春を迎えた貴方へ
「報告します!商業区から上がった火の手が強風に煽られ、隣接する居住区へ向かって急速に拡大中!このままでは帝都の三分の一が灰になります!」
息を切らせた伝令が飛び込んでくると同時に、執務室の窓の外が、不気味なほど赤く染まっていくのが見えた。遠くから押し寄せる地鳴りのような悲鳴と、爆音。
それはすでに人の手には負えない「天災」へと成長していたのだ。
ルキウスが初めて明確な不快感を顔に表し、舌打ちをする。
「ユリウス、魔術師団を総動員し、必ず鎮火させろ」
「はっ。既に現場に魔術師団を向かわせています。水系魔術を一斉に───」
「駄目」
私は鋭くその言葉を遮った。ユリウスの瞳に混乱と動揺が走る。
「これだけの規模の火災よ。中途半端な水をバラバラに浴びせれば、一瞬で超高温の水蒸気に変わる。取り残された領民たちを蒸し焼きにする最悪の兵器に化けるわ。それに、強風で供給され続ける酸素の勢いが勝っている。普通の方法では火は消せない!」
「では、どうする」
ルキウスが、値踏みするような凶暴な光を孕んだ瞳で私を凝視する。
私は窓の外の燃え盛る街を見据え、頭を高速回転させる。シャーロットだった頃、得た全ての知識と記憶を総動員させ、そして──────。
脳内で失われていたピースが、カチリと音を立てて嵌まる。
「な、え、ティティ、どうしたの?!」
「ユーティオティアス様ってばぁ、頭いいはずなのに、時々物凄い馬鹿だよねぇ。溶岩に水を注げば蒸気で爆発するに決まっているのにぃ」
とある夕方。革命軍本部に帰還したユーティオティアスは右腕と顔の半分を大火傷した。
傷はぐちゃぐちゃ。腕に至っては、骨まで見えている。
エルステラをより良い土地にする為、火山地帯の地熱を利用しようと無茶を強行し、あえなく失敗したのだ
「怪我、火傷、医療班!」
私が悲鳴を上げる傍らで、当のユーティオティアスは力なく膝をつき、吐息を漏らした。
「はぁ……不覚でした。あそこまで強烈な地熱反応だとは……」
「あはははは! いやぁ、傑作! 本当に傑作だぁ!」
焦る私とは裏腹に、腹を抱えて笑い転げるミルヒオールに、ユーティオティアスは分かりやすく青筋を浮かべた。
「笑いすぎです。……なら、ミルヒオール。消えない炎に君ならどう向き合うんです?」
ユーティオティアスは悔しさを噛み殺し、冷徹な理知の光を瞳に宿して問いかける。
「……んー?そうだねぇ。僕ならぁ……」
─────あの時、ミルヒオールはこう言った。
「街を、一瞬で丸ごと水の中に沈めるわ」
「…………なっ!?」
ユリウスが息を呑んだ音がした。
「水で覆う……? それでは、領民たちが溺死してしまいす!」
「いいえ。水の中に沈めるのは、ほんの一瞬。同時に、超広域の結界を展開して街をドーム状の水で完全に密閉するの。目的は消火ではないわ。街全体の『酸素』を一瞬で遮断し、火を完全に窒息させるのよ!」
燃え盛る火を、水で薄めるのではない。
世界の酸素を奪う。その為に、水を使うのだ。
「三秒であれば、人間は息を止めていられるわ。水が引いた瞬間に、火は一粒残らず消滅している。これなら、蒸気による二次災害も防げる!」
理路整然とした、しかしあまりにも破天荒で、常識を超越した大魔術の提案。
10歳の子供が口にしているとは到底信じられない大胆な戦術に、ルキウスは一瞬驚愕に目を見開いた。
───そして、次の瞬間には歓喜の笑みを浮かべていた。
「アデライン、ユリウス。皇太子命令だ。今すぐ転移門で現地へ飛び、この火災を止めろ。合図があり次第、国民には息を止めるよう布告する」
「……御意」
「はい」
私は一歩前に出ると、手首に刻まれた枷の痕が生々しく残るユリウスの手を、小さな両手で強く握りしめた。
ユリウスが静かに詠唱を始めると、空間が歪み、複雑な幾何学模様を纏った転移門がその姿を現す。超高難易度の魔術だ。
現れた光の中へ、ふたりで足を踏み入れる。
────次の瞬間、視界が焼け付くような赤に塗り潰された。
そこは、地獄の業火そのものだった。
肌を焼く熱波が容赦なく打ち付け、周囲の建物が断末魔のように音を立てて崩れ落ちる。
どこからか聞こえる子供の泣き声と、炎に巻かれた人々の断末魔。
逃げ場を失い、廃墟の陰で身体を寄せ合って震える領民たちの姿が、絶望を物語っていた。
あまりの惨状に、一瞬だけ意識が持っていかれそうになる。
いけない。ここで心を折れば、終わる。
私は強烈な眩暈を振り払い、呆然と炎を見つめていたユリウスの視線を、強引に引き戻した。
「ユリウス、魔術師団へ連絡を! 合図の花火が上げたら、全魔術師の全魔力を一気に解放し、水を編み出すように伝えなさい」
「……っ!」
「貴方が結界を張るのよ。一ミリの隙も許しては駄目。少しでも術式が漏れれば、それは消火ではなく、街を呑み込む大水害を引き起こすことになるわ」
「……そんな精密な魔術結界を、この短時間で……! 訓練でさえ、これほどの術式を構築した経験はない……!」
