sideエルステラ 綺麗な世界を貴方へ
王宮を呑み込む業火は、いつしか夜の深淵に溶け込み、静かな灰の雨へと変わっていた。
かつてフェルディナント王国の権威を象徴し、黄金と大理石で埋め尽くされていたはずの玉座の間。
しかし今、そこにあるのは無残に焼け落ちた残骸と、死の静寂だけである。
天井は魔術の衝撃に耐えかねて崩落し、吹き抜けた空間から差し込む冷たく冴え渡った月光が、剥き出しの大理石を青白く、まるで墓標のように照らし出していた。
アンシア・フェルディナントは、自らの手で「過去」という名の家族を葬り去った衝撃に耐えきれず、震えていた。
理由は家族を殺した恐怖からか、もしくは初めて魔術を使った歓喜からか─────。
膝をついた大理石の冷たさがドレス越しに肌を刺す。
指先にはまだ、自分の内側から溢れ出した魔力の、熱く痺れるような感覚がこびりついて離れない。
「……あ……」
乾いた声が、煤の舞う虚空に溶ける。
すべてを消し去ったのだ。
自分を「恥」として封じ込め、首筋に魔術封じの枷を嵌めた父も、自分を嘲笑い、踏みつけにしてきた腹違いの妹や継母たちも。
そして何より彼女の中にあった「無力だけれども清い王女」という名の、あまりにも脆く、あまりにも無益なハリボテさえも。
視界が滲む。
それは悲しみではなく、あまりに強大な力を急激に解放したことによる肉体の悲鳴だった。崩れ落ちそうになったその身体を、強靭で、かつ驚くほど細やかな動きの腕が、背後からしっかりと支えた。
「無茶をしたね。初めて魔力回路を開いた直後だ。強大な魔力が、まだこの脆弱な器に馴染んでいない」
至近距離から響く、ヴェリアル・ドレヴァンツの低く甘い声。
耳元で囁かれるその声音には、死神としての冷酷さは微塵も感じられない。アンシアが恐る恐る見上げれば、そこには炎の照り返しを浴びたアメジストの瞳があった。
さきほどまで、一国を一日で滅ぼす死神だと恐れていたその瞳。
しかし今は、驚くほど穏やかで、静かな光を湛えて自分を映している。
「……ヴェリアル、様……。私は、私は取り返しのつかないことをしてしまいました。この手で、肉親を……」
「いや、君は『選んだ』んだよ。アンシア」
ヴェリアルは、膝をつく彼女の目線に合わせるように、自らも冷たい大理石の床に片膝をついた。
そして、煤と涙で汚れたアンシアの頬を、まるで極上の硝子細工を扱うような手つきで、そっと指の背でなぞった。
「君は自分の意志で、穢れを切り離した。君が新しい世界へ踏み出すための、最も清らかな祝福だ」
彼の指先は、戦場を駆ける非道な魔術師のものとは思えないほど繊細で、触れられた場所から、冬の湖のように凍えていた心がじわりと溶け出していく。
その時だった。
崩落した天井の梁から、最後の一火が爆ぜ、火の粉が風に煽られてアンシアに向かって舞い散った。
「危ない─────」
咄嗟に身を竦めたアンシアの視界を、漆黒の外套が遮光カーテンのように覆った。
ヴェリアルが彼女を抱き寄せるようにして、自らの広い背中でその火を遮ったのだ。
立ち上る煙と、微かな焦げた匂い。
血と硝煙の混じった死の香り。
彼の体温の冷たさ。
(ああ……なんて綺麗な、清らかな人)
腕の中で、アンシアの心臓が耳の奥で鳴り響くほどに激しく鼓動を刻む。
この男は世界を壊す痛みを、その後に訪れる恐ろしいほどの孤独を、そしてその先にある「清浄」への渇望を、誰よりも深く、その身に刻んできたのではないか。
残忍、冷徹、非道。
世間が彼に投げつける数々の汚名が、今のアンシアには、彼の真実を隠すための稚拙な装飾にしか見えなかった。
彼が独りで背負ってきた絶望の重さを想い、アンシアの胸に、鋭い刺痛が走る。
それは同情などという生ぬるいものではなく、共犯者として、そして彼の孤独を埋める欠片として、その隣にいたいという強烈な飢えだった。
アンシアは、震える手で彼の胸元、漆黒の衣をぎゅっと握りしめた。
「まだ震えているね。 ……風も冷たい。風邪をひいてしまわないといいけど」
ヴェリアルが顔を覗き込み、わずかに眉を寄せた。
その無防備なまでの「心配」の眼差しが、アンシアの心の最後の防波堤を粉砕した。
世界中の誰に憎まれても、この人だけは私を見つけ、私の中に眠る、私自身さえ知らなかった価値を暴き出してくれた。
家族さえも愛さず、「恥」として封じ込めた私という存在を、彼は「必要だ」と言ったのだ。
「……いいえ。温かい、です。とても……」
アンシアは、彼のアメジストの瞳から目を逸らすことができなかった。
恐怖は、熱を帯びた狂おしいほどの思慕へと形を変えていた。
たとえこの手が二度と洗いきれぬ血に染まり、この先にあるのが救いのない修羅の道であったとしても。この瞳が見つめる景色の端に、自分も立っていたい。
「ヴェリアル様。私…… あなたが作る、その『綺麗な世界』の為なら、命を掛けます」
アンシアの瞳に宿った、純粋で、かつ狂信的なまでの献身。
それを見たヴェリアルは、ふっと満足げに、そして吸い込まれるほど艶やかに微笑んだ。
「頼りにしているよ」
彼女は、初めて自分を全否定せず、ありのままの「力」を求めてくれた死神の腕の中で、生まれて初めて「生きている」という、充足感を噛み締めていた。
たとえ、彼のアメジストの瞳の奥に棲む「亡霊」が、自分ではない誰かだったとしても。
たとえ、彼が愛などという温かな感情を抱いていなくとも。
たとえ、彼が自分をただの便利な「鍵」としてしか見ていなくとも。
自分だけは、この孤独な支配者を愛し抜こうと、アンシアは月光に誓った。
フェルディナントの王女は、その夜、灰と共に死んだ。
代わりに従者として立ち上がった彼女の瞳には、ヴェリアルと同じ、冷たく、そして美しい闇色の光が宿り始めていた。




