見えない光の先に
――人の「想い」は、姿を失っても消えることはない。
この物語は、兄の死をきっかけに心に深い影を抱えた青年と、命を救われた少女が、時を経て再びめぐり逢うことで生まれる
“静かな再生”の物語です。
見えるものだけが真実ではなく、見えなくなって初めて感じられる温もりがある。
風の匂い、手のぬくもり、記憶の中の声——そうした「かすかなもの」に込められた優しさと絆を描きました。
兄の犠牲が繋いだ縁、そして残された者がどう生きるか。
光と影、喪失と希望が交錯する季節の中で、人の心がもう一度あたたかさを取り戻していく——そんな物語です。
十月、北陸の秋は駆け足でやってくる。
川向こうの山々には茜色の夕焼けが広がり、あたり一面が朱に染まる。紅葉に彩られた稜線は、まるで燃えさかる炎のように赤々としていた。
夕陽を受けて、川の水面はまばゆくきらめき、翡翠を散りばめたかのような光が、永遠の時を刻みながら静かに、穏やかに流れていた。
その堤防に、一人の青年が腰を下ろしている。その姿はやがて自然の一部となり、風景に溶け込んでいった。まるで絵画の一部のように静謐で、美しかった。
彼がそこにいること、それ自体が自然の息吹の一片であり、瞬間の永遠であった。
やがて、夕暮れの風に揺れる白いワンピースの女性が彼の名を呼んだ。
その声に応えるように、青年はゆっくりと白杖に手を添え、静かに立ち上がる。
二人は何も言わず、傾きかけた陽の光の中、手をつないで堤防を歩き出した。
青年[花坂兼]は、この山あいの小さな町で生まれ育った。澄んだ空気と四季折々の自然に囲まれて、静かで穏やかな日々が続く場所だった。幼い頃の青年は、少し病弱で、活発に駆け回るような子どもではなかった。運動も苦手で、外で遊ぶより家の中で本を読んだり、空想にふけったりするほうが性に合っていた。
そんな彼には、三つ年上の兄、直樹がいた。兄は誰もが一目置く快活な少年で、明るい笑顔と抜群の運動神経を持ち合わせていた。野球を始めるとたちまち頭角を現し、小学校の野球部ではエースピッチャーとしてチームの中心的存在となった。その姿はまぶしく、青年にとって兄は、ただの身近な家族ではなく、まさに憧れそのものだった。
兄が野球に夢中になる前のことだった。まだ二人が幼く、世界が今よりずっと小さく、純粋だった頃。兼は少し無理をするとすぐに熱を出し、咳き込み、布団の中に閉じこもる日が多かった。 そんな弟を、兄はいつも気にかけていた。
「おい、兼。外、行こうぜ。今日、すっげえ空が青いんだ」
兼が部屋の隅でうつむいていると、決まって兄がやってきて、まるで待ち合わせでもしていたかのように手を伸ばしてくる。時にはその手を強引に引っ張り、時には抱えるようにして玄関まで連れていった。
最初の頃は、兼も戸惑いながら、あるいは不満げな顔でついて行っていた。体がつらい日もあったし、外の世界がこわかったのかもしれない。けれど、不思議なことに、兄と一緒にいるうちに、いつの間にか心も体も軽くなっていった。
外で兄と一緒に過ごす時間は、まるで夢の中にいるようにあっという間に過ぎていった。ひとり部屋の中でじっとしているときには重たく感じられた時間が、兄といると羽のように軽く、どこまでも流れていくようだった。
気がつけば、兄が部屋にいると、自分から声をかけるようになっていた。「今日はどこ行くの?」と、まるで冒険に出かけるかのように胸を躍らせて。そして、いつしか二人は、ほとんど四六時中、一緒にいるのが当たり前になっていた。
春の足音が山々の雪解けとともに近づく頃、兄はまだ吐く息が白い朝のうちから、目を輝かせて声をかけてきた。
「山、行くぞ!」
その言葉が、春の訪れを知らせる合図のように、兼の心にも小さな火を灯した。
ふたりは朝露に濡れる道を歩き、家の裏手から山へと向かった。新緑の中、木の芽の匂いが鼻をくすぐり、風が兼と兄に自然の扉をあけ放った。兄は木の枝を払いながら進み、時折立ち止まっては地面に目を凝らし、
「ほら、蕗だ」「こっちはゼンマイ」と声をあげた。
兼は最初、どれが山菜なのか見分けもつかず、おっかなびっくりで兄の真似をして摘んでいたが、次第にその探す楽しさに夢中になっていった。
春の山はまるで宝探しの舞台のようで、緑の中にぽつんと顔を出した蕨や、岩の影に隠れるように芽吹くイタドリを見つけるたび、ふたりは顔を見合わせて笑った。
イタドリは兄の大好物だった。収穫の合間、兄はその場で皮をむき、小さくちぎった断片を口に入れては、嬉しそうに顔をしかめながら「すっぱ!」
と叫び、笑った。その姿に釣られて、兼もおそるおそる口にしたことがあった。最初はあまりの酸っぱさに顔をしかめたが、兄が美味しそうに頬張る姿を見るうちに、
次第にその味に親しみを覚えていった。いつしか兼もイタドリを見つけるたび、真っ先に手を伸ばすようになっていた。
夏になると、兄と兼はよく堤防が続く川へと出かけた。蝉の声が降り注ぐ昼下がり、二人は草をかき分けて土手を下り、石の多い浅瀬へと向かった。
川の水は山からの雪解け水を含んでいて、真夏でもひんやりとしており、裸足になって足を沈めた瞬間、思わず声を上げて笑い合った。
足裏を流れる水の感触、石の冷たさ、そして川底を滑る小魚の影——そのすべてが、兼にとっては兄と分かち合う夏の宝物だった。
ふたりは夢中になって魚を追いかけ、手を伸ばして石の下を探った。川の流れは思いのほか速く、バランスを崩してよろけそうになると、決まって兄がすぐに手を差し伸べてくれた。
時折、山の向こうから白い入道雲が湧き上がり、稲妻が走ることがあった。雷鳴がごろごろと響くと、風が急に冷たくなり、やがて大粒の雨が勢いよく降り出した。
肌に叩きつけるような雨に、兼は思わず立ちすくみそうになった。だがそのときも、兄は何の迷いもなく兼の手をぎゅっと握りしめ、「走るぞ!」と叫んで、濡れた堤防を駆け出した。
ふたりは笑いながら、あるいは必死に、堤防を駆け抜け古びた納屋へと駆け込んだ。屋根を打つ雨音が雷と混じり合って鳴り響く中で、兄は息を切らせながらも兼の肩をぽんと叩き、
「大丈夫だ」と言ってにっこり笑った。その笑顔と、手のひらのぬくもり——それは、兼にとってどんな雨音よりも心強く、決して忘れることのない夏の記憶となった。
秋が訪れると、山の斜面にはアケビの実が色づいた。実が割れた中の白い果肉を上手に口に入れ種子だけを兼に向けて噴き出し、ふざけて見せた。笑い声が、静かな秋空に吸い込まれていった。
そして、雪が降る季節になると、兄は父に手伝ってもらって作った木のスキー板を持ち出し、近くの坂道に兼を誘った。
滑り方を知らない兼に根気よく教え、一緒に転んでは笑い、転げ回りながら雪にまみれた。
真っ赤に染まった頬を寄せ合いながら、「次はもっと長く滑ろう」と言い合った。
兄は歌うことも大好きだった。
家の中でも外でも、思いついたように流行歌や童謡を口ずさみ、とりわけ春には「朧月夜」、秋には「紅葉」がよく聞こえてきた。
兼はその横で、少し遅れて一緒に歌を口ずさんだ。
