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【短編小説】箸を置く

 ひと口ごとに箸を置くようになった。

「どうですか?味は染みてます?」

 妻がエプロンを外しながら訊く。

「あぁ、素晴らしい出来だよ」

 


 確かにもう育ち盛りでは無いのだから、食べ始めてから終わるまで片時も箸を離さないのはみっともない。

 しかし長らく続いたひとり暮らしは結局のところ食習慣を直すに至らず、そろそろ不惑が視野にチラつく頃になって初めて、食事の最中に箸を置くに至った。


「どうしてそんなに早食いになっちゃったんですか?」

 妻が不思議そうな顔をした。

「まぁ、おれは子どもの頃に早飯早糞早算用と言われて育ったからなぁ」

 子どもの頃は食うのもトイレも計算も遅かったもんだよと笑うと、妻は目を丸くした。

「男子校だったし、バイト先も肉体労働が多かったからな」

 男がいつまでもダラダラと食っているのはみっともないっていう文化圏もあるんだぜ。

 そう言うと妻は呆れたように、それでも自分の知らない異文化に少しだけ笑って見せた。


「だからいつも昼メシは社食で冷やし蕎麦なんだよ」

 昼餉、それも社食なぞに食事としての快楽など微塵も求めていないのでそれで構わない。

 素早く食ってさっさと戻る。

「まぁ呆れた。休憩は労働者の権利でしてよ?」

「早く戻って仕事をしたいとかじゃないんだよ。いつまでも昼メシに時間をかけていたくないだけなんだ」


 今日の社食では、おれが着いた席で先にラーメンを食べていた他部署の女性社員がいた。

 ところが、おれが蕎麦を飲み終わってもまだその女性社員はラーメンを箸で叩いており、汁を吸ったラーメンはもはや油そばの様相を呈している有様だった。

 麺少なめでお願いしますとも言えず、かと言って食べきる事もできず、いたずらに膨張し続ける小麦麺をその女はどうしようと言うのだろうか。


「うーん、どうするつもりと訊かれても」

 妻が困った顔になった。

「いや、君に訊いてる訳じゃないだろう」

 おれは蕎麦猪口に注がれた茶を飲んでひと息ついてから、ようやく箸を持ち上げて続きを食べた。

 鶏肉だの干した根菜だのが出汁で炊かれたそれは程よく味が染みており、おれはその味に満足しながら奥歯で噛み締めた。


 妻は満足気に食べるおれを見ながら嬉しそうに蕎麦猪口を傾けた。

 蕎麦猪口の中には葡萄酒が注がれいる。

「それで、決まりましたか?」

 妻がおれに向き直って訊いた。

「あぁ、その事なんだけどね。やはり店屋物は皿を回収に出せないし、弁当なんかもゴミが出るだろう?」

「そうですねぇ」

「だからやはり、ハンバーガーとかピザとかなんてのが良いと思うんだけどな」

 妻は少し目を濁らせて失望の気持ちを表明しながら

「でもせっかく練炭を焚くのだから、秋刀魚とか松茸なんかをいただきたいと思うのですが」

 と言った。


 おれは箸を置きながら、まぁそれもそうだなと相槌を打つ。

 個人的には缶コーヒーと煙草さえ有れば良いのだけど、さすがにそれだけと言うわけには行くまい。

 高級フレンチにも連れていってやれなかったのだ、最後の晩餐くらいは我儘をきいてやろう。


「じゃあ秋刀魚と松茸を買いに行こうか」

「いいんですか?」

 妻の目が喜びに光る。

「あぁ、最後だからな」

 おれは箸を持ち上げて再び鶏肉と根菜の煮物を口に放り込む。

 妻は満足気に葡萄酒を傾けた。


 煉炭は週末に届く。

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