初恋の終わり、あるいは人生の始まり
「キキ!」
煤と砂塵に塗れたランプの光の中に、見慣れた後ろ姿を見つけた。
「アンジュ……!? 無事だったんだな。……お前、その髪、どうしたんだ」
振り返ったキキの瞳が、驚愕に揺れる。
「わからないっ、火を消そうとして魔術を使ったら、急に……」
「とにかく無事で良かった。……ここはもう保たねえ、逃げるぞ!」
キキの手が、私の腕を強く掴む。その力強さに、張り詰めていた心が少しだけ解けた。
「キキ、アンジュ!」
ジンジャーが、息を切らせながら合流する。
「ジンジャー……他のやつは?」
キキの問いに、ジンジャーはただ、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「……地面に埋まってるそうだ。助かる見込みは、ねえ」
「助けなきゃ! まだ、生きているかもしれないのに!」
私は、キキの手を振り払おうとした。
「無理だ、アンジュ! 今行けば、お前まで道連れだぞ!」
「でも……魔術を使えば、助けられるかも……!」
――ドドドドドドド!!!
私の言葉は、凄まじい轟音によって掻き消された。
「え……?」
音が聞こえたのは、中央広場の方角だった。天井に空いた巨大な穴から、何かが大量に降り注いでいる。
「中央広場だ。……何が起きてやがる」
キキが眉をひそめた瞬間、天井の穴から、ロープを伝って「何か」が次々と降りてくるのが見えた。
「ガキ共、近寄るんじゃねえぞ! 死んだフリしておけ!」
物陰から傷だらけでボロボロになった男の人が、声を荒げる。
「何が……、キキ、あれは……?」
視線の先。そこにいたのは、地下街の住人ではなかった。
整然と統率された動き、見慣れない軍服、そして、向けられた銃口。
「あの軍服……帝国軍だ。上の事故で地盤が転落して道が開いちまったらしい。……俺たちが逃げないように、中央広場目掛けて撃ってやがる……」
帝国の兵士たちは、逃げ惑う地下街の住人たちを、まるで虫ケラでも掃うかのように、次々と撃ち殺していった。悲鳴と、銃声と、血の匂い。そこは、大聖堂以上の地獄絵図だった。
「……どうしよう、ミアが、ミアが中央広場に……」
私は、血の気が引くのを感じた。
「安全だから中央広場にいてって……私が、あそこにいろって言っちゃった……!」
「アンジュ……」
「こりゃあやべーぞ。タイミング見計らってここから逃げろ。上のやつら、降りてきやがった。容赦なく殺されるぞ」
ジンジャーが、焦燥しきった声で告げる。兵士たちは、瓦礫の山を越え、私たちが隠れている区画へと近づいてきていた。
逃げなきゃ。けれど、足がすくんで動かない。
「アンジュ、行くぞ!」
キキが私の腕を引っ張る。その時、私の足が瓦礫に引っかかり、派手に転倒してしまった。
「アンジュ!」
「……あ、あ……」
瓦礫の隙間から、私の光る髪が、兵士たちの目に触れてしまった。
「生きてるぞ、殺せ!」
兵士の一人が、ぎらつく銃口を私に向ける。
引き金にかけられた指。死の予感に、心臓が爆ぜるように脈打った。
「助けて、キキ……女神様……」
私は、せめて最期が苦しくないようにと祈り、強く目を瞑った。
死を覚悟したその瞬間――。
「――ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
静かな、けれど絶対的な威厳を帯びた詠唱が、地下の静寂を切り裂いた。
(え……?)
衝撃に備えていた体は、何にも貫かれなかった。
恐る恐る目を開けると、そこには、煤けたローブを深く被った一人の女性が立っていた。
彼女が紡いだ魔術が、兵士の放った弾丸を完全に弾き返し、その衝撃波だけで彼らを瓦礫の向こうへと吹き飛ばしていたのだ。
――あれは、帝国の魔導師……?