そんな兄の背を追いかけながら、兼は心の中で何度も思った。——いつまでも、こうして一緒に歩いていたい、と。
だが、時が経ち、兄が本格的に野球にのめり込むようになると、ふたりの関係にも少しずつ変化が訪れた。練習や遠征が増え、以前のように遊ぶ時間は減っていった。最初のうち、兼は戸惑いを覚えたが、それでも兄は変わらず優しかった。忙しい練習の合間にも、休みの日には兼を連れて山に出かけたり、キャッチボールのまねごとをしてくれたりした。
兼自身は野球が得意ではなかったが、放課後のグラウンドの金網越しに、汗を流して練習する兄の姿を見つめるのが日課になっていた。誰よりも早く声を上げ、誰よりも長くバットを振る兄の姿は、眩しさとともに、どこか遠い世界の人のように思え始めていた。それでも、練習を終えた兄と並んで家まで帰るその時間が、兼にとっては何よりの喜びだった。
やがて兄が中学生になると、生活のリズムは大きく変わった。部活動の練習はさらに厳しさを増し、兄はますます野球に没頭していった。兄と一緒に過ごす時間どんどん少なくなり、兼は徐々にその距離を感じるようになった。兄の練習を見る回数もいつしか減っていき、自分の同級生たちと遊ぶ時間が自然と増えていった。胸の奥には寂しさのような、焦りのような感情がひっそりと残ったが、それをどう言葉にすればいいのか分からなかった。
中学三年生になる頃、兄は地域でも有名な選手となり、県内外の強豪高校からスカウトの声がかかるようになっていた。両親も、町の人々も、皆が兄に大きな期待を寄せていた。そんな兄の姿はますます遠く感じられ、兼は少しずつ、自分の居場所を探すようになっていた。兄に誇りを感じながらも、同時に、自分は何者なのか、何を目指せばいいのかを模索し始めていた。
——その日も、何も変わらない一日になるはずだった。
兄はいつものように放課後のグラウンドで汗を流し、仲間たちと笑い合いながら練習を終えた。日が傾き始めた帰り道、夕焼けが町の屋根を茜色に染めていた。空気は少しひんやりとしていて、夏の終わりを告げる風が吹いていた。
事故は、住宅内の工事現場近くで起きた。
その現場の前を、幼い女のこがふらつきながら自転車をこいでいた。まだ補助輪も外れていないその小さな自転車が、車道の方へとふらりと進み出た。その瞬間、トラックが角を曲がって現れた。兄は迷わなかった。何のためらいもなく、全力で駆け出し、子どもを自転車ごと路肩へと突き飛ばした。
少女は助かった——しかし、兄はその反動でトラックの進路に倒れ込み、避けきれず車体の下敷きとなった。
それはあまりにも突然で、あまりにも残酷な出来事だった。
すべての時間が、止まった。
知らせを受けた兼は、両親とともに病院へ駆けつけた。いつもなら活気に満ちた兄の名を呼べば、「おう」と振り向いてくれる——そんな当たり前の日々が、音もなく崩れ去っていた。
処置室のベッドに横たわる兄の姿は、まるで眠っているかのように穏やかだった。傷一つない顔、安らかな表情。現実を否定するにはあまりにも静かすぎるその姿に、兼はただ呆然と立ち尽くしていた。
母は泣き叫び、兄の名を何度も呼び続けた。父は唇をかみしめながら肩を震わせていた。その声も涙も、兼の耳には届いていなかった。ただ一心に、兼は兄の顔を見つめていた。「兄ちゃんはすぐに起き上がる、大丈夫だ、大丈夫……」そう心の中で何度も、何度も繰り返した。
兼は兄の手を握った。幼いころ、山で転んだ自分を引き起こしてくれた、あの温かな手。もう一度、そのぬくもりを感じたかった。しかし、その手は冷たく、現実だけが重くのしかかってきた。
——もう二度と、一緒に笑うことはできない。
葬儀の場には、兄・直樹の友人や野球部の仲間、教師、近所の人々まで、多くの人が詰めかけていた。
祭壇の前には、静かに香の煙が漂い、すすり泣く声があちこちから聞こえていた。
その中で、まだ幼い兼は、兄の棺にしがみつき、肩を震わせながら泣いていた。
何度も「兄ちゃん、兄ちゃん」と呼びかけたが、二度とその声が届くことはなかった。
涙は止まることなく頬を伝い、白い花の上に落ちていった。
兼は一人、ぽつんとうなだれていた。
ふと、涙の合間から視界の隅に一組の親子の姿が映った。
痩せた小さな少女と、その肩を抱く母親。
女の子は四、五歳ほどだろうか。白いワンピースの裾をつまみ、母親の背に隠れるように立っている。その姿はどこか怯えた小動物のようで、周囲の喪服に囲まれながらひときわ目立っていた。
そのあと、母親は、兄の棺の前で崩れるように膝をつき、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。嗚咽混じりに、言葉にならない言葉を吐き続けている。
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます……」
その隣で、女の子は小さく震えていた。彼女の目はどこか遠くを見つめていて、まるで現実をまだ受け止めきれずにいるかのようだった。
何度も頭を下げるその姿に、兼の胸の奥で何かがざわめいた。
兼にはわからなかった。ただ、心のどこかで静かに怒りが芽吹いていた。
(どうして兄ちゃんが死ななきゃいけなかったんだ……)
目の前にいるこの母子が、兄の命の代わりに守られた人間なのだろう——そう気づいたとき、頭の中に赤黒い感情が広がった。
自転車でふらついて、何も知らずにトラックの前に飛び出した。兄はためらいもなく走り出して、あの子を助けた。
あの子は助かって、兄は——死んだ。
兼の中で、言葉にできない想いが渦を巻いた。理不尽だと思った。やるせなかった。兄がどれだけの夢を持ち、どれだけの人に慕われていたか、自分が一番よく知っている。
それなのに、なぜ——
気づけば、兼は無意識に、強いまなざしで少女を見つめていた。
それは、怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情の混ざった視線だった。
しかしそのとき、少女の視線が兄の遺影に向けられているのに気づいた。
じっと、黙って、何かを訴えるような眼差しだった。
まだ「死」の意味すらきちんと知らない年齢のはずなのに、その目には確かな哀しみと後悔があった。
あの日の記憶が、少女の中にも残っているのだろう。自分の身に起きた出来事として。
あの瞬間、兄が彼女に何をしてくれたかを、きっと——覚えている。
母親の震える背中を見つめながら、兼はふと、兄の姿を思い出した。
どんなときも人を見捨てない人だった。山で転んだ自分を黙って引き起こし、泣くなと背中を押してくれた兄。正義感が強くて、おせっかいで、人一倍優しかった。
(兄ちゃんは、きっと迷わずにあの子を助けた。そういう人だった……)
怒りが、静かに消えていく。
代わりに心の奥底から浮かび上がってきたのは、ぽっかりと開いた空虚と、言葉にならない祈りだった。
——この子の中に、兄ちゃんの命が少しでも残っているのなら。
——この先の人生で、兄ちゃんの優しさを忘れないでいてくれるなら。
