らふてる
実験に一息ついた日だった。
学園都市にある研究所からの帰り道、ふと旅に出たくなって、高速に乗った。
チェーン規制の場所で降りて、適当に山の中に入って行くと、いい感じに萎びた温泉郷に出た。旅館が数軒かたまっているだけの田舎の温泉らしく、車のナビにも情報がないようだった。
旅館の一つに飛び込みで入ったところ、すんなり泊めてもらえた。早速着替えて、夜中の大浴場に行くと、他には誰もいなかった。湯気に煙る露天風呂になみなみと張られた、白く濁った湯は絶品だった。
その後、いい気分で床についたところ、隣の部屋の音が聞こえてきた。安普請の旅館で、壁が薄いようだ。
「らふてる らふてる やまやんせー
らふてる らふてる やまやんせー」
妙な掛け声とともに、太鼓を叩く音が響いてくる。テレビをつけているのだろうか、こんな夜更けに。
少し苛立ちを感じながらも、目を閉じて耳を澄ますと、掛け声に交じって男女の会話も流れてきた。
「……ふふふ、おもしろいわね、りょうちゃん」
私は、一瞬、心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。私のことを、同じ名前で呼ぶ女のことを知っていたのだ。
それは、もう何年も会っていない、元彼女だった。
「あのね、ちょっとね、相談したいことがあるの」
女の声は、私の以前の彼女のものに近いように思えたが、はっきりとは分からなかった。私は布団から抜け出ると身を乗り出して、ぴたりと壁に耳を当てた。
太鼓の音の合間に、男が女に何か応えて言ったのが分かった。しかし、壁の厚みのせいか声が通らずに、その『りょうちゃん』が何を言っているのかは分からなかった。
「できちゃったのかもしれないの」
男が驚いたような唸り声をあげた。
「ウソウソ。でもね、そろそろ真面目に考えて欲しいんだぁ……その、いろいろ、ね」
きつい冗談を装いながら、核心に迫るような話し方をするのは、本当に彼女そっくりだった。声質も、かなり似ている気がする。
彼女とは、大学時代につき合っていたが、私が大学院に行き、彼女は普通に銀行に就職した後、すれ違いが多くなって結局、別れてしまったのだった。
そういえば――私も同じような問いかけをされたことを思い出す。
彼女は冗談めかして「りょうちゃん一人くらいならわたしが養ってあげる」と告げた後、「ううん、待ってもいいよ」と言ってくれた。
しかし、まだ学生でお金も自信もなかった私は、答えを出すのを避けた。思えば、彼女との間に透き間風が吹き始めたのは、その時だったと思う。
彼女は現在、三十歳になっているはずだ。今、同じ問いかけをされたら、私は何と応えるだろうか……。
いや、そんなのは、単なる仮定の話だ。
郷愁を払いのけるように頭を振り、隣の会話にまた耳を傾ける。
男は、ぼそぼそと何か応えたようだが、またしても聞き取れなかった。
しかし、彼女の方は、核心をつく答えを得たようだ。
「ホント! 嬉しい。じゃ、式の日取りとか決めないとね。あ、その前にまだお父さんに紹介してなかったよね? 早速、今週末でも**に来てよ。あとね、新築マンション、ずっと目をつけてたのがあるんだぁ」
喜色満面の顔が浮かんでくるような口調で彼女はまくし立てた。
男の方がたまりかねたのか、おい隣に聞こえるだろうとたしなめたが、それでも彼女は話し続けた。
私の方は――激しく動揺していた。
彼女が口にした**という地名は、まさに彼女の実家のある場所なのだ。
加えて、隣の部屋で話している女の声質は、私の昔の彼女と、とても似ているようだった。アップテンポに物事を進めようとするところも、そっくりだ。
まさか、本当に彼女なのだろうか? しかし、よりによって私と同じ名前で呼ぶ男と、同じ日に同じ温泉宿に泊まるなどという偶然があるのだろうか? ここは私が初めて来た土地なのは、間違いない。しかし……。
混乱しつつ考えていると、やがて、カーテンの色がどうこうと興奮したように話している彼女の声が、突然、途絶えた。
しばらくして、唸り声のような音が聞こえ始めた。
いたたまれなくなった私は、がばりと背を起こすと、もう一度大浴場に向かうことにした……。
そこで眼が覚めた。
「なんだ、夢か?」
気がついたら、露天風呂に浮かんでいた。
いや、周囲の風景が流れていた。
私は筏に乗って、湯気で煙る川を流されているのだった。
岩の障壁が低くなると、私の横に同じように筏で流されている人が見えた。
それは私だった。
驚いて見つめるが、その裸の私はまったくこちらに気づかないようだった。
さらに、その私の向こうの川に、別の私が見えた。まるで合わせ鏡のように、ずっと遠くまで、私を乗せた荒い木組みの筏が連なっていたのだ。
しかし、よく見ると、個々の私は少し姿が違っているように見えた。二つ先の私は、この私より少し太っているようだ。
思わず振り返ると、反対側にも同じように、少しづつ違う私が連なって見えた。
そして、私のすぐ隣の私は、仲むつまじく彼女と身を寄せ合っていた。
その二人は、とても満ち足りた顔をしていた。思わず目頭が熱くなった――そのとき、本当に目が覚めた。
私は、風呂に浸かったまま、眠ってしまっていたのだった。調子が悪いらしいボイラーが、軋むようにリズミカルに鳴る音が、誰もいない浴場に響いていた。
熱にすっかりのぼせてらふらになりながら、また部屋に戻って布団に潜り込んだ。隣は、もう寝ついたのか、静かだった。
そして、気づいたら朝だになっていた。積もった雪の照り返しが部屋に入り込んで、眩しかった。
私は手早く荷物をまとめて、チェックアウトした。
一瞬、旅館の人に、隣に泊まっていた客のことを聞こうと思ったが、止めた。
昨日、宿帳に記入していたのは私だけであることを思い出したのだ。駐車場に行きがけに振り返ると、私が泊まった部屋の隣には、案の定というべきか、部屋も何もなかった。私の部屋はちょうど突き当たりで、すぐ先が浴場への通路になっていたのだ。
車に積もった水っぽい雪をかき分けつつ、私はこんなことを考えていた。
この宇宙とは少しづつ異なる宇宙が、目に見えないだけでほとんど無限に重なって存在しているという最近の物理の理論があるらしい。
いわゆる平行世界というヤツだ。
おそらく、その他の世界との垣根が、昨日、なにかの拍子に低くなってしまったのではないか。
あの川は他の世界で、私『達』はその上を、筏に乗って流れてゆくように、現在から未来へと進んでいるのだ。
無限にある可能性の世界の一つでは、私はまだ彼女とつきあっているのかもしれない。
そう考えると、長年、心の底に澱のように溜まっていた何かが流れていくような気がした。
今度は、もう少し、うまく筏を制御して、良い流れをつかんでみよう、と思った。
私は上司の先生に、今日は夕刻に行きますと電話して、車のキーを勢いよく回した。
(了)
以前書いた短編を少しだけ直したものです。暇をみて連載もしたいと思っています。よろしくです。