なぜ、敵であるはずの私を。
「……逃げなさい。大聖堂の入り口側は、既に帝国の近衛に完全包囲されています。裏口の古い水路を目指して。さあ、早く!」
女性は私を振り返らず、前方の敵を見据えたまま鋭く告げた。
「あり……がとう……」
震える声でそれだけを絞り出すと、傍らにいたキキが私を抱きかかえた。
生きるための本能が体を突き動かす。
「待って。このローブで髪を隠して。貴女の髪、誰にも見られてはいけないわ」
女性は自分の肩から剥ぎ取ったローブを、走り出す私の頭から乱暴に、けれど慈しむように被せた。
その一瞬、フードの影から覗いた彼女の瞳が、まるで遠い日の懐かしい宝物を見つめるように、一瞬だけ優しく微笑んだのを私は見た。
「……生きていてくれたのね。私たちの、希望」
その呟きは、戦火の轟音に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。
けれど、その温もりだけが、灰に沈む私の心に小さな火を灯したのだ。
「何で、上の奴らが……帝国の魔術師が助けてくれたんだ……?」
横を走るジンジャーが、荒い息を吐きながら困惑を漏らす。
けれど、助けてくれた女性魔術師の助力も虚しく、私たちの逃走はすでに詰んでいた。
瓦礫の隙間から漏れ出た、私の―――太陽のように光る髪は、飢えた獣のような兵士たちの網膜に消えない焼き付きを残してしまったのだ。
中央広場の方角から、地鳴りのような騒ぎが伝わってくる。
逃げ場のない地下通路。湿った空気と、死の足音。
「キキ……っ」
私は、自分を背負って必死に駆けるキキの背中で、ただ震えていた。
「殺せ! 光っている桃色の髪の子供だ! 他はどうでもいい、上に伝えにいけ!『ラヴィアンジュの末裔』が生きていると……!」
兵士たちの怒号が、冷たい石壁に反響して増幅される。
ラヴィアンジュの、末裔……?
その名が、この帝国においてどれほどの禁忌であり、どれほどの「懸賞金」を意味するのか。幼い私には、彼らの瞳に宿る、金欲と殺意の混じった狂気だけが理解できた。
「逃がすな! 髪だけでも持っていけば、一生遊んで暮らせるぞ!」
背後から迫る、抜き放たれた剣の音。
キキの足が、瓦礫に足を取られて大きくよろめく。
終わる。
そう確信して目を瞑った、その時だった。
「……ああ。ようやく、見つけた」
地下街の喧騒を、一瞬で凍りつかせるような声。
声変わり前の少年の、酷く落ち着いていて――それでいて、地獄の底から這い上がってきたような執着を孕んだ、甘い響き。
兵士たちの怒号が、ぴたりと止まった。
代わりに聞こえてきたのは、血が噴き出す音と、肉が断たれる鈍い響き。そして、金属が石畳に転がる音。
「ひっ、あ……が……っ」
悲鳴を上げることすら許されず、追手たちが次々と「物言わぬ肉塊」へと変えられていく。
私は、恐る恐るキキの背中越しに、背後を振り返った。
逆光の中に、一人の「影」が立っていた。
返り血を浴びてもなお、汚れることのない白銀の髪。
宵闇を凝縮したような漆黒のローブ。
そして、闇の中でも不気味に発光する、紫水晶の瞳。
彼が指先を微かに動かすたび、見えない刃が兵士たちの命を刈り取っていく。
それは魔術というよりも、神による一方的な裁きに近い光景だった。
彼の瞳が、周囲の惨劇には目もくれず、真っ直ぐに私だけを射抜く。
「……初めまして」
彼は血に濡れた手を伸ばし、慈しむように微笑んだ。
――――その瞬間だった。
「……まだ、一匹残っていたか」
美しい少年の背後、死体の影に隠れていた兵士の一人が、最後の力を振り絞って飛び出した。
彼の狙いは、私ではない。
私を背負っている――――――キキだった。
「キキ、危な……っ!」
私の悲鳴は、間に合わなかった。
鈍い衝撃と共に、錆びついた剣がキキの背中を深く貫く。
「がはっ……!」
キキの口から、大量の血が溢れた。
力が抜け、キキの身体がゆっくりと石畳に崩れ落ちる。私も一緒に、冷たい床に投げ出された。
「邪魔が入ったな……」
少年の瞳が、初めて不快げに細められた。
彼が指を鳴らすと、キキを刺した兵士は、悲鳴を上げる暇もなく全身を塵へと変えられた。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「キキ! キキ、しっかりして!!」
私は這いずり寄り、倒れ伏したキキの身体を抱き起した。