その願いだけが、兼の胸の中で形を持ちはじめた。
藤花。その少女のみよじを心の中に刻んだ。
静かに目を閉じ、もう一度兄の遺影を見上げる。
その笑顔は変わらず、優しく兼を見つめ返していた。
葬儀の後しばらくの間、何をする気にもなれなかった。笑うことも、話すこともできず、ただ学校へ行っては家に帰るだけの毎日が続いた。
季節が幾つか巡り、町の景色が少しずつ色を変えていった。人々の生活は静かに日常へと戻っていったが、兼の中では、時間だけが取り残されたままだった。
ふとした瞬間に兄の笑顔が浮かび、耳の奥にあの歌声が蘇った。「朧月夜」——兄とともに歌った春の記憶が、胸を締めつけた。
そして兄の命日が近づいたある日、兼は決意を胸に、一つの行動に出た。
誰に促されたわけでもない。ただ、季節の匂いに混じって胸の奥に差し込んできた痛みが、彼を静かに突き動かした。春の風にふと誘われるように、彼の足は自然と、あの場所へ向かっていた。
そこは、兄が幾度となく立ち、汗を流したグラウンド。風の音と共に、遠い歓声が聞こえる気がした。兄のグローブを取り出し、手を差し込んだ。革の匂いが、あの日々を一気に蘇らせる。
白球を握る手が震えた。それは不安や恐怖からではなかった。むしろ、何かが静かに目を覚まし、胸の底から広がっていくような感覚だった。
——兄が残したものを、自分なりの形で受け止めたい。
それは強い願いというより、もっと静かで、祈りに近い感情だった。心の隙間に残っていた兄の影を、自分の中で少しずつ形にしていくための旅。ちょうど兄の死から一年、十三歳になった兼は、野球を始める決意を固めた。
それは単に兄の後を追うという道ではなかった。兄との絆をより確かなものにしたいと願う兼の選択だった。運動は決して得意ではない。特に野球は、かつて小学校の体育で苦い思い出もあった。
空白だった一年間の心を、埋めるようにして。
そして中学一年生となった兼の姿は、かつての面影を残しながらも、ずいぶんと変わっていた。幼少期に悩まされた喘息や体力のなさも、成長と共に落ち着き、今では友人と同じように走ることができるようになっていた。背もぐんと伸び、肩幅も広がり、外見だけ見れば、すでに兄と遜色ない少年へと育っていた。
兄を知る野球部の監督や上級生たちは、兼の入部を歓迎し、どこか期待を込めた目を向けてきた。
——「あの兄の弟なら、きっと何かをやってくれるはずだ」。
その言葉は、優しさでもあり、時に鋭い刃となった。
兼は、キャッチボールさえまともにやった記憶が数えるほどしかない。バットを振る感覚も曖昧だった。練習が始まって最初の数週間は、心も体も思うように動かなかった。グローブの中でボールを弾き、バットは空を切り、フライの落下点を読み誤って何度も転んだ。足元ばかり見ていた。周囲の視線が、冷ややかに感じられた。
「やっぱり兄とは違う」「名前だけの弟だ」
そんな陰口が背中から突き刺さるたびに、胸の奥がじんわりと熱くなった。叫びたいほど悔しかった。でも、叫ばなかった。泣かなかった。
その悔しさは、静かに体の奥で燃え続け、彼を支えていた。
兼は、黙って泥だらけになった。誰よりも遅くまでグラウンドに残り、誰よりも多くノックを受けた。膝は何度も擦りむけ、指先は裂け、ユニフォームはいつも土と汗にまみれていた。それでも、彼は練習をやめなかった。
言葉にしなくても、彼の心にはたしかな思いがあった。
——兄が生きていたら、きっとこうしていただろう。
——自分が兄の夢を継ぐのではない、自分の意志でこの場所に立っているのだ。
空を見上げれば、あの頃と同じ夕焼けが広がっていた。雲の切れ間から差す光が、どこか兄の眼差しに似ていた。
ひとりでいるはずなのに、ひとりじゃない。そう思える瞬間が、いつもあった。
そして、月日は流れた。兼の体は、確実に応えてくれた。中学卒業の頃には、捕球の安定感と打撃の力強さがチームメイトの信頼を得るようになり、以前は影のようだった存在が、いつの間にかチームの要へと変わっていった。
かつて冷ややかだった目は、今や彼の姿を尊敬と憧れをもって追いかける。
けれど、兼は決して慢心することはなかった。
自分が何者であり、なぜこの場所に立っているのか――それを誰よりも深く知っていたからだ。
胸の奥に、ふと兄の声が響く。
「お前はもう、俺を超えている。自分の足で、ちゃんと立っているんだ」
その言葉は、いつまでも消えぬ火のように、静かに彼の心を灯し続けていた。
高校進学のとき、彼は名門と呼ばれる学校ではなく、自宅から通える地元の高校を選んだ。そこには、派手さはなくとも、互いを信じ合い、支え合う仲間がいた。野球がうまいからではなく、野球が好きだから集まった者たちだった。
そのチームで、彼は静かに、しかし着実に力を伸ばしていった。決してエースでも、四番打者でもなかったが、ここ一番で流れを変えるプレーをする男として、チームの信頼を得ていった。
そして三年生の夏。誰もが予想しなかった奇跡が起こった。
地方大会で、彼らの無名のチームは次々と強豪校を撃破していった。劇的な逆転勝ち、延長サヨナラ、守備の要としての彼の活躍も光った。そして、ついに、甲子園出場が決まった日——スタンドにいた保護者や地元の人々の目には、涙があふれていた。
この快挙は、すぐにニュースとなり、全国へと広がった。「兄の死を乗り越え、かつて病弱だった弟が、甲子園へ——」という見出しが紙面を飾った。テレビ番組も特集を組み、兄の命を懸けた勇気ある行動と、弟のひたむきな努力を伝えた。どこか作られたような“美談”として消費されることもあったが、彼の目にはそんな報道はどうでもよかった。
ただ、兄に届けたかった。
「兄ちゃん、俺はここまで来たよ」
試合前、甲子園の土を握りしめた兼は、観客席のはるか上、空の彼方を見つめた。そこには、白い入道雲が広がっていた。兄と見た、あの空の色だった。
アルプススタンドには、両親の姿があった。父は寡黙に腕を組み、目を細めてグラウンドを見つめていた。母は胸に兄の遺影を抱きしめ、涙を堪えながら声援を送っていた。
彼らにとって、その光景は夢のようだった。幼い頃、風邪を引いて寝込んでばかりいた息子が、いまや甲子園の土を踏んでいる。そしてその背中には、亡き長男の影が、確かに重なっていた。
両親は、兼を心から誇りに思っていた。あの事故以来、沈んでいた家庭に差し込んだ、初めてのまばゆい光だった。そして何よりも、兄の遺影を胸に、甲子園という夢の舞台に共に立てたことが、長い喪失の中で得られた、かけがえのない慰めとなっていた。
けれど——栄光の陰には、やはり哀しみもあった。
試合は初戦、強豪との対戦だった。仲間たちは全力を尽くし、兼も何度も声を張り上げ、全身でチームを支えた。しかし、結果は惜敗。スコアボードに刻まれた数字は、夢の終わりを静かに告げていた。
だが、不思議なことに、試合後のベンチに悔し涙はなかった。むしろ皆、どこか晴れやかな顔をしていた。
なぜなら——そこには、確かな物語があったからだ。
