、ほんのちょっぴり涼への当たりを弱めたという。