背中の傷口からは、ドクドクと熱い血が溢れ出し、無慈悲に石畳を赤く染めていく。
「キキ、死んじゃだめだよ……! お願い、目を開けて!」
「……ばーか、泣くな…………死なねぇよ。……刺されても、死ななかったんだ」
キキは血に汚れた口角を無理に上げ、強がってみせた。けれど、その頬からは急速に赤みが引き、透けるような白さに変わっていく。
「キキ、キキ……! 痛いよね、すぐ、今治すから……っ」
私は震える手をキキの傷口にかざした。
頭に浮かぶのは、祈りの言葉。だが、私の指先はピクリとも光らない。
「――っ、お願い、出て! 動いて……!」
絞り出すように呪文を唱える。けれど、酷使した身体に魔力は一滴も残っていなかった。空を掴むような虚しさが、指先から伝わってくる。
「シャ……ロット……」
掠れた声に呼びかけられ、私は手を止めた。
「え……?」
「シャーロット……。春を、告げる……幸福の鳥の、名前……」
キキは、まるで見慣れた夢でも見るかのような、穏やかな瞳で私を見つめた。
血の気の引いた指先が、最期の力を振り絞るようにして私の頬に触れる。
「……お前に、よく似合う、よ……」
その言葉を最後に、頬を撫でていた指が力なく滑り落ち、硬い石畳を叩いた。
「キキ? ねぇ、キキ……?」
私はキキの身体を激しく揺さぶった。けれど、返ってくるのは物言わぬ肉体の、重く、残酷な沈黙だけ。
「キキ、ねえキキ……。どうして、どうして目が覚めないの、キキ……」
叫んでも、泣いても、どれほど必死に祈っても。
腕の中の相棒は二度と笑わず、その体温は夜の闇に溶けるようにして、静かに、静かに冷たくなっていった。
「残念だけど、失われた命はもう助からない」
フードを深く被った少年が、氷のように冷静な声で告げた。
「お願い、キキを助けて……貴方なら、貴方の魔術なら助けられるんじゃないの……!」
私は、縋り付くように少年のローブの裾を握りしめた。
「……君は、この男を助けたいの?」
「っ、助けたい……!」
私は、吸い込まれそうなアメジストの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「今は感情に乗せただけの、汚い魔術式だ。けれど……君に宿る『女神の祝福』を正しく制御できれば、彼は助かるかもしれない」
「お願い、何でもします。だから、助けて……!」
「残念だけど、現時点で死者を完全に蘇らせる魔術は、この世のどこにも存在しない」
少年の無慈悲な言葉に、絶望が全身の血を凍らせる。
「――けれど、君は女神の祝福を受けている。そんな君なら、万に一つ、彼を『蘇らせる魔術』そのものをいつか創り出すことができるかもしれない」
「蘇らせる……魔術……?」
「この世でそれを成し遂げられるのは、たった一人、君だけだよ。ウィンターが、君にその資質を遺してくれて、本当に良かった」
「ママを……知っているの……?」
「うん。君の母親のことも、そして君の父親のことも、よく知っている」
彼は淡々とそう告げると、横たわるキキの身体へと白い手を向けた。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
少年が低く詠唱した瞬間、キキの身体は輝く青白い氷に包まれ、その姿を閉じ込めていった。
「死体を凍結保存した。これで、彼が腐ることはない。時間は止まったままだ」
「……キキを、本当に生き返らせられるの?」
「魔術を学ぶんだ。今、死者を呼び戻す術はないけれど、君なら……女神の祝福の最後の後継者である君なら、辿り着けるかもしれない」
「私、何でもする……。だから、魔術を教えて」
「喜んで。私はヴェリアル。ヴェリアル・クレミア・ルーファス」
少年はそう言って、私に冷たい手を差し出した。
その名が、帝国の王位継承権を持つものの名前なんてことを当時の私には知る由もなかった。
「私は……シャーロット」
掠れた声で、私は自分に与えられた唯一の証を口にする。
私は迷わず彼の手を取った。
キキを――私に『シャーロット』という名をくれた、たった一人の大切な人を、もう一度この手で抱きしめるために。
これが、後に後悔という言葉では到底言い切れないほど後悔することになる、「彼」との物語の始まり。
私の幼い初恋が、冷たい氷の中で永遠に閉ざされた日だった。
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