魂の絆
その男が彼女を呼び出した理由を彼女は解かっていた。それでも彼女はその男に会えるのならと出かけて行った。
そこは新しいマンションを建てるために立ち退いた工場の廃屋だった。バリケードをくぐって中に入ると、真夏だというのに冷んやりとしていた。
その男は既にそこで待っていた。月明かりに照らされて、背を向けて立っていた。彼女はその男に近付き声を掛けた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって…」
振り向いた瞬間、その男は隠し持っていた鉄パイプを振り上げた。彼女は意識を失った。意識を失う寸前、彼女の目に映っていたのはいつもの優しい顔ではなく、化け物の様なおぞましい顔だった…。
私たちは結婚が決まって新居を探していた。何件か回ってこのマンションを見に来た。
「なかなかいいじゃないか。君はどう思う?」
彼はこのマンションが気に入ったようだ。日当たりのいい南向きの3LDK。13階建ての最上階。ここから見える風景はとても素敵だ。
「ここの景色は最高ですよ。夏にはスカイツリーと隅田川の花火のコラボレーションも圧巻ですし、ディズニーランドの花火も見えるんですよ」
これはイケると思ったらしく、不動産会社の人がそう言って畳み込んでくる。確かに、間取りも景色も申し分ない。おまけに駅から徒歩5分というのもいい。価格は決して安くはないけれど、それに見合った物件だと思う。彼が気に入ったのなら、私に文句はない。けれど、なぜか落ち着かない。理由は解からないけれど、息苦しさというか、胸がドキドキするような不安を感じる。
「どうした?気に入らないのか?」
「ううん、そういう訳じゃないんだけど…」
「よし!じゃあ、決めた。ここにしよう」
半ば強引に彼は決めてしまった。今にして思えば、この時の彼は普通じゃなかった様にも思える。
引っ越しはすべて彼が行ってくれた。家具や家電もすべて新しいものを購入した。彼は既にここでの生活を始めていた。私は実家暮らしのため、1週間後の結婚式までは実家で過ごすことにしていた。
それでも彼とは毎日会っていた。お互いに仕事が終わってから食事をしたり映画を見たり。そうやってお互い独身最後の1週間を存分に楽しんだ。
結婚式当日、新婚旅行はお互いの仕事のことを考慮して、長期休暇が取りやすい夏まで延期した。そんなこともあり、この日は披露宴、二次会、三次会と夜遅くまで祝宴が続いた。そして、深夜に新居のマンションへ帰宅した。
私はタクシーを降りてマンションを見上げた。ライトアップされた建物は辺りの風景とは違った雰囲気を漂わせていた。見ようによってはその佇まいは異様にも思えた。そのせいではないのだろうけれど、私は急に気分が悪くなった。なんとなくこのマンションに立ち入りを拒否されているような感覚さえ覚えた。その時、かすかに囁く女性の声が聞こえた。私は辺りを見回してみたけれど彼以外にはだれも見当たらなかった。
『ここに来ちゃダメ…』
「えっ?」
「どうかしたの?」
「うん、ちょっと気分が…」
「今日は大変な1日だったから疲れたんだろう。部屋に着いたらゆっくり休むといい」
「ごめんなさい…」
「仕方ないさ。気にしない、気にしない」
この部屋に入るのはあの日以来二度目。空っぽだったあの日に比べて家具が置かれて生活感が漂う部屋の風景に幾分気持ちが安らいだ。私はリビングのソファーに腰を下ろして大きく息を吐いた。
「もう寝る?」
冷たい水をグラスに注いで持って来た彼が私を気遣ってそう尋ねた。
「ううん、少し落ち着いたから。シャワー浴びたいわ。浴室はどこだったかしら?」
「キッチンの向こう側。お湯も沸いているから、ゆっくりお湯に浸かって疲れを取るといい。疲れた体はうまくないから」