ただ勝つために集まったチームではない。誰もが、兼の背中に、亡き兄の姿を見ていた。誰もが、彼のために走り、叫び、バットを振った。小さな町で生まれたその物語は、勝敗を超えて、ひとりひとりの胸に深く刻まれていた。
兄弟の絆、受け継がれた夢、そして失われた命が、もう一度、甲子園の舞台で生きたのだ。
その姿を見届けたマスコミも、ただの勝ち負けでは語れない何かに気づいていた。新聞やテレビは、連日のように「奇跡の兄弟」としてこの物語を伝え続けた。全国から届く応援の手紙の中には、失った家族を思い出し涙した人、子どもに希望を語った親たちの声もあった。
——兄の命は、弟の中で生き続けている。
その事実こそが、この夏の一番の勝利だった。
夏の甲子園から数日後、兼はひとり、静かに山あいの町へ戻ってきた。
猛暑の日々が過ぎ去り、山の空気にはかすかに秋の匂いが混じっている。紅葉にはまだ早いが、空はどこまでも高く澄みわたり、雲は絹のように淡く流れていた。
兄の眠る墓は、町外れの小高い丘にある。周囲を木々に囲まれたその場所は、四季折々に異なる表情を見せながら、いつも静けさに満ちていた。風がそよぎ、葉がさやさやと音を立てる。
兼は墓前に立ち、ゆっくりと目を閉じて合掌した。しばしの沈黙ののち、唇を開く。
「兄貴……甲子園、行ってきたよ」
その声は低く、だがまっすぐだった。
「最初の試合で負けちまったけど、俺たちらしい試合だった。……なんて言えばいいかな、なんかさ、ちゃんと……一緒にあの場所に立てた気がしたんだ」
言葉は、吹き抜ける風に溶けていく。けれど心のどこかで、兄にはきっと届いている。そんな不思議な確信があった。
そのときだった。どこからともなく、ひとつのさえずりが風に乗って耳に届いた。
優しく、どこか懐かしい旋律。
――菜の花畑に、入日薄れ……
あの唱歌「朧月夜」だ。
まるで、兄がすぐ隣で口ずさんでいるような錯覚に陥る。
春の山道、菜の花を摘んだ日。
夏の川べり、夢中で魚を追いかけた時間。
秋の山肌に揺れるアケビを一緒に採った午後。
そして、肩を並べて雪を踏みしめた冬の朝。
どれもが、昨日のことのように風に乗って蘇ってくる。
青年はふと口元に笑みを浮かべ、そっと歌いはじめた。
「菜の花畑に 入日薄れ……」
かすかな歌声が風に乗り、木々の間を渡り、遠くの山にまで届くようだった。
木の葉が優しく揺れ、空気がふわりと温かく包み込む。
そのときだった。
耳元で、そっと囁くような声がした。
「……ありがとう」
兼は、はっとして辺りを見渡した。
だが、誰の姿もなかった。そこにあるのは、風と木々のざわめき、そして鳥たちの声。
それでも、兼は確かに感じていた。
その声は、紛れもなく兄のものだったと。
「うん……ありがとう、兄貴」
静かにそう応えると、兼は再び墓前に頭を下げた。
胸にこみ上げる思いは、もはや哀しみではなかった。
それは、言葉にできないほどの深い、静かな感謝だった。
その後、兼は地元を離れ、大学へと進学した。
もちろん、野球を続けるつもりだった。
兄の夢を、自分の手で、もう一度つかみ取るために。今度は“憧れの背中”ではなく、“自分の足”で、それを追いかけようと決めていた。
両親も、静かに背中を押してくれた。
「おまえなら、きっと兄貴の分まで立派になれるよ」
旅立ちの朝、父が言ったその言葉が、胸の奥でずっと響いていた。
慣れない都会の生活にも少しずつ馴染み、野球部の練習にも必死で食らいついた。
体格も技術も高校時代より洗練され、ようやく新たなスタートラインに立てた気がしていた。
だが、運命は、再び彼の前に残酷な姿を現す。
それは、ある日の夕暮れだった。
グラウンドでの練習を終え、夕焼けがゆるやかに空を染めはじめた頃、兼はふと、視界の異変に気づいた。
遠くの仲間の顔が、ぼやけて見えない。
光が翳ったわけでもない。目の前に靄がかかったように、全体がふんわりと霞んでいた。
「……疲れてるのかな」
そう呟きながら、彼は水を飲み、もう一度目をこすってみた。しかし変わらなかった。
その異変は、日を追うごとにゆっくりと、しかし確実に、兼の視界を蝕んでいった。
仲間とボールを追う中で、軌道を見失い、捕球のタイミングを誤ることが増えた。
プレー中に仲間とぶつかる回数も多くなった。
とくに夕方や薄暗い時間帯になると、視界の端が急にかすみ、地面との距離すら曖昧になった。
——何かが、おかしい。
そんな確信が芽生えたのは、年が変わる頃だった。
家族に気づかれないようにしながら、彼は一人で病院を訪ねた。
病院での検査は、思った以上に時間がかかった。
視野検査、網膜の断層撮影、光反応の検出。
機械音と白い壁、医師の無言の背中。
淡々と映し出される画像を見ても、兼には何が正常で何が異常なのか分からなかった。
ただ、その沈黙が、すでに“答え”であるような気がしてならなかった。
診察室で椅子に座ると、医師はファイルを閉じ、静かに顔を上げた。
「……網膜色素変性症です」
その言葉は、見慣れない漢字の羅列として、最初はどこか他人事のように響いた。
けれど、そのあとの説明が続くにつれて、胸の奥にじわりと重たいものが沈んでいった。
「進行性の病気です。視野が徐々に狭くなっていきます」
「夜間や暗所での視力にまず影響が出ます。そして、最終的には……視力を失う可能性が高いです」
脳がその意味を拒むように、理解が追いつかなかった。
自分が、見えなくなる——
その現実が、あまりに急で、あまりに重かった。
「四十歳頃には、ほとんど見えなくなるでしょう」
医師の言葉が診察室の空気を凍らせた。
夢が、崩れていく音がした。
兄との約束が、ひび割れていくのが見えた。
診察室を出たあと、自分がどこをどう歩いたのか、まるで記憶にない。
ただ気づいたときには、夕闇に包まれた校舎の裏に立っていた。
誰もいないベンチに、ふらりと腰を下ろすと、体中から力が抜けていくのを感じた。
風が落ち葉を転がし、遠くで電灯がぼんやりとにじんでいた。
すでに日は落ち、世界は黒と灰色の濃淡だけでできているように思えた。
「なぜ、俺なんだ……」
かすれた声で、呟いた。
お兄ちゃん……。
呼びかけても、どこからも返事はなかった。
ただ沈黙だけが、兼の隣に座っていた。
両の手を膝の上に置く。
兄とつないだ手。
ボールを握った手。
汗と泥にまみれてバットを振ってきた手——
それらが、あまりにも静かに、重なっていた。
病は容赦なく進んでいった。
二十一歳を過ぎる頃、視界の中央をかろうじて保ちながらも、それ以外は暗くぼやけていた。
世界が、徐々に形を失っていった。
夢も、希望も、まるで自分から離れていくかのようだった。
朝、目が覚めても起き上がれなかった。
光のない部屋で、ただ天井を見つめていた。
外の風も、鳥の声も、遠い世界の出来事のようだった。
誰の声も、届かなかった。
両親や友人たちは励ましの言葉をかけた。
でもその言葉が、むしろ兼を追い詰めていった。
“見えない”という事実に蓋をされ、寄り添うのではなく、引き戻されるような感覚。
