小さな世界
――――――夢を見た。
心臓が跳ね上がり、呼吸を忘れてしまうほどの悪夢。
怖くなって、暗い廊下をこっそりと抜け出した。向かう先は決まっている。いつもの、少しカビ臭くて狭い男子部屋だ。
そこにある小さなベッドで、キキが眠っている。その姿を見れば、きっとこの震えも止まるはず。
(……よかった。キキ、寝てる)
規則正しい寝息。その背中を見て、心から安堵した。
そうだよね。キキがいなくなるなんて、ありえない。そんなの、世界がひっくり返るよりおかしな話だ。
「起きて、キキ」
甘えるように、その肩に指を触れる。
けれど、指先に伝わってきたのは、生きている人間のものではない、氷のように硬く冷たい感触だった。
「……え?」
こんなの、キキじゃない。
私の知っているキキは、もっとお日様みたいに温かくて、乱暴に頭を撫でてくれる、最高に頼もしい相棒なんだ。
「キキ、ねえ、起きて……っ」
呼びかけても、揺さぶっても、彼はびくともしない。
冷たい。あまりにも冷たい。
嫌だよ。置いていかないで。ねえ、起きて――!
「キキ!!!!!」
叫びながら、私は跳ねるように上体を起こした。
「うわっ、なんだ……驚いたな……」
鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされている。
今度こそ、本当の夢が覚めたらしい。
滲む視界を瞬きで払うと、目の前には一人の少年が立っていた。
栗色の長い髪を片側に結い、眼鏡をかけた、どこか神経質そうな佇まいの少年だ。
目は覚めた。けれど、鉛でも詰め込まれたかのように身体が重い。
……いいえ、身体だけじゃない。この、慣れないほどふかふかの羽毛布団の重みのせいだろうか。
混濁する意識の中でぼーっとしていると、その男の子が私に近づいてきた。
整った顔立ちには隠しきれない不機嫌さが滲んでおり、彼は露骨に眉をひそめて私を見下ろす。
「……体調は?」
「すこぶる、元気……、です」
反射的に答えた言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。
少年は鼻で笑い、眼鏡をくいと上げる。
「三日間、死んだように眠り続けていた人間の台詞ではありませんね」
「みっ、三日……三日……!?」
驚愕して声を上げると、頭の奥に鋭い痛みが走った。
あのあと……銀髪の少年、ヴェリアルの手を取ったあと、どうしたんだっけ。
そうだ。暫く帝国軍から逃げるように隠れて、そのあとは、そのあとは……
「あれだけ魔力を爆発させたら、意識も失いますよ。ヴェリアル様に担がせるなど……万死に値します」
「意識を失ったのね……」
「そしてその三日間、君の暴走しかけた魔力に保護呪文をかけ続けた、私の身にもなってください。おかげでこちらは睡眠不足ですよ」
「ええと……誰? 君」
困惑して問いかけるが、彼は完全に私を無視して、手際よく準備を進めていく。
「……ねえ、だれ?」
「早く支度を。ヴェリアル様がお待ちです。これに着替えたらすぐに出てくるように。……外で待っていますから」
少年に突き出されたのは、淡い水色のドレスだった。
上質な絹の布が幾重にも折り重なり、繊細なレースが縁取られた、まるでお姫様が着るような代物。
一瞬、その美しさに目を奪われたものの、すぐに現実に引き戻される。
こんなもの、着たことがない。
今まではママの作ってくれたお洋服か、麻でできた粗末なお下がりを着ていたから。
彼が部屋を出て行った後、おぼつかない足取りでベッドを降り、一度袖を通してみる。
けれど、そこで手が止まった。
……数分後。
私は半ばヤケクソで、ずるずると布を引きずりながら部屋の扉を開けた。
「ねえ、このヒラヒラのどうするの?」
「何でそんな格好で出てくるんですか!」
廊下で待っていた少年は、私を見るなり眉をしかめて声を荒らげた。
ドレスは前後が逆で、肩のラインは大きく崩れ、背中の紐は蛇のように床を這っている。
(そんなに怒ること?)
