《音のない世界》
耳が聞こえない―――――いわゆる、“聴覚障害”。
先天性〈うまれつき〉の聴覚障害には原因不明が多く、原因が判明しているものでは母体に何らかの害があったり薬物によるものだったりする。
後天性〈うまれつきじゃない〉の聴覚障害には原因がきちんと分かっているものが多く、乳幼児時の高熱や病気、事故による中途失聴などがある。
私は――――――先天性か後天性かも分からないまま、一歳半年を過ぎた頃に“感音性難聴”と判明した。
昔の日本において、最も進んでいたのは盲教育であるとされている。
それは室町時代であろうか、盲人の琵琶師が『平家物語』を語り継いだとされ、琵琶師や鍼灸医として盲人独特の団体が存在していたとのことである。
では――――――ろう教育は進んでいたかと問われると、答えは否である。
役に立たない人間として疎まれ、学校にも通わせてもらえず、言葉も知らず、家の中に閉じ込められていた時代でもあったのだ。
そのことを考えると、今の時代は恵まれているのだろう。
私は誰よりも環境に恵まれているかも知れない。
誰よりも何よりも私を理解し、信じてくれる母親の存在。
何よりも誰よりも私を見守り、支えてくれる父親の存在。
幼稚園や小学校、中学校、高校、通園施設で出会った数多くの優しくも厳しくもある恩師の存在。
私の障害を理解しようと努め、極普通の障害も何もない少女のように他愛のない会話を楽しみ、気軽に遊びに行ける友人達の存在。
学校においては赤点を取ったことも少なく、成績は学年内で上位十番の中に入ることもあった程。
こういった学歴や人生を聞けば、誰よりも幸せな環境で育ったように見えるかも知れない。
けれども―――――――私は、ずっと、言いたかった。
一度だけでも良いから、お母さんの、お父さんの、声を――――――聞きたい。
お母さんやお父さんが私を呼ぶ声を、聞いてみたい。
お父さんは、どんな声で私を呼ぶの?
お母さんは、どんな声で私を呼ぶの?
一度だけで良いから――――――どうか。
そう願うことを止めたのは、中学校の最高学年の時だろうか。
少しずつ少しずつ、諦めていくようになった。
だって、どうやっても聞こえるようにはならない、それが聴覚障害なんだもの。
私は一度も母親に「どうして私は聞こえないの?」と質問をぶつけたことがなく、そして今後も聞くつもりは全くない。
たまに「お母さんの所為だって思わないの?」と聞かれることがある。
だって、お母さんは私に聴覚障害があると分かった時点で何回も自分を責めた筈だから。
だから私は母親に何も聞かず、ただ良き母娘として今までの通りに接していくだけだ。
私は生きていく。
聴覚障害のある人間として。
死に逝く瞬間まで、音のない世界を。
ずっと――――――生きていく。
耳が聞こえない、それが私の誇り。
耳の聞こえる私なんて私じゃないんだもの。
それは別人。
耳の聞こえない私だからこそ、私であると言える。
それが私の誇り。
いつか、胸を張って言えるのだろうか。
私は耳の聞こえない人間であることに誇りを持っています、と――――――――。
END
実際に私は耳が聞こえません。
それがどういうことなのかを考えてもらえたら、と思って投稿を決意しました。
家族や友人たち、恩師の存在に触れていますが、文中以上の詳しい事は載せるつもりはありません。