励ましが、孤独を深めていった。
苦しみ、もがき、生きてゆく意味さえ見失いかけた。
どうすればいいのかも、誰に助けを求めればいいのかも分からなかった。
どうすることも出来なかった、そしてある日、ふらりと兼は生まれ育った故郷の町へ戻っていた。
ある晩、兼は町のはずれへと歩みを進めた。
山あいの空は、都会とは違って澄みきっていた。
見上げた夜空には、満天の星が静かに瞬いていた。
それは、少年のころ、兄と肩を並べて見上げたあの空と、まったく同じだった。
「……まだ、見えるんだな」
思わずこぼれた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、その声には確かに、何かを求めるような、かすかな震えがあった。
その瞬間——
星々の光が、まるで語りかけてくるように感じられた。
「目が見えないってことは、世界が暗くなることじゃない。
目に見えない光だって、あるんだよ。」
——見えなくなっても、おまえは“守る”ことができる。
それは、心の奥底に潜んでいた声だったのかもしれない。
兄の声。あるいは、自分自身の魂の声。
兼は、そっと目を閉じた。
「見えること」がすべてだった日々。
ボールの軌道、仲間の表情、夕焼けに染まるスタンドの歓声——
そのすべてを追いかけてきた。
だが今、失うことで初めて手に入るものがあると知った。
人は、闇の中にあってこそ、本当の光の意味を知るのかもしれない。
その夜、兼は自分の言葉”で、夢を語った。
それは、兄の夢をなぞるものではなかった。
けれど確かに、兄から託されたものだった。
——自分もまた、誰かのために“守る人”になりたい。
兄のように、命をかけてでも、誰かの光になれる人間に。
それが兼にとって、生まれて初めて、自らの意志で選び取った「夢」だった。
「野球を辞める」
その一言が、喉の奥に突き刺さって、どうしても出せなかった。
それは兄との絆を断ち切ること。
それは、自分という存在の根を引き抜くこと。
言葉にしてしまえば、本当に全てが終わってしまう気がした。
だけど今兼は決断をした。そして、兼は静かに、バットを置いた。
大学を卒業した彼は、野球とは違う道へと歩き出した。
向かったのは、視覚障がい者の支援施設。
けれどそこで彼は、目の見えない子どもたちが、点字を指でたどりながら笑い、
白杖を使って軽やかに廊下を歩く姿を目にした。
――どうして、こんなにも明るいのか。
そこには、かつての自分が知らなかった世界があった。
不自由なはずの人々が、互いを支え合い、生きることに真正面から向き合っていた。
目が見えることが「光」ではないことを。
誰かとつながることで、人はどんな暗闇の中にも、確かな道を見出せることを。
その日を境に、彼の中で何かが変わった。
「障害者」という言葉の持つ重さと、そこにある現実。
世の中の目線と制度の不備、見えない壁にぶつかるたび、自分の無知を思い知った。
——この世界を、もっと理解したい。
——そして、伝えられる人間になりたい。
彼は盲学校の研修に通い、福祉を学び、視覚障害者の生活訓練に取り組んだ。
支える立場だったはずが、いつしか支えられていたことに気づく。
そして決意した。
「今度は、自分がこの道を照らす側になりたい」と。
視力を失ったことが、人生の終わりではなかった。
むしろ、それは新しい道の入り口だった。
——目に見える光は消えても、心の中にはまだ、灯せる光がある。
それが、彼の新しい人生の、最初の一歩だった。
自分の目は、いずれ見えなくなるかもしれない。
けれど、心で見えるものがある。
あの日、星の下で誓った「守る人」としての生き方が、彼を導いていた。
点字を学び、歩行訓練に励み、福祉の現場へ足を運んだ。やがて彼は盲学校の教壇に立ち、子どもたちのそばで生きるようになった。
盲学校での午後。青年は、点字の練習を終えた少年にそっと声をかけた。
「僕も、最初はまったく読めなかった。でもな、点字って、目じゃなくて“指と心”で読むんだ」
少年は不安げにうなずきながら、小さな指先を動かした。青年はその手の動きを、自分のかつての姿と重ねていた——。
その日を、藤花紗枝ははっきりとは覚えていない。
六歳の秋。夕焼けが町を照らし始めた夕暮れ、彼女はひとり、自転車で家へと帰っていた。補助輪を外して間もない、不安定な運転。家の前の道は、普段と違って工事の柵に囲まれていた。いつもの道なのに、なぜかその日だけ、景色が違って見えた。
車道へと車輪が逸れた瞬間、目の端にトラックの影が差した。ブレーキ音と誰かの叫び声が混ざり合い、ぐらりと揺れたハンドル。その瞬間、自分の身体がふわりと宙に浮いた。そして、何か大きくてあたたかいものに包まれ、力強く遠くへと押しやられた。
次に気づいたとき、彼女は地面に転がっていた。泣きながら駆け寄ってきた母が紗枝の名を叫び、強く、何度も彼女を抱きしめた。
その腕の中で、彼女はぼんやりと、すぐそばに倒れている人影を見ていた。動かない大きな身体。血のにじむジャージの袖。目をそらそうとしても、そこにある現実から目が離せなかった。
それからの記憶は曖昧だった。
目を覚ましたのは病院の白いベッドの上。母はまだ泣いていた。父の頬にも涙の跡があった。
なぜそんなに泣いているのか、当時の彼女には理解できなかった。ただ、その泣き顔が怖くて、抱きしめられるたびに胸がきゅうっと痛んだ。
医師の診断は「軽い打撲」。骨にも異常はなく、大事には至らなかった。両親は安堵の表情を浮かべたが、その奥にある、言葉にできない「何か」に、彼女の幼い心は気づいていた。
誰も事故の詳細を語ろうとはしなかった。彼女自身も、それを思い出そうとはしなかった。
ただ、退院後、両親に連れら参列した葬儀で母親が激しく泣いている姿に彼女は戸惑いを覚え困惑していた。それでもいつの間にか、あの日の出来事は「記憶の霧」に包まれ、少しずつ遠ざかっていった。
そして——
葬儀が終わってから数か月が過ぎたある日の午後。
学校から帰った彼女を迎えた母は、少しだけ沈んだ顔をしていた。台所で湯気の立つ鍋のそばに立っていた母が、彼女の顔を見て、一瞬ためらうように視線を落とした。そして食事のあと、母はそっと少女の隣に座った。
「事故のこと……ね、もう少し大きくなってから話そうって思ってたの。でも……いま、話してもいいかな……」
少女は少しだけ迷ってから、こくんとうなずいた。心のどこかで「何か」が待っていたような気がしたからだった。母の声の震えが、その「何か」に触れた気がして、胸の奥がざわついた。
母は、言葉を選ぶようにゆっくりと話しはじめた。
「あなたを助けてくれた人がいたの」
「あなたが倒れそうになったとき、その人は身を投げ出して、あなたを歩道へ押し出してくれたのよ。そのおかげで、あなたは今こうして元気でいられるの」
少女は目を見開いた。心の奥で、あの日の風の音、叫び声、そして自分を包み込んだ“何か”の感触がかすかに蘇った。
「その子の名前は……花坂直樹くん。中学三年生の男の子だったの」