「えっ?うまくないって?」
「ああ、気にしないで。後で着替えを持って行ってあげるから」
「あ、ありがとう」
私は湯船に浸かって目を閉じた。途端におぞましい場面が脳裏をよぎった。
「なに?」
今のは何だろう?夢?そう。きっと夢だわ。今日は疲れているから。
『逃げて…。ここに居ちゃいけない…』
「えっ?」
まただ。さっき、ここへ入るときに聞こえて来た声だ。
着替えてから再びリビングへ戻ると彼はキッチンで何か作っているようだった。夜食でも作っているのかしら?そう言えば、私も少しお腹が空いたわ。
「ねえ、何を作っているの?」
「いや、別に何か作っているわけではないんだ」
そう言った彼は何かに取り憑かれたように包丁を研いでいた。私は彼のその姿を見てなんだか怖くなった。
「先に寝ててもいいよ」
彼はそう言ってくれたのだけれど、とても一人で先に寝る気にはなれなかった。
「ううん、シャワーを浴びたらすっきりしたから。それに少しお腹もすいたし」
そう言って私は冷蔵庫を開けた。開けた瞬間、血生臭い臭いが鼻を刺激した。中に入っているものを見て私は驚いた。冷蔵庫の中には肉の塊がびっしりと仕舞われていた。冷蔵庫も冷凍庫も野菜室にまで。彼はこんなに肉好きだったのか…。それにしてもこれは異常としか思えない。
「何を見てるんだ!」
不意に声を掛けられ、私はギョッとした。包丁を手にして冷蔵庫の明かりに照らされた彼の顔がまるで化け物のように見えた。私は思わず叫び声をあげた。
「キャッ!」
「何をそんなに驚いてるんだ?」
「あ、あの、ちょっとお腹が空いたんだけど、生のお肉しか入ってなくて、ちょっとびっくりしただけ」
「なんだ、僕が肉好きなのは知っているだろう?」
「う、うん、それは知っているけれど、他に食べるものは無いの?」
「ごめん、肉を買い過ぎて他のものはこっちに仕舞ってあるんだ」
彼はそう言って戸棚の扉を開けた。そこにはレトルト食品が山積みにされていた。
「あ、あの、私、どこかで買い物して来ていいかしら?近くにコンビニとかあるよね?」
「ダメ!オートロックだから、一人で出たら入って来られなくなるよ」
「そしたら、インターホンで…」
「ダメって言ったらダメだ!」
彼は間髪いれずに怒りに満ちた怒鳴り声をあげた。こんな彼は見たことが無い…。
違う…。この人は彼じゃない。私はそう思った。逃げなきゃ!私はゆっくりと彼から離れた。
「じゃ、じゃあ、もう寝るわね…。寝室はどこかしら?」
「そう?寝室はリビングの向こう。それじゃあ、おやすみ」
彼はそういうと再び包丁を研ぎ始めた。私は彼から目を離さずに、ゆっくりと後ずさりながら寝室のドアを開けた。
私は部屋に入って明りをつけた。大きなベッドに腰掛けて考えた。逃げなきゃ。でも、どうやって逃げ出そうかしら…。彼は私を外へ出してくれそうにない。私は窓を開けてみた。ここは13階。ここから脱出するのは不可能だ。部屋の外からは包丁を研ぐ音が聞こえる。
私は部屋の間取りを思い出そうと必死になった。キッチンを通らずに玄関へ行くにはどうしたらいいか…。
「そうだ!バルコニーだ」
確かリビングのバルコニーに火災などの時に非難するためのハッチがあった。けれど、リビングに戻ればキッチンに居るあの人に見つかってしまう。私はもう一度窓を開けてみた。この窓からリビングのバルコニーへ乗り移れないものか…。手を伸ばしてみたけれど届きそうにない。諦めて窓を閉めた時、音が止んだ。彼が包丁を研ぐ音が止んだ。どうしたんだろう…。私はそっとドアを開けてキッチンの方を覗いてみた。そこにあの人の姿は無かった。トイレにでも行ったのだろうか?だったら、チャンスだ。そう思った途端、勢いよくドアが開いた。そこには彼が気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。その手には今まで彼が研いでいた包丁が握られていた。
