sideエルステラ 孤独な山猫の復活と魔術師と
「帝国に行こうと思うんだぁ」
ある日突然、降ってきたようなミルヒオールの申し出に、ヴィクトリアは手元でパチパチと不気味な光を放っていた魔導具から視線を外し、防護用の眼鏡をゆっくりと脱いで彼と向き合った。
薬品と古書の匂いが立ち込める研究室に、いつもは何でもないような退屈しのぎでふらりと遊びにきては、適当に暇つぶしをしていく彼にしては、その声色には奇妙な真剣味が帯びていた。
「唐突ですね。一体、何のために?」
「んー、ちょっとねぇ、気になることがあってぇ? ひと月くらい、あっちの街をぶらぶら見て回ろうかなぁってぇ」
「……こちらは構いませんが……」
喉元まで出かかった言葉を、ヴィクトリアは辛うじて飲み込んだ。
『前回は貴方、あそこで過呼吸を起こして倒れましたよね』と。
3年前。
当時の帝国の皇太子をあらゆる手を使って失脚させるよう、主であるヴェリアルに命じられたミルヒオールとヴィクトリアは、素性を隠して帝国へ向かった。
……しかし、その巨大な王宮の門を目にした瞬間、彼はひどいパニックを起こして倒れたのだ。
それ以来、ミルヒオールはいつ如何なる時も帝国に近づくのを避けてきた。
──────それなのに。
これはどういう心境の変化なのか、ヴィクトリアは注意深く癖毛の青年を見つめた。
エルステラの誰もが、未だにシャーロットを失ったことによる巨大なトラウマを、心臓の奥深くに突き刺したまま生きている。
けれど、いつも飄々としているあのミルヒオールが、あんな風に震えて倒れるなんて。それほどまでに「帝国」という土地は、彼らにとって忌まわしい記憶の引き金だった。
「……私も行きます」
「えぇ? ヴィクトリアはさぁ、いま色々と忙しいんじゃないの?」
「研究はひと段落していますよ。それに……キキも一緒に連れていけば。彼も帝国に行けば、少しでも何か思い出すきっかけになるかもしれません」
「やっぱりちっとも思い出さない?」
「ええ、少しも。今は目に入るもの全てが面白いみたいで、ユーティオティアス様について色々な所に行っているみたいです」
「そっかぁ。でも、ようやくここまで来たって感じだねぇ。……もしロティがここにいたらぁ、きっと泣いちゃうくらい喜んだだろうに」
生前、シャーロットはどんなに国務が忙しくても、数日に一回は必ず、薄暗い地下の霊廟へと足を運んでいた。
短くて数十分、長ければほぼ丸一日、冷たい石床の上に佇んでいることもあった。
『あ、あの……シャーロットが、あそこで祈りを捧げているのはど、どなたですか……?』
ヴィクトリアがエルステラの一員に加わって間もない頃、その疑問をどうしても抑えきれず、ヴェリアルに問うた事がある。
シャーロットがまだ少年と言っていい年齢の子供とはいえ特別な異性を想い、執着すること。
それを、あのヴェリアルが────この世の何よりシャーロットだけを想っている男が、黙って許していること自体が只事ではないと思ったのだ。
恐る恐る聞いてみたヴィクトリアに対し、ヴェリアルは酷く美しい、しかし凍りつくような笑顔を浮かべ───そして実際に周囲の部屋の空気を一瞬で凍らさせてこう言った。
『彼女が魔術を学ぶ理由……なのかな』
のちにヴィクトリアは、『貴女はなんて余計な事をヴェリアル様に聞いたんですか!』と、ユーティオティアスから激しい大目玉を食らうことになるのだが。
ヴィクトリアにとって、シャーロット・ラヴィアンジュという少女は、絶望から救い出してくれた恩人であり、対等に接してくれる唯一の友であり、世界で最も尊敬する偉大な師だった。
魔術師の祖、女神の最後の末裔としての高貴なる血筋と、神に愛されたような圧倒的なセンスを持ち合わせ、生まれながらにして魔術の深淵の先頭をいく彼女。……だが、その本質はただ知識をひたすら求める化け物でもあった。
ある日、どうしても解き明かしたい古文書があったのか、彼女は図書室の奥に引きこもった。