彼の瞳が激しく揺れる。帝都を守る魔術師団長としての矜持と、人命を救えなかった時の重責が、その肩に重くのしかかっている。
けれど、私は知っている。悲劇的な局面というものは、いつも準備などないままに訪れるものだ。
訓練ではなく、その瞬間の想いだけが限界を突破することが出来る。
「いいわ。私が術式を伝える。貴方はそれにそのまま魔力を流し込んで」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ、全てを射抜くような強さで呼びかけた。
「なぜ……なぜ、貴方にそんな事が出来る……!」
問い詰める声には、疑念よりも深い戸惑いが滲んでいた。
私は静かに微笑む。
それはかつて、小さな子供だった貴方へ向き合った時と同じように。
「言えない。けれど、信じて。人々を救いたいという願いは、貴方と一緒なの」
その瞬間、ユリウスの身体が、まるで雷に打たれたように激しく震えた。
彼の瞳に映る十歳の少女――アデラインの面影が、記憶の深淵に固く封じ込めていた女性の姿と、完璧に、寸分の狂いもなく重なり合う。
(ああ……そうか。……貴女だったのか)
ユリウスの青い瞳に宿っていた迷いや恐怖が、音を立てて崩れ去る。彼は迷わず跪き、震える私の手に、熱い額を預けた。
「……御意に。貴女を、信じます」
その声には、先ほどまでの迷いや恐怖は一片も残っていない。ただ、魔術師団長として目の前にある地獄を救おうとする、確かな覚悟だけが宿っていた。
帝都の夜空に、黄金の魔法陣が瞬く。
それはかつてエルステラの戦場で私が編み上げた、超高等幾何学術式。
かつてと同じ、寸分の狂いもない術式が、ユリウスの膨大な魔力を媒介にして具現化していく。
炎の海と化した下町の中心で、ユリウスが杖を地面へと突き立てた。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ。女神よ、力を貸してください……!」
その詠唱が合図となり、空を裂いて花火が上がる。
ドォォォン────ッ!!!
地下水道と大気、その両方から津波のような凄まじい水流が解き放たれ、燃え盛る帝都を飲み込んだ。
轟々と唸りを上げていた紅蓮の炎は、巨大な水のドームに閉じ込められ、その熱を奪われていく。街全体が神秘的な青い水の底へと沈み、世界から赤色が消え去った。
一、二、三。
「霧散、せよッ……!」
ユリウスが指を鳴らした瞬間、街を覆っていた数百万トンの水塊は、最初から幻であったかのように粒子となって夜空へ溶け出した。
あとに残されたのは、水を滴らせながらも、嘘のように鎮火した静寂の街並みだった。
取り残されていた領民たちは、一瞬の水中遊泳に目を丸くしながらも、奇跡の生還に気づき、やがて歓声が波紋のように広がり始める。
水に濡れた石畳は、月の光を反射してきらきらと宝石のように光輝いていた。
「……綺麗だ」
その景色に、ユリウスが微かに呟く。
魔力を使い果たし、ふらついたユリウスの身体を支える。支えた肩を通して、彼の心拍の速さが伝わってきた。
ふと視線を上げると、彼の青い瞳と視線が真っ直ぐに絡み合う。
彼はふわりと、戦場にいた魔術師の面影を消し去り、少年のように純粋で邪気のない笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、シャーロット」
─────背筋が凍るような戦慄。
全身の血の気が引くのが分かった。今の私はアデラインのはずなのに。
「……っ、いや! あの、違くって……!」
「……違うとは?」
彼は面白がるように、けれどどこか慈しむような眼差しで私を覗き込む。
言い訳を紡ごうと頭を高速回転させる。けれど、先ほどの大魔術を成し遂げておいて、今更「人違いです」と言い逃れるのはあまりに無理がある。
(だけど……! いざ面と向かってバレると、冷や汗が止まらないのは仕方がないでしょう!)
周囲の喧騒は、不思議と遠ざかっていた。月の光が濡れた街並みを銀色に染め上げ、世界から音を奪う。まるで、私とユリウスだけが時間の止まった密室に閉じ込められたかのような、静かで厳かな時間。
「あの時、無力な私は貴方を責めました。責めることしか出来なかった。けれど、私は……貴女が作る世界を見てみたい」
彼は私の手を取り、跪くようにして視線を低くする。その仕草は騎士のような忠誠と、それ以上の深い情念を湛えていた。
「今度こそ、貴女の手をとってもいいですか?」
────ああ、もう。
そんなふうに、すべてを許されたかのような瞳で見つめられたら。私に頷く以外の選択肢など、残されているはずもなかった。
「……喜んで」
その言葉を聞いた瞬間、ユリウスの口元が、今まで見たこともないほど幸福そうに綻んだ。
天才魔術師の心は、凍てつくような長い冬を終えてようやく春を迎えたようだった。




