山猫に命を救われました
「……オーイ。生きてるか、それとももう死体か?」
「ん……ぁ……」
「おー、生きてんな。……生きてるなら、さっさとカネ払え」
冷たい雪が容赦なく降り注ぐ路地裏。
10歳程度の子供が飲まず食わずで耐えられる時間など、たかが知れている。
寒さと空腹で消えかけていた私の意識を、無理やり覚醒させたのは、雪の白さとは対極にある、燃えるような「赤」だった。
そこには、一人の少年が立っていた。
燃えるような赤い髪を短く刈り込み、勝気な金色の瞳をした、どこか山猫を彷彿とさせる少年。彼は穴の開いたボロボロの傘を、無造作に私の方へと差し出していた。
「……おかね、なんて……ないよ……」
喉の奥から絞り出したのは、自分でも驚くほどしわがれた、幽霊のような声だった。
「じゃあ五番通りから出ていけ。死ぬなら余所で死ね」
「……ごばん、どおり……?」
「ああ。この通りの奥にある、半分腐ったパン屋からそこの神殿まで。そこからあっちの角までが、俺の縄張りだ。勝手に寝るなら金を取る。当たり前だろ」
「そんな……道に座るだけでも、お金を取るの?」
私の問いに、少年は心底驚いたように目を丸くした。
「お前、孤児だろ。随分とお上品な話し方をするが、よっぽどの世間知らずなんだなぁ、おい。ここは地獄だぜ? 息をするのだってタダじゃねえ」
世間知らず。
……そうかもしれない。
私の世界のすべては、優しいママと、御伽話の本の中。そしてあのアパートの小さな部屋だけだった。
少年は傘を肩に担ぎ直し、冷めた目で私を見下ろした。
「で、どうするんだよ。生きたいのか?」
「え……」
「別に、死にたいなら好きにしろよ。止めやしねえ。だが、もし生きたいってんなら、金を払え。そうすれば、俺がお前に『命』と『居場所』だけは保証してやる」
「……だから、お金はもう、なくて……」
「今はな。……だから、仕事をやるよ。そこらのガキみたいにゴミを漁るんじゃなく、賃料を払ってもお釣りが来るような、とびきり良い仕事を紹介してやる」
私は震える手で、彼の古びた上着の裾を、縋るように掴んだ。
「……優しいのね、貴方」
「…………。ハッ、馬鹿な奴だな、お前」
彼は鼻で笑い、吐き捨てるように告げた。
この国の、地獄と呼ばれる特区の中でも最下層のスラム街。
そこでは「優しさ」などという言葉は、何よりも先に腐り落ちる無用の長物だ。
「……私、死にたくない。パパに会いたいの」
「ハッ、そォかよ」
「パパに会って……なんでママが死ぬまで、一度も会いに来てくれなかったのか……問い詰めてやるの。恨み言を言ってやるわ。……それまでは、死ねない」
私の絞り出すような言葉を聞いて、少年の口角がわずかに上がった。
それは嘲笑ではなく、どこか共感に近い、獰猛な笑みだった。
「おお、良い執念!そういうドロドロしたヤツは結構好きだぜ、俺」
彼は傘を地面に突き立てると、私の前に手を差し出した。
「キキだ。……あんたの名前は?」
「……ええと、アンジュ……?」
少年の顔が、一瞬の沈黙の後に、堪えきれないといった風に歪んだ。
「っふ、ははっ! ぎゃははは! アンジュだってよ! お前、マジか!」
「……どうして笑うの?」
「いやぁ、悪い悪い。アンジュってのはサ、ママに甘えて寝かしつけられてるガキか、あるいは夜の街で男とヤる時に呼ばれる源氏名だろ。……もっとまともな名前はねえのかよ。マ、いいけどさ」
キキは涙を拭きながら、値踏みするように私の体を見た。
「ちっちぇーな。いくつだ?」
「……わからない」
「ま、そういう奴ばっかだよ、ここではな。……歓迎するぜ、アンジュ。毎月初めに金を払え。賃料は8,000ベルク。少しでも支払いが遅れたら、その瞬間に即退去だ。わかったか?」
キキが差し出したその手は、冷たい雪の中でも驚くほど熱かった。
私はその手を握り返し、泥の中を這いずるような人生から、一歩だけ踏み出した。
私の人生における最初の転機は、この赤い髪の少年──キキに出会ったこと。
そして、自分が「天使」などではなく、この地獄を這いずり回る一匹の獣として生きていくことを決めた瞬間だった。