シャーロットは心の中で少しだけ悪態をつく。
特区、五番街では、分からないことは全員に共有される。皆の前で着替えることも、互いに手伝うことも当たり前だ。
けれど、目の前の少年は、まるで私がとんでもなく不潔なものでも擦りつけたかのような顔をしている。
見たこともないほど重厚で、布の多い服。
そして、それ以上に厚みのある、少年の眉間の皺。
(この人……苦手かも)
「……分からないことは分からないと言わないと、死ぬのよ。あそこじゃ、それがルールだったもの」
「はぁ……。ここは5番街ではありませんし、身なりを整えられないことは死に直結しませんが……私の精神衛生には直結します。いいですか、一度しか手伝いませんからよく見ていなさい」
少年は大きなため息をつくと、乱暴に、けれど手慣れた動作で私の背後に回った。
不機嫌な指先が、私の背中で複雑な編み上げを整えていく。
「私の名はユーティオティアス・ソフリファス。ヴェリアル様に仕える魔術師です。……これからは君の教育係も兼ねることになりました。以後、お見知りおきを」
冷たい声。けれど、その指先は思いのほか温かい。
それが、私の新しい日常と、不機嫌な教育係との、最悪で奇妙な始まりだった。
少し傾斜の急な白い螺旋階段を降りると、そこには見渡す限りの長い廊下が広がっていた。
今まで小さな廃教会を根城にして寝泊まりしていた私にとって、この屋敷はあまりにも広大すぎる。油断すれば一瞬で道を見失ってしまいそうな不安に駆られた。
「遅れないように。迷っても迎えには来ませんから」
迷いのない足取りで進むユーティオティアスの後を追い、いくつもの豪奢な扉を見送る。
体力の削られた今の私にとって、彼の歩幅についていくのは精一杯だった。
何枚目かの重厚な扉が開かれる。
そこには真っ赤なベロア調のソファが置かれ、部屋の真ん中にある大きな暖炉からは、爆ぜる火の粉の音がパチパチと心地よく響いていた。
「ああ――おはよう、シャーロット」
部屋の奥からかけられた声に、私は足を止めた。
(改めて見ると……凄く、綺麗な男の子)
暖炉の炎に照らされてキラキラと輝く、肩までのプラチナブロンドの髪。私を見つめるアメジストの瞳は、吸い込まれそうなほど深く澄んでいる。
雪のように白い肌がこれほど印象的なのは、彼が全身を「黒」に包んでいたからかもしれない。シャツも、タイも、ジャケットも、一切の飾りを排した漆黒。
それでも、今まで私が見てきたどんな人間よりも品があり、高貴な気配を纏っていた。
数秒の間、言葉を忘れて見惚れてしまった私に、背後からユーティオティアスが鋭い咳払いで挨拶を促す。私はハッと我に返り、必死に記憶の糸を辿った。
(そう……確か、彼の名前は)
「おはよう、ベリアル……様?」
「おい」
隣でユーティオティアスが不快感を露わにした。
ただでさえ寄っていた眉間の皺をさらに深く刻み、低い声で私を咎める。
「発音が違う。この御方はヴェリアル様だ。恐れ多くも帝国の王子殿下に拝謁しているのだぞ。相応の礼節を持って――」
「ユーティオティアス」
静かな、けれど絶対的な拒絶を含んだ声が、彼の言葉を遮った。
「は、殿下」
「僕はもう、殿下と呼ばれる存在ではないよ。……そして、僕とシャーロットは対等だ。けれど、君は僕の侍従に過ぎない。立場を弁えろと言わなければ理解できないほど……君は、愚かだったかな?」
「――っ、は。申し訳ございません、ヴェリアル様」
ユーティオティアスは青ざめ、弾かれたように頭を下げた。
王子の座を追われたはずの少年の背後に、底知れない闇の圧力が渦巻いていた。