母の声が、わずかに震える。
「でもね、直樹くんは……そのとき、トラックにぶつかって……亡くなってしまったの」
貴方と一緒にお葬式にいったの覚えている
時間が止まったようだった。
部屋の空気がひんやりと冷たく感じられた。時計の音すら遠く、静寂だけが広がっていた。
「……わたしの、せい……?」
少女は、小さくつぶやいた。
「違うの」
母はすぐに首を振り、少女の手を握った。
「あなたのせいじゃない。直樹くんはね、迷わなかったの。あなたを見て、すぐに駆け出して、助けてくれたの。そういう子だったのよ」
母の目が、少女の目をまっすぐに見つめていた。そこには涙も、揺るぎない愛もあった。
けれど、少女の心には言葉にならない感情が広がっていった。
何も知らず、あの日以降、普通の毎日を生きていた。その裏で、誰かの命が終わっていた——
その事実がどれほどの事なのか、幼い彼女には理解が出来なかった。
「もうお話はできないけれど、直樹くんは、あなたが無事だったことを、きっと喜んでる。今も、天国からあなたを見てくれてると思うの」
母は少女の髪をそっと撫でた。
「だからね、悲しまないで。直樹くんが、いつもあなたのそばにいるって、そう思って生きていってほしいの」
少女はもう一度、ゆっくりと頷いた。
でもその頷きは、まるで重い荷物を背負うように静かだった。
助けてくれた直樹くん。会ったこともないその人の名前を、彼女は胸の奥に深く刻んだ。
この命は、自分ひとりのものじゃない。
その思いが、静かに、確かに、心の中に根を下ろしていった。
九月十六日。
夏の終わりを告げる夕日が、あたり一面をやさしく照らしていた。
秋の風が、山あいの澄んだ空気をそっと撫でるように吹き抜けていく。
高校生になった紗枝は、紺色の制服に身を包み、ひとり静かに墓地に立っていた。
町のはずれにひっそりと佇むその場所には、遠くでヒグラシの声が響くだけの、深い静寂が広がっていた。
目の前の墓石に刻まれた名前——「花坂直樹」。
それは、紗枝の命の恩人の名だった。
彼の名を、紗枝は一度たりとも忘れたことがなかった。
五歳の春、事故に遭ったあの日から、心の奥深くにその名は根を下ろしていた。
あのとき、彼女はまだ幼く、世界の複雑さも命の重さも知らなかった。ただ、誰かが自分を守ってくれた——そんな、ぬくもりのような記憶だけが残っていた。
数か月後、母から真実を知らされたときも、涙より先に胸の奥に重たい塊のようなものが生まれた。それは感謝と、申し訳なさと、言葉には出来ない感情が混ざり合った、幼い心にはあまりに大きなものだった。
事故の数日後、初めてこの墓地を訪れたときのことを、彼女は今でも覚えている。
両親に手を引かれ、小さな歩幅でこの坂道を登った。
風が葉を揺らし、木々がささやくような音を立てていた。直樹くんの墓前で何も言えなかった彼女の代わりに、自然が静かに語りかけてくれているようだった。
「ありがとう」も、「ごめんなさい」も、そのときは胸の奥に飲み込んだまま。
けれど、その沈黙の中で、彼女の中には確かに何かが芽生えていた。
あたたかくて、けれど少し痛い、小さな芽のようなものが。
その後、父の転勤により、家族はこの町を離れた。
離れる前にもう一度、直樹くんのもとを訪れた。
その日も、空は澄み、風はやさしかった。
少女は手を合わせ、心の中で誓った。——いつか必ず、自分の言葉でここに戻ってくる。そのときは、きちんと向き合うから、と。
今日、その約束を果たしに来た。
制服姿の自分を、まず彼に見せたかった。
だから彼女は、まっすぐ墓前に向かって、心の中で静かに言葉をつぶやく。
——「ただいま、直樹くん」
風がそっと頬を撫でた。まるで、何も言わなくても、彼がそこにいてくれると伝えてくれるようだった。
彼に弟がいたことを、彼女はぼんやりと覚えていた。
葬儀の日、棺にしがみついて泣いていたあの少年——痩せた体に泣きじゃくる顔と、きついまなざしで見られていた様な記憶が焼きついている。
けれど、町を離れてから彼と再び会うことはなかった。
その姿を思い出すたびに、胸の奥が痛んだ。何時かあって話したいと・・・でもどこかに、恐れのようなものがあった。
(私と会うことで、彼の何かを、また傷つけてしまうのではないか)
(私が「生きていること」が、彼にとってどれほど残酷に映るのか――それを想像するのが怖かった)
紗枝は知らなかった。
自分が生きているという事実が、兼にとっての安らぎそのものであることを――。
後に、その少年が兄の後を追いかけるように野球を始め、甲子園まで出場したと、テレビのニュースや新聞の記事で知った。画面の中で汗をぬぐうその横顔に、かつて見た少年の面影を重ねた。
けれど、彼の背負ってきた重さ、自分が無言で背負わせてしまったかもしれない影を思うと、ただ、遠くから静かに見守ることしかできなかった。理由はうまく言えなかったが、心の奥で何かが絡まり、直接会う勇気は持てなかった。
その一方で、彼女の心にはずっと、ある思いが根を張っていた。
——誰かの力になりたい。
それは、幼い頃の事故がきっかけだった。命をかけて自分を助けてくれた直樹くんの姿が、ずっと彼女の心の中にいた。
「自分も、いつか誰かの支えになれる人間になりたい」
その願いが、やがて彼女の道しるべとなった。
大学では医療の道に進み、夢中で学んだ。
通常の医学部の課程だけでなく、障がい者医療の現場に積極的に足を運び、「リハビリテーション科」や「発達障害・視覚障害専門外来」など、専門的な研修や実習を重ねていった。
人知れず苦しみ、誰かの支えを必要とする人々に寄り添うことが、自分の使命だと信じていた。
二十七歳になった彼女は、誰もが認める優秀な若手医師だった。
研修医の頃から群を抜く知識量と冷静な判断力を兼ね備え、急患の現場では瞬時に最善の処置を選び取り、回診では高齢の患者にもひざを折って目線を合わせ、丁寧に言葉を選びながら説明を重ねた。
その眼差しには、いつもどこか静かなあたたかさがあった。情熱を燃やすのではなく、寄り添うような、穏やかで柔らかな優しさ。
だからこそ、周囲の医師たちや看護師からの信頼は厚く、上司たちは口をそろえて彼女の将来を嘱望した。
「このまま大学病院に残れば、将来的には講師の道もある」
「研究分野に進めば論文も出せる。海外の医学会にも推薦できる」
「うちの病院を支える中心人物になってほしい」
そうした声が、日増しに大きくなっていった。
実際、彼女の元には複数の大病院から声がかかっていた。待遇も申し分なく、年収の額も若手医師としては破格だった。
一歩踏み出せば、名声と地位は手に入る。安定した生活、確かな肩書き、将来の保証。
けれど——
彼女はそのすべてを、静かに、そしてはっきりと断った。
決して反抗でも、傲慢でもなかった。
ただ、自分の中に澱のように溜まり続けていた疑問に、どうしても目を背けることができなかったのだ。
「私は、何のために医師になったのだろう?」
彼女の心には、いつも問いがあった。