キキに連れられて辿り着いたのは、かつては聖域だったはずの、古びた神殿の成れの果てだった。
天井は高く、剥げ落ちた女神の石像が、虚無の瞳で地上を見下ろしている。かつての祈りの場は今や、スラムの孤児たちの巣窟と化していた。
そこには、二、三十人ほどの子供たちがいた。
壁際で震えながら眠る者、泥に汚れたカードに興じる者、鋭い目つきでナイフを研ぐ者。
だが、キキが足を踏み入れた瞬間、その淀んだ空気が一変する。
「……キキさん、お帰りなさい」
「キキ、獲物はあったか?」
彼が通るたび、子供たちは敬意とわずかな畏怖を込めて声をかけた。
キキはそれらを軽く片手で受け流すと、私の背中を軽く叩いて中央に立たせた。
「誰か、この『アンジュ』の面倒を見てやってくれ」
その言葉が落ちた瞬間、喧騒は潮が引くように消え、刺すような沈黙が降りた。
子供たちの目が一斉に私を射抜く。それは同情ではなく、自分たちの取り分を削られる「闖入者」を見る拒絶の色だった。
「……薄情な奴らだなぁ」
キキが苦笑交じりに肩をすくめる。一人の少年が、唾を吐き捨てるように言った。
「だってキキさん、俺らだって自分のノルマに必死なんだ。こんな今にも死にそうなガキの面倒を見てる暇なんて、これっぽっちもねえよ」
「そうそう。せめてあと五年先なら、身体でも売らせるんだろうけどなぁ」
「ハッ、五年後でも、こんな貧相なガキを相手にする物好きがどこにいるよ」
容赦のない言葉のナイフが、私の細い身体に突き刺さる。
ママとの暮らしでは決して耳にしなかった、剥き出しの悪意。私は足元に積もった埃を見つめ、上着の裾を握りしめることしかできなかった。
キキは溜息を一つ吐き、黄金の瞳で私を見下ろした。
「……はぁ、そぉかよ。分かった。アンジュ、お前は明日から俺に付いてこい」
その瞬間、周囲の空気が嫉妬で弾けた。
「キキに!? なんでよ! だったら私がキキと組みたい!」
「俺もだ! キキの横にいりゃ、飯の食いっぱぐれはねえだろ!」
「お前らは勝手にやってろ」
キキは冷たく一蹴すると、私に女の子が集まる一角の寝床を指し示した。
「……あ、あの。よろしくお願いします」
おずおずと頭を下げた私に、隣に座る少女たちは一瞥もくれず、背を向けた。
孤独な夜。震えながら丸まっていると、少し年上の少女が、視線を合わせないまま小声で囁いた。
「……ここでは、キキはヒーローなの。路頭に迷ったガキをこんなに抱えて、居場所を作ってくれる。あんたみたいな新入りが特別扱いされりゃ、嫉妬されるのは当然だよ。……私に話しかけないで。面倒ごとは御免だから」
壁の向こうで、誰かが咳き込む音が響く。
地獄の夜は、家賃を払っていた頃よりもずっと冷たく、暗かった。
翌日。私の手には、煤けた靴磨きの道具一式が握らされていた。
キキに連れられてやってきたのは、人通りの多い三番通りの交差点だ。
キキの仕事は、驚くべきものだった。
彼は通りがかる大人たちに、まるで旧知の友人かのようにケラケラと笑いかけ、軽快に話を弾ませる。
「よぉ、旦那! 今日もキマってるねぇ。そんな良い服着てるなら、足元がそのままだと勿体ないぜ!」
不思議なことに、キキが話しかけると、気難しい顔をした男たちも、着飾った女たちも、足を止めて財布を開くのだ。
(凄い……私も、頑張らなきゃ)
私は勇気を振り絞り、足早に通り過ぎようとした男の裾を掴んだ。
「あの、靴磨きはいかがでしょうか……っ!」
「あぁ!? 汚ねえガキが近づくな、服が汚れるだろ!」
男は汚物を払うような手つきで、私を突き飛ばした。
硬い石畳に尻もちをつき、磨き粉が飛び散る。膝に痛みが走った。
「馬鹿か、お前は」
頭上から、呆れたようなキキの声が降ってきた。
「キキ……」
「見てられねえ。あーあ、面倒見るってのは、ママになってこの『天使ちゃん』を寝かしつけてやれってことか? 割に合わねえなぁ、おい」
キキは文句を言いながらも、私の前に屈み込み、飛び散った道具を拾い集めた。
