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路地裏の約束




賃料を払い出して、二桁の月が経った。

 

ある特別寒い日の夜。

 

一日の仕事を終え、心地よい疲れとともに共有スペースへ戻った私は自分の寝床を目にして、指先から血の気が引くのを感じた。


 

「……キキ?」

 

「おう、どうしたよ、天使ちゃん。そんな幽霊みたいな顔して」


 

卓を囲み、仲間たちとカードゲームに興じていたキキが、私の異変に気づいて顔を上げる。その指先が、流れるような動作でカードを操るのを止めた。

 

「あの、帰ってきたら……毛布が、なくて。朝はちゃんと、ここに畳んであったんだけど……」

「……あぁ?」

 

 

キキの瞳が、一瞬にして遊びの温度を失い、飢えた山猫のそれに切り替わる。

常冬のこの牢獄で、毛布がないのは死に等しかった。


 

「おい、キキ! カード抜くのかよ? これからが良いところなんだぜ」

 

同卓していた仲間が不満げに声を荒らげるが、キキは椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 

「一旦アガりだ。おい、アンジュ、ちゃんと探したんだろうな?」

 

「うん。でも、どこにも……」

「しゃーねえなぁ。……おい、どけ」

 

キキは迷いのない足取りで、女の子たちが固まって寝ている居住区の奥へと踏み込んだ。


 

「ちょっと、キキ! 勝手に女の子の部屋に入ってきて、あさらないでよ!」

 

「は? お前らが人のもん盗まなきゃ、こちとら今の一戦で一万ベルクは勝ってたんだよ。……ほれ、これだろ」


 

騒ぎ立てる少女たちを冷ややかに一蹴し、キキが山積みの荷物の下から力任せに引きずり出したのは、紛れもなく見覚えのあるものだった。

 

その場にいた少女の一人が、忌々しそうに舌打ちをしながら私を睨みつける。

 

キキが再びカードの卓に戻り、周囲に喧騒が戻った後。

私はようやく取り戻した毛布を愛おしく抱きしめ、自分の場所へ戻ろうとした。だが、暗がりに潜んでいた「影」が、私の行く手を塞ぐように立ちはだかる。

 

「…… ねえ」

 

低い、地這うような声。

同時に、肩を強く突き飛ばされた。

 

「いっ……!」

 

抗う術もなく、私は硬い床に尻もちをついた。目の前に立っていたのは、この教会の年長者でもある少女──フィオナだった。

 

「あんまり調子に乗るんじゃないよ、新入りのくせに。キキが構うからってあんたが特別だと思ったら大間違いなんだから」

 

「どういう、こと……?」

 

フィオナは三日月の形に目を細め、凍てつくような笑みを浮かべて私を見下した。

 

「キキの隣にいるのは、あたしなんだよ。近づくんじゃないよ、このブスが」

 

「おっ、喧嘩か?」

 

「ヒュー! やれやれ、フィオナ! 派手にいこうぜ!」


 

退屈を貪っていた子供たちが、格好の娯楽を見つけたように囃し立てる。

フィオナが、憎悪を込めて右腕を振り上げた。

──ばしっ!!

激しい衝撃とともに、私の頬に焼けるような熱が走る。


 

視界が火花を散らし、涙が滲む。フィオナが勝ち誇った顔で二撃目を振り下ろそうとしたその時

――──彼女の手首が、空中で鋼のような力に抑え込まれた。

 

「……キキ!」

 

「なんだよキキ、つまんねーぞ! 女の喧嘩に割り込むんじゃねーよ!」


 

煽っていた連中が不満を漏らす。だが、キキの顔に、いつもの不敵な笑みは微塵もなかった。


 

「こっちは負けが込んで、最高にイライラしてんだよ。俺の目の前で下らねぇことして、これ以上俺の機嫌を損ねるな」

 

キキはフィオナの手を、汚物でも払うように乱暴に放り出した。その冷徹な声に、周囲の空気は一瞬にして絶対零度まで凍りつく。

 

「……なにそれ。あたしが今まで同じことしても無関心だったくせに」

 

「調子乗んな。面倒だから放っておいただけだよ」

 

「だってキキ全然構ってくれないじゃん!……それが、どんだけ惨めかわかんないの……?!」


「知らねぇな」

 

キキはフィオナの弁明を切り捨て、地べたに這いつくばったままの私に背を向けた。

 

 

「行くぞ、アンジュ。立てんだろ」


 

去り際のフィオナの、刃物のような視線が私の頬を切り裂く。

キキが私を守ってくれたのか、それともただの便利な金儲けの道具として管理しただけなのか。今の私には、その境界線は見えなかった。

ただ、彼の後を夢中で追いかけた。





 

「あ……血が出てる!」

 

二人きりになった路地裏。

キキの手の甲についた引っかき傷に思わず声を上げた。


「クソ、アイツ、爪を立てやがったな……」

 

キキは忌々しそうに手を拭ったが、傷は思いのほか深く、指の間から赤黒い血が溢れて止まらない。


 

「キキ……目を瞑って」

 