一日、二日ならまだしも、まともな食事も摂らず、菓子とコーヒーだけで三日間を過すシャーロットを見て、流石に周囲も焦り始めた。
しかし、誰が声をかけても返ってくるのは「あと少しで完成するから」という、心ここにあらずな上の空の返事だけだ。
しかも運悪く、彼女を物理的に強制終了させられるヴェリアルも、ちくちくと嫌味を言えるユーティオティアスも、この時に限って不在だった。
そして迎えた四日目。
共和国との会談を終え、帰還したユーティオティアスが、疲れを滲ませた軍服のまま図書室へ直行した。
「あっ……ユーティオティアス様」
状況を報告しようとしたヴィクトリアを、彼は片手で制する。
「……いいですよ、ヴィクトリア。下がっていなさい」
彼は無表情のまま、情熱という名の死神に憑りつかれたシャーロットの背中へ静かに指を向けた。
「───ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
黄金色の魔力が波のようにうねりながら放たれる。
「がはっ……!?」
(攻撃した───それも、骨の数本が折れてもおかしくない威力の魔法を)
ヴィクトリアの表情はその容赦のない光景に、思わず引きつった。
「死ぬのは勝手ですが、もう少し何かまともな業績を成し遂げてからにしてください、シャーロット・ラヴィアンジュ」
「ティティ……? お、怒ってるの……?」
「呆れているだけです」
「え……なんで……?というか、いつ帰ってきて……」
痛みに顔を歪めながらも、シャーロットはまだ事態を理解できていないようだった。
この通り、彼女は無意識のうちに自らの命を削るほど、知識と魔術をこよなく愛していたのだ。
愚直なまでに真っ直ぐな人だった。
「あの、わ、私にも、何か仕事をいただけませんか」
「仕事?」
「どんな事でも……雑用でも、何でもいいのです。魔力のない、ただの人間の私では出来ないことも多いでしょうが、何か皆さんの役に立ちたいのです……!」
当時のヴィクトリアは、自身の無力さにただ俯くことしかできなかった。
しかし、シャーロットは慈しむように目を細めてこう言った。
「んー、……ヴィクトリアは何がしたい?」
「……私が、選べるのですか?」
「やりたい事をしなきゃ、人生なんてすぐ終わっちゃう。魔力がないと出来ないことなんて、世界全体のほんの一部よ。だからそんな事は私がやるから……貴女は貴女の好きなことをすればいいわ」
あの言葉に、どんなに救われただろう。
そのお陰で今、研究者としてここにいる。
ヴィクトリアはそう思った。
そんな彼女が。
世界で一番愛おしく、尊敬する大切な友人が、あっけなく死んだ。
ならば、遺された者が彼女の最後の望みを、あの地下の霊廟で祈っていた悲願を叶えたいと命を賭けるのは、あまりにも必然だった。
魂の抜けた「キキ」の肉体を完全に甦らせるために、最初にヴィクトリアは、自らの身体を使って実験を行った。
人間を無理やり魔術師のへと変貌させるための禁術。
大罪を犯して処刑された魔術師の心臓を抉り出し、自らの胸へと移し替えて魔力を使える身体を作り上げる。そして一瞬も休まず魔術を自らの身体にかけ続けることで、鼓動を強制的に刻ませる。
胸を切り裂くような激痛の果てに、ヴィクトリアはほんの少しだけ魔術を使える肉体へと成り果てた。
その代償に罪人の心臓の意思が残っているのか、時折底冷えする位冷たい感情が湧き出てくる事はあった。けれど、その程度我慢するのは簡単だった。
そして自らの身体での成功という確固たる裏付けを元に、彼女はキキの胸を開き、厳選した優しい魔術師の心臓を移植した。
そして魔力を流し込み、凍りついていた時間を動かした。
長い眠りから目覚めたその少年は――宝石のような、深く美しい金色の瞳をしていた。
ああ、この瞳をシャーロットは見たかったのだと、その時ヴィクトリアは魂で理解した。