私はビクリと肩を揺らしたが、彼は怒る様子もなく、ただ私の目を見つめた。
「……別に怒ってねえよ。ビビんな。……どれ、もう一度やってみ」
「……うん!」
「下手くそだなぁ。天使ちゃん、なんで特区の男に『正攻法』でいくんだよ?」
「せいこうほう……」
「真正面からお願いして、同情で金がもらえると思うか? ここは地獄だぜ。そんなの、ゴミの日のカラスだって期待しねえ」
キキは私の顔をじっと覗き込み、ニヤリと笑った。
「あんた、顔は良いじゃん。その『武器』を活かせよ」
「どうやって……?」
「お兄さんが見本を見せてやろうじゃないの。……おい、ジンジャー! ちょっと客のフリしろ」
近くで遊んでいた仲間の少年、ジンジャーがニヤニヤしながら歩いてくる。
キキは一瞬で表情を作り変え、甘い、けれど計算高い声で呼びかけた。
「そこのカッコいいお兄さん! どこ行くの?」
「仕事だよ」
「おぉ、頭のてっぺんからつま先まで決まってるね! でも……あれ? 靴磨きがまだなんじゃない? そのままでも十分だけど、ここを磨けばこの『地獄一番の色男』になれると思うぜ?」
「……じゃあ、頼むか」
「毎度あり!」
キキは魔法のような手つきでブラシを動かしながら、私を振り返った。
「客と話せ。おだてろ。靴磨きをしたがるガキなんて、石を投げれば当たるほどいる。その中から、お前を選ばせるんだ。他との違いを見せなきゃ、一生食いっぱぐれるぜ」
パチパチと、ジンジャーが冷やかし半分に拍手をする。
「……やってみな」
私はゴクリと唾を飲み込み、立ち上がった。
次に通りかかったのは、恰幅の良い、けれどどこか寂しげな中年の男だった。
「お、お兄さん……っ!」
(……明らかにおじさんだけど、キキが言った通りに……!)
「は……?」
男が怪訝そうに足を止める。私は震える声で続けた。
「す、素敵ですね……。その、お洋服も……。靴を磨けば、もっと……」
「……可愛いね。何歳だい?」
「え、あ……」
男の目が、ねっとりとした温度を帯びる。彼は私の頬を撫でようと手を伸ばした。
「いいよ。磨かなくていい。その代わり、おじさんと──」
──バコンッ!!
鈍い衝撃音が響き、男がよろめいた。
キキが傘の柄で、男の手を叩き落としていた。
「お客さまぁ、大変申し訳ねーですが、こいつは春は売ってないんですよ。やりてぇなら一番通りにでも行きな。変態ジジイ」
「な、なんだとこのガキ……!」
「あ? やんのか? 俺のシマで揉め事起こすと、後が怖いぜ?」
キキの金色の瞳が、獣のように鋭く光る。男は毒づきながら逃げるように去っていった。
私は呆然として立ち尽くしていた。
「……あんた、マジで『天使ちゃん』なんだな。名実共に」
「……ありがとう?」
「……あー、ハイハイ。礼はいらねえよ。ったく……」
キキはガシガシと頭を掻き、何かを考え込むように視線を彷徨わせた。
「チビ、お前……得意なことは? あー、金になりそうなことだ。この際、なんでもいい」
私は、ママと一緒に過ごしたあのアパートの記憶の棚を必死に手繰り寄せた。
「……分からない。ずっと、本を読んで過ごしていたから……」
「本? ……お、いいじゃん。ほれ」
キキは懐から、くしゃくしゃになった紙の束を取り出した。
「これは?」
「上の、地上の警備兵がゴミ捨て場に捨てていった新聞だ。情報統制だかなんだか知らねーが、裏では高く売れるんだよ。……おい、これ全部読めるか?」
私はその新聞を手に取った。
インクが滲み、所々破れている。けれど、文字ははっきりと読めた。
私は視線を滑らせる。
一度、二度。
カメラのシャッターを切るように、脳内の「棚」にその文字情報を整理して並べていく。
「……うん、覚えた」
「は? 本当かよ? まだ数秒だぞ」
キキの疑わしげな視線を無視して、私は新聞を彼に返した。
私の頭の中には、今読み終えたばかりの紙面が、完璧な映像として貼り付いていた。
今日は22時に続編投稿します。
気になってくれた方は、ブックマーク・評価いただけると作者が励みになります。よろしくお願いします!