「あ? なんだよ、いきなり。……もしかして、チューでもしてくれるのか?」

 

 

場を和ませようとするいつもの軽口。けれど、私は真剣だった。

周囲をきょろきょろと見渡す。誰もいない。ゴミ溜めの影、湿った壁の裏、潜んでいる「目」はない。

脳裏に、桃色の髪を揺らしたママの、震える声が蘇る。


 

 『いい、アンジュ。魔術を使っているところを、誰かに見せたらダメよ』


『ママ、どうして?』

 

『じゃないと……悪い人が、貴方を捕まえに来てしまうから』



────ごめんね、ママ。


 

「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」

 

かじかんだ手でキキの手をギュッと掴む。

 

胸の奥から汲み上げた魔力が、祈りとなって言葉に変わる。

 

「……ル・ヴェルディ・ラヴィアンジュ」

 

女神の名を冠する、禁忌の言葉。

ただの魔術を、何百倍にもする特効薬。

 

私の指先から溢れ出したのは、闇を払うような純白の輝きだった。

 

 

「女神ルウェル・ラヴィアンジュさま。どうか、キキの怪我を治してください─――─」

 

「っ……!?」

 

キキが短い息を呑む。

光が傷口を、そして全身を優しく包み込むと、開いていた傷はまるで行き先を知っているかのように吸い付いて塞がっていく。血は一瞬で止まり、皮膚は赤ん坊のような滑らかさを取り戻した。

 

「 アンジュ……お前、魔術師だったのか……?」

 

キキは自分の腕に触れ、それから驚愕に目を見開いて私を見つめた。

 

「うん……」


キキはそのまま服を捲って、自分の身体の何かを確認した。そして私の肩を、ギュッと強く掴んだ。

その指が小刻みに震えている。

 

「……聞いたことねぇよ。……単なる治癒魔法じゃない。生まれた時に付けられた古い傷跡まで、完全に消えちまうなんて」

 

「……どういうこと? 怪我は、さっきの引っ掻き傷だけじゃ……」

 

「……これを見ろよ」

 

キキは乱暴に胸元を寛げ、心臓のあたりを指差した。

 

そこにはさっきまで確かにあったはずの「酷い痣のような傷痕」が、跡形もなく消え去っていたそうだ。

 

「そこに、大きな傷があったの?」

 

「……ああ。父親に付けられたらしい。…………俺、母さんの()()()()だったんだよね。目の色も髪の色も、家族の誰にも似てなくてさ。……それで、父親が逆上して、グサッと。何ヶ所も刺された。殺す気でな」

 

キキは自嘲気味に笑い、天を仰いだ。

 

「何で生き残ったんだろうなぁ、俺。……それ以来、俺の体には醜い傷跡がびっしり残ってたはずなのに。……お前の光が、全部消しちまった」

 

キキの過去。

私が想像もできなかった、あまりに鋭利で孤独な物語。

キキがどうしてあんなに「生きる」ことに執着し、他人を寄せ付けない強さを持とうとしたのか。その理由が、悲しいパズルのピースとして嵌まっていく。

 

「……っ……う、……」

 

気づけば、私の目から大粒の涙が溢れていた。

 

「……おい、泣くなよ天使ちゃん。な?」

 

キキは困ったように眉を下げ、不器用な手つきで私の涙を拭った。


 

「だって……キキ、何にも悪くないのに……っ! どうしてそんな酷いことを……」

「そういうもんだろ、人生ってやつは」

 

キキは遠くを見つめる。その瞳に宿る金色の光は、今はどこか穏やかだった。

 

「アンタだって、本当は太陽が似合う女だよ。……アンタには陽だまりの青空がよく似合う」

 

「……キキは、空を見たことがあるの?」

 

私の問いに、キキの身体が一瞬、硬直した。

 

この地下牢獄に閉じ込められている者の大半は、罪人の子孫だ。けれど、中には地上から送られてきた者もいる。

それはつまり、彼がその手で、何らかの取り返しのつかない罪を犯したということだ。

 


 キキは、天を仰いだまましばらく沈黙していた。

湿った壁を伝う水の音と、遠くで聞こえる野良犬の遠吠えだけが、路地裏の静寂を埋めていく。

 

「……アンジュ。お前はさ、人を殺したことがあるか?」

 

唐突な問いに、私は息を呑んだ。

首を横に振ることも忘れ、ただキキの金色の瞳を凝視する。その瞳は、暗闇の中で獲物を狙う獣のように鋭く、同時に、今にも壊れそうなほどに揺れていた。

 

「俺は、あるぜ。……たった一度。それだけで、俺の人生は真っ逆さまにこの地獄へ落ちた」

 

キキは、魔法で綺麗に消えたはずの胸元を、無意識に自らの爪でなぞった。

消えてしまった傷の感触を確かめるように。

 

「……さっきも言った通り、俺は疎まれて育った。不義の子、裏切り者、穢れ。家じゃ家畜以下の扱いさ。だけど、母さんだけは違った。……母さんだけは、俺がどんなに化け物扱いされても、あなたは私の宝物よって言ってくれたんだ」 

