黒の御子
「――馬鹿な――」
彼の唇から零れ落ちたのは、酷く擦れた呟き。それは、赤子の声に掻き消され、彼自身にも届くことはなかった。
腕の中にある命。待ち望んでいた存在。そして、それは彼の世界を木っ端微塵に砕く者だった。
「黒の、御子――災厄の、者」
茫然と、彼はその名を口にした。
嘗て、世界を滅ぼしかけた、闇の寵愛を受けし人間の呼称。その証は、赤子の髪と、瞳の色に表れていた。鴉の羽根より、黒曜石より、深い深い黒。漆黒と呼ぶべきその色は、闇の精霊王の加護を受けた者以外に、宿ることはなかった。
「ラルス……」
妻の声に、はっとなる。彼の目の前で、彼の最愛の女は、自らが産み落とした命に、そっと手を触れた。
「……可愛いね」
その言葉と共に、彼女の頬に雫が滑る。愛おしげに、赤子を撫でながら。
「こんなに、可愛いのに、どうしてっ――」
続く言葉は、声にならない。
「シェリエ」
彼は、嗚咽を堪える妻を抱きしめた。
「大丈夫た。お前も、この子も、俺が守るから」
腕の中の温もりに、誓う。
「泣かなくていい」
全てを捨てる覚悟は、彼女の手をとるときに、できている。
「――例え、世界の全てが敵だとしても、守るから」
愛する者達が守れるなら、世界が滅びたって、構わない。
◆◆◆
「――その人達は、どうなったの?」
そう、少女は少年に問い掛けた。大抵の日本人と同じ少女の黒髪は、酷く短く切られており、何処か痛々しい印象を与えていた。
「逃げたよ。
世界の全てが敵だったんだから。
逃げて逃げて、逃げ続けて。
――でも、結局は、逃げられなかった」
少年は、少女に向けていた視線を、赤みを帯びた空に上げた。その髪と同色の瞳は、深淵を想わせる漆黒。
「追手に追い付かれて、父親が死んだ。
それで、後に残った母親と子供も殺されそうになったけど、母親は、子供だけでも逃がそうとしたんだ」
次第に濃さを増す赤に、少年の黒はよく映えていた。
「母親は魔女で、魔法が使えた。
だから、魔法で子供を遠くへ逃がそうとした。
そして、魔法は成功したし、失敗した。
子供は、その世界から消えたから。世界の全てが子供を探したけど、それっきり、子供は何処にもいなくなった」
「……それで終わり?」
「これで終わり」
少年の返答に、少女は不満を漏らした。
「つまんない。めでたしめでたしはないの?」
「世界にとっては、めでたしめでたし。だって、世界を滅ぼせる人間がその世界からいなくなったんだから」
「……お父さんと、お母さんと、その子は、幸せになってないよ」
「そうだね。でも、初めから、そういう話だったから、それだけのことだったんだよ」
少年は、少女に視線を戻した。
「もし、その親子に幸せな時があったのなら、それは、逃げている最中だったかもしれない」
「どうして?」
「少なくとも、希望はあった。逃げ続けて、殺されない限り」
ベンチに腰掛けていた少女は、膝を抱えた。
「希望は幸せじゃないよ」
「でも、無いよりはあった方がましだろ」
少年の声は、何処までも淡々としていた。
「――さて、帰ろう」
少女と共にベンチに座っていた少年は、傍らの木刀を手しにして立ち上がった。
「帰りたくない」
少年が差し出した手を取りながら、しかし、少女はその場を動こうとしない。
「夜の公園は危ない」
「夜空と一緒なら、大丈夫だよ」
己が夜空と呼んだ少年が、大人二、三人程度なら容易く木刀で叩きのめせることを、少女は知っている。
「でも、帰ろう」
「帰る場所ないもん」
少女は泣きそうな顔で言う。少女の父親は仕事が大事だし、少女の母親は弟が大事だ。少女の家に帰ったとして、そこに少女の居場所はない。
「なければ、作ればいい」
少年は微笑して、少女の頭を撫でた。
「大丈夫。ヒカリが望んで、頑張れば、絶対作れる」
少女は、少年の顔を見て、微かに頷く。
そして少年は、少女の手を引いて歩きだした。
「夜空」
「ん?」
「また、お話聞かせてね」
「分かった」
頷いた少年の横顔を、少女はじっと見つめる。少女の家の近所に住む、不思議な少年。大人びた、というにはあまりにも老成し、達観した物腰。木刀をよく振りまわしていて、けれど、その太筋は我流というには綺麗すぎ、スポーツというには実践的すぎる。彼だけが紡ぐ物語は、ちっとも優しくなく、何処か恐ろしくすらあった。
それでも、繋がれた手は、温かい。
――望んで、頑張れは、帰る場所を作れるというのなら、この少年の隣は、自分の帰る場所になるのだろうか。
少年に手を引かれながら、少女はふと、そんなことを想った。
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ネタバレすると、黒の御子=夜空君。
異世界トリップ物を書きたくて書いたものです。