それは、誰にも語らず、ひとりだけの問いだった。
彼女が働く病院には、様々な医師がいた。
実力も人格も兼ね備えた尊敬すべき先輩たちもいれば、名声や収入をあからさまに追い求める者たちもいた。
患者の命よりも、自分の失敗を隠すことを優先し、カルテの記録をごまかし、責任の所在をすり替える医師もいた。
看護師や研修医を見下し、患者を「症例」や「数字」として扱う者もいた。
ある日、彼女はICUで処置中に、同僚のベテラン医師がつぶやいた言葉を聞いた。
「この患者、回復しても寝たきりだ。ここまでして延命して何になるんだ?」
それは医療現場の現実を反映した冷静な分析かもしれない。
胸がざわついた。
日々の診療の中でも、そうした疑問は少しずつ、しかし確実に、彼女の心を蝕んでいった。
ある若い患者が術後に合併症を起こし、容態が悪化したとき、執刀医は彼女にこう言った。
「この失敗、家族には言わないように。原因は複雑だから、説明がややこしくなる」
それは、事実の一部を伏せて責任を曖昧にする指示だった。
彼女は唇を噛んだ。
真実を語らないことで、誰が守られるのか。
患者の家族は、きっとすべてを知りたいと思っている。
そして、ある晩の当直明け。
疲れ果てた心と身体で、病院の屋上から夜明けの空を眺めながら、ふと自分自身に問いかけた。
——私のしていることは、本当に“人を救う仕事”なのだろうか。
確かに、彼女は多くの命を救ってきた。
血を止め、呼吸をつなぎ、治療方針を組み立て、家族の不安に寄り添った。
だが、いつからか、自分の手が「救うための手」ではなく、「制度や体制の一部としての手」になっていくのを感じ始めていた。
デスクに山積する書類。保険点数。診療報酬。
医療はいつの間にか、“数字”と“競争”に支配されていた。
その中で、彼女は苦しんだ。
理想と現実のはざまで、自分が壊れていく音がした。
けれど、それを誰にも語ることはできなかった。
彼女は優秀だったから。
笑顔で、仕事をこなしていたから。
「あなたなら大丈夫」——そう言われ続けてきたから。
だからこそ、彼女は悩み、立ち止まり、静かに決断した。
名声ではなく、人に寄り添う道を選びたい。
収入ではなく、心を救える場所で働きたい。
“医師として”ではなく、“一人の人間として”、誰かに手を差し伸べたい。
——自分が本当に進むべき道は、ここではない。
——命をもらった、あの町にこそ、自分がいるべき場所がある。
その思いは、胸の奥に長く沈んでいた。
幼い頃、自転車事故に遭ったとき、自分を救って命を落とした少年——花坂直樹の存在。
名も知らぬ他人だった。
でも、彼は何のためらいもなく、自分を守った。
そして、帰らぬ人となった。
事故の瞬間の記憶は、今でも断片的に脳裏に焼き付いている。
冷たいアスファルトの上に横たわる少年の姿——
それは、少女の心に深い傷と同時に、消えることのない問いを残した。
「私の命は、あの人のものだ」
そう思うようになったのは、もっと後になってからだった。
もう一度、あの原点に戻ろう——
命を守ってもらった、あの町へ。
彼の生きた証が眠る、あの小さなふるさとの町で、誰かの命と心を支える医療者になりたい。
そして、彼女は決断する。
山あいの町。花坂直樹が眠る、小さなふるさとの町へ。
医療の最先端ではない。
だが、そこでしか見えない命がある。
見捨てられそうな命、忘れられそうな心、
社会の隅に追いやられた「小さな声」を抱く人々がいる。
彼女は、自らの意志で、障がい者支援施設への赴任を望んだ。
それは、医師としての名誉を捨てることではなかった。
むしろ、自分が医師として生きる意味を、ようやく手にするための選択だった。
春の風に乗って、桜の花びらが舞っていた。
赴任して間もない春の午後、施設の職員が構内を案内してくれた。
木造の建物は、ところどころに時間の刻みを感じさせる古びた趣があった。床はきしみ、壁には微かなひびが走っていたが、不思議とそれが居心地の悪さには繋がらなかった。むしろ、そこには人の手で丁寧に手入れされてきた痕跡と、長年にわたり育まれてきたぬくもりが確かに息づいていた。
最新の設備や洗練されたものはなかったが、その質素な空間には、どの部屋からも柔らかな笑い声がこぼれ、日々を大切に生きる人々の気配が、静かに満ちていた。
視線を向けると、ひとりの青年が職員たちに軽く会釈しながら、静かに歩いてくる姿が見えた。
「兼さん、お疲れさまでした」
「午前の面談、とてもよかったって皆さん喜んでましたよ」
彼に声をかける職員たちは、どこか敬意を込めた眼差しを向けていた。
青年は自然な微笑みを浮かべながら応じ、ゆるやかな立ち振る舞いの中に、揺るぎない芯の強さを感じさせた。
けれど——彼の目は焦点を持たず、わずかに空を泳いでいた。
兼は故郷に戻っていた。
視力をほとんど失い、生きる意味さえ見失いかけていた彼を支えてくれたのは、幼い頃に兄と過ごした日々の記憶、そして変わらぬ姿で迎えてくれる山や川だった。
障害を負ったことで、初めて知ったことがある。——世の中には、自分と同じように助けを必要とする人たちがいるということ。
兄がそうであったように、自分もまた、誰かのために生きたい。たとえそのために自分が犠牲になっても、誰かを救うことができるのなら——。
兼が選んだのは、幼いころ兄とよく魚とりをした川辺に建つ障害者支援センターだった。夏の終わり、網を手にして川をじゃぶじゃぶと歩き、流れの中に潜む魚を追いかけては夢中になったあの日。兄の笑い声、水しぶき、転びそうになってつかんだ手のぬくもり──すべてが色あせない記憶として胸に残っている。
だが、かつての二人にとって、その川のほとりに建つ古びた建物の意味など、知るよしもなかった。ただの「誰かの施設」だった。そこが、障害のある人々の生活や社会参加を支える場所であることなど、想像すらしなかった。ただ川遊びに夢中になり、日が傾くまで水に浸かり、疲れたら堤防に腰を下ろして空を見上げた。
そのとき見た夕焼けの記憶だけが、不思議なほど鮮やかに残っていた。
そして気づいた。あの頃は知らなかったこの建物の意味を、今なら知っている。かつての自分が気づかなかった誰かの痛みを、今なら感じ取ることができる。兄と遊んだ川が流れ続けるように、人の思いも、願いも、目には見えずとも流れてゆくのだと。
「……あの方も、視覚障がいを?」
彼女が問いかけると、案内の職員は静かに頷いた。
「はい。光が少し感じられる程度で、日常生活はほとんど見えない状態です。
でも、彼はここで最も信頼されている職員です。彼自身が障がいを背負いながら、誰よりも利用者の声を聴いて、寄り添っているんです。まるで、みんなの“目”の代わりのように。だからでしょうか、彼の前だと、どんな方も自然と心を開くんです」
言葉が出なかった。
視覚障がい者医療に関わってきた自負はあった。
けれど、自らその立場にありながら、周囲を導く灯のように振る舞うその青年の姿は、医師としての矜持では到底届かない、深い人間性の光を放っていた。