「君がいけないんだ。逃げようなんて考えたりするから」
彼は包丁を持った手を振り上げた。
「キャー!」
私は思いっきり彼を突き飛ばした。彼はよろけて尻もちをついて。私はそのすきに寝室から出た。寝室を出てまっすぐ玄関へ向かった。玄関まで一気に走りドアの取っ手を手にした。けれど、ドアは開かなかった。そこにはテンキーが設置されていた。暗証番号を入力しないと開けられないようになっていた。私は思いつく限りに番号を入力した。彼の誕生日、私の誕生日、彼の会社の電話番号…。けれど、どれもダメだった。
「無駄だよ。ここからは出られない」
そう言って彼は再び包丁を振り上げた。もうダメ!そう思った瞬間玄関のドアが勢いよく開けられた。
マンションの周りには赤いランプを回転させているパトカーが停まってる。制服姿の警察官が数人、慌ただしく出入りしている。パトカーに後部座席には手錠を掛けられた彼が二人の刑事に両脇を抱えられて乗っている。
「危ないところでしたね」
年配の刑事が呟いた。力なく玄関にしゃがみこんだ私にその刑事は手を差し出した。私は刑事に抱きかかえられるようにリビングへ連れて行かれた。ソファーに腰を下ろすと、恐怖と戸惑いで頭の中は真っ白だった。
その男が前に交際していた女性を殺害したのは薄々感じていた。けれど、彼女はその男を愛してしまった。今度は自分が殺されてしまうかもしれないと感じていたところにその男から呼び出された。人気のない工場の廃屋に呼び出されたことで彼女は確信した。
子供の頃、事故で両親を亡くした彼女は妹と二人で施設で育った。妹は施設に入って間もなく里親がついて施設を出て行った。彼女はそれ以来、妹には会っていない。
彼女は社会に出ても孤独だった。そんな身寄りのない彼女に、その男は彼女が知らなかった“愛情”というものを与えてくれた。この人になら殺されてもいい…。彼女はそう思っていた。
彼女が自分の間違いに気付いたのは、その男が最後に見せた表情に“愛情”などというものが存在していなかったということを察したからだ。けれど、その時にはもう遅かった。彼女はその男の一撃に命を奪われてしまったのだ。
数年後、その男が新居に選んだのは奇しくも彼女が殺された廃屋跡に建てられたマンションだった。しかも、その男が妻に選んだのは幼いころに生き別れた実の妹だった。
その男は妹と付き合いながらも他の女性を部屋に連れ込んでは殺害を繰り返していた。妹だけは守らなきゃ…。
彼女はその男に殺されても成仏できずにその魂はずっとそこに留まり続けていた。まるでこうなることを予測していたかのように…。
後日、私はその時のことをあの年配の刑事から聞いた。
あの日、匿名の通報があったのだと言う。若い女性の声だったと電話を受けた者からは聞いていると。けれど、不思議なことにその時の記録は一切残っていなかったのだと言う。
刑事は言っていた。
「霊なんて信じる方ではないんですが、あの時は本当にそう思ってしまいましたよ。あなたを助けたいと思ったあなたの身内の霊が通報したのではないかとね…」
その言葉を聞いて私はハッとした。
「もしかして、心当たりがおありですか?」
「お姉ちゃん…」
幼心にもあの日のことは覚えている。
里親がついたのは本当は姉の方だった。姉は自分ではなくて私を連れて行って欲しいと懇願した。その時、私は姉が私を見捨てたのだと恨んでいた。でも実はそうではなかったことを里親になってくれた両親から私が結婚をすることになったのを機に聞かされた。そして、姉は変質者に殺害されたのだということも。詳しいことは両親も知らなかったようだけれど。
「お姉ちゃん…。ありがとう」