 

キキの声が、微かに震える。

 

「ある日、あの男……俺を刺した父親がさ、酒に酔って母さんに手を上げたんだ。いつものことだった。だけど、その日は違った。男はナイフを持ち出した。母さんの喉元にそれを突き立てて、笑いながら言ったんだ。この化け物を産んだ不始末を、今ここで終わらせてやる……って」

 

私は、キキの手を握りしめた。

キキが語るその凄惨な光景が、まるで自分が見たことであるかのように鮮明に描き出されていく。

 

「気づいた時には、俺の手には別のナイフが握られてた。……気がついたら、男の喉笛を掻き切ってたよ。返り血で、視界が真っ赤に染まって……母さんの悲鳴さえ聞こえなかった」

 

キキは自嘲気味に口角を上げた。

「それが、俺の罪だ。親殺し、不道徳」

 

キキの言葉が、冷たい風に乗って私の心に突き刺さる。

彼は愛する人を守るために、この地獄に落ちた。

 地上を追われ、空を奪われた。

 それでもなお、この掃き溜めで子供たちを拾い、居場所を作って生きている。

 

「……ねえ、キキ」

 

私は、彼の大きな、けれど震えている手を自分の頬に寄せた。

私の頬には、まだフィオナに叩かれた熱が残っている。

 

「キキは、悪い人じゃないわ。……絶対に」

 

「……本当におめでたい奴だな、天使ちゃん。人を殺した奴に向かって、よくもまあそんなことが言える」

 

「言えるわ。だって、もしあの時キキが何もしなかったら、キキのママは死んでいたかもしれない……キキは、自分の命よりも、大事な人を守りたかっただけ」


 

私の目から、再び涙が零れた。

キキが背負ってきた、あまりにも重すぎる「罪」という名の鎖。

私が魔法で消したのは身体の傷だけれど、本当は、彼の心に刻み込まれたその真っ赤な記憶も、全部洗い流してあげたかった。

 

「……泣くなよ。俺は後悔なんてしてねえ。……ただ」

 

キキは、私の桃色の髪を優しく、本当に愛おしそうに撫でた。

 

「……母さんは俺を守ってくれたから……俺も何かを……命尽きようとしている奴を助けてやりたい。それだけが、この地獄で俺を動かしてる、たった一つの未練なんだよ」


「キキ、あの日わたしを助けてくれてありがとう」


「……ほんとはさ、俺、キキって名前じゃねーんだよ」

 

「え……?」

 

意外な告白に、私は目を丸くした。キキは自嘲気味に鼻で笑うと、言葉を続ける。

 

「地獄に落とされて、ボロボロになって野垂れ死にかけてた俺を、助けてくれた人がいたんだ。その人がつけてくれた名前なんだよ、『キキ』ってのは。……だからさ、俺にとって名前を贈られるってのは、命を繋いでもらうのと一緒なんだ」

 

彼は腰を下ろし、湿った地面に座り込んだ。

 

「名前っていうのはさ、自分じゃ呼べねえだろ。誰かに呼んでもらって、初めて自分はここにいるんだって思える魔法みたいなもんだ。……お前は、ずっと『アンジュ』って呼ばれて、ママに愛されてきたんだろうけど、ちゃんとした名前で呼んでやりたい」

 

キキは照れくささを隠すように、少し乱暴に私の頭を撫でた。

 

「だからさ、俺もお前に名前をつけてあげようか。」

 

「……っ、いいの! 欲しい! キキがくれる名前が、欲しい!」

 

私が食い気味に、縋るように答えると、キキは少しだけ気圧されたように目を丸くし、それから可笑しそうにハッと短く笑った。


 

「待てよ。そんなちゃんと考えるから、時間ちょーだい。一生もんの名前なんだからよ、適当なのは嫌だろ」

 

「待つ! 絶対、待つから!」


「そんな期待に満ちた目で見んじゃねえ。俺、学があるわけじゃねーし。カッコいい名前なんて、そうそう思いつかねえからな」


「キキがくれるなら、なんでも嬉しいの」


「そぉかよ」



今まで、私の脳内の「棚」には、死んだおじさんが教えてくれた地上の風景や、新聞に載っていた皇太子の名前、博打打ちが隠したカードの数字……そんな「他人の欠片」ばかりが詰め込まれてきた。

けれど、これからキキがくれる名前は、きっとその棚のど真ん中に、特別キラキラ輝く宝石として飾られることになる。

 

「……じゃあ、今日はお開きだ。さっさと寝ろ、アンジュ。明日も朝からフル稼働だぞ」

 

「うん。おやすみなさい、キキ」

 

寝床に戻り、取り戻した毛布にくるまる。

 

頬の痛みはまだ少し残っているけれど、彼の傷を癒した指先には、まだキキの熱が微かに残っているようだった。

 

暗闇の中、私はそっと呟く。

 

「名前……」

 

どんな響きだろう。どんな意味を込めてくれるんだろう。

 

私は、まだ見ぬ自分の名前を夢見て、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

ただひたすら、幸せな予感で満たされていた。

 











 


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