胸の奥に、何かがそっと触れた気がした。
気づけば、紗枝はその青年の部屋へと、無意識に歩みを進めていた。
軽くノックをすると、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ、お入りください」
ドアを開けると、窓から差し込むやわらかな光が部屋を包んでいた。
整頓された机、点字資料が並ぶ本棚、壁には利用者たちの笑顔の写真。
部屋の中央に立っていたその青年は、静かにこちらへ顔を向け、柔らかな笑みをたたえていた。
「はじめまして。今日からこちらに赴任してきました、医師の——」
そう名乗ろうとした瞬間、彼の口から発せられたその名に、時が止まった。
「僕は、花坂兼と申します。どうぞよろしくお願いします」
耳に響いたその名前が、雷鳴のように紗枝の胸を貫いた。
一瞬、鼓動が止まったかのようだった。思わず視線が彼の顔に向かう。
まっすぐにこちらを向く、柔らかく穏やかなその表情。
けれど、その奥に、ふと重なった面影があった。
——あの日、兄の棺のそばで泣きじゃくっていた、あの少年。
自分の命の代わりに命を落とした、花坂直樹の……弟。
喉の奥がひりつき、息が詰まった。言葉にならない。
あまりにも突然の再会だった。
まさかこんな場所で、彼に会うなんて——。
紗枝の思考は、瞬く間に混乱へと沈んだ。
けれど、それ以上に彼女を打ちのめしたのは、彼が視力を失っていたという事実だった。
あの兼が……光を失っていたなんて——。
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
頭が真っ白になった。
心が現実に追いつかず、ただ荒れ狂う感情だけが胸を満たしていく。
彼の穏やかな顔が、かえって残酷に見えた。
見えないはずの世界の中で、それでもなお静かに笑っている——。
その姿が、紗枝の心に深く深く突き刺さった。
目の前の光景が、一瞬にして遠のき、胸の奥で何かが軋んだ。
思考よりも先に、罪悪感と感謝がないまぜになった強烈な感情が押し寄せてくる。
——私は、彼の兄に命を救われた。
——そして今、その弟は、かけがえのないものを失っている。
どちらの感情が先だったのかも分からなかった。
ただひとつだけ確かなのは、それがあまりにも深く、そして痛烈だったということ。
「……すみません、少し……外の空気を……」
そう言うのが、やっとのことだった。
部屋を出て、無意識に廊下の柱にもたれかかる。肩が震え、視界が揺れる。
そっと目を閉じると、思わず唇が震えた。
——彼の弟……。
あの少年が……
まるで、時の流れが巻き戻り、あの事故の記憶が目の前に蘇るようだった。
あの日——
事故の後しばらくして、母親から直樹の死を知らされた。
けれど——
その時の紗枝は、あまりに幼すぎた。
彼の死が何を意味するのか、理解するには心が未熟すぎた。
母親の説明に、涙は流れたけれど、それが本当の悲しみからなのか、自分でも分からなかった。
だが、月日が経つにつれ、心の奥底で何かが変わっていった。
大人になるにつれて、紗枝は何度も何度も、心の中で問い続けた。
——私は、あの時、彼に命を救われた。
——それなのに、私はただ「ありがとう」で済ませていいのか。
感謝と罪悪感の間で、紗枝の心は揺れた。
それは年月とともに静かに深まり、消えることはなかった。
紗枝にとって、花坂直樹は、両親と同じくらいに大切な存在だった。
そして、直樹の死から数年が過ぎた頃——
ある朝、何気なく開いた新聞のスポーツ欄で、紗枝の目はひとつの見出しに釘づけになった。
『花坂直樹の弟・花坂兼選手、兄の死を乗り越え、甲子園出場』
その瞬間、手が震え、新聞がふわりと床に落ちそうになった。
目を疑った。けれど、そこに並ぶ文字は確かに「花坂兼」。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥が熱くなった。
抑えきれない涙が、頬を伝って流れた。
止めようとしても、止まらなかった。
あの時、自分の命のために亡くなった直樹——
その志を、想いを、弟が受け継いで、夢の舞台へと駆け上がったのだ。
直樹の分まで生きて、夢を叶えようとしている少年が、そこにいた。
花坂兼。
あの日、兄の棺のそばで泣いていた少年が、兄の名を背負い、野球の舞台で輝いていた。
それを知った時、紗枝の心には、不思議な安堵が広がった。
直樹が託した夢を、弟が受け継ぎ、まっすぐに歩んでくれている——そう信じた。
だから、自分の命にも意味があったのだと、初めて心から思えたのだった。
そして、やっと自分の目指す目的を見つけられた。
彼女は信じて疑わなかった。
兼は、野球の世界でまばゆい光の中にいると。
兄の夢を、栄光の形で叶えてくれているのだと。
その道の先に、希望が続いているのだと。
柱にもたれたまま、紗枝は静かに涙をこぼした。
動揺は収まらなかった。
それでも——彼に謝らなければ、何かを伝えなければ。
その思いだけが彼女の背中を押した。
紗枝はそっと涙を拭い、呼吸を整えると、静かに兼の部屋へと戻っていった。
兼は、少し戸惑っていた。
一週間ほど前、職員たちの間で新たな女医がこの施設に赴任してくるという話がささやかれ始めた。
彼女は有名大学の医学部を卒業し、その後も名門とされる都市部の大病院で経験を積み、将来を嘱望される優秀な医師として知られているという。
そんな輝かしい経歴を持つ彼女が、なぜわざわざ山あいのこの小さな障がい者支援施設に——?
兼にはその理由がどうしても想像できなかった。
確かに、彼女にはこの町に“縁”があると聞いた。
だが、それもほんの幼い頃——七歳までの記憶にすぎないという。
それ以降はずっと都会で育ち、学び、生きてきた彼女にとって、
この町も、この施設も、おそらく記憶の片隅にしかなかっただろう。
それでも——なぜ。
この地に、再び足を踏み入れたのだろう。
その動機が知りたかった。
だからこそ、自ら名乗る必要があると感じた。
彼女が部屋に入ってきた瞬間、視線こそ感じ取れなかったが、
空気の揺らぎと微かな足音で、彼女が立ち止まったことを悟った兼は、
ためらいのない声で名乗った。
「僕は、花坂兼と申します。どうぞよろしくお願いします」
それは、何気ない挨拶だった。
けれど——その直後、彼女は唐突にその場を後にした。
部屋の空気が、すっと冷えた気がした。
扉の閉まる音が、やけに静かに響いた。
残された兼は、思わず表情を曇らせた。
(……やはり驚かれたのかもしれない)
視覚を失った自分が、この施設で職員として、
ましてや管理者の一人として働いているという現実。
それは、都市部の洗練された医療現場を知る彼女にとっては、
あまりにかけ離れた光景だったのではないか——。
あるいは、古びた木造の施設そのものにも、
違和感を抱かせてしまったのだろうか。
設備も、環境も、都会とは比べものにならない。
様々な想像が頭の中を巡った。
けれど、どうすることもできなかった。
兼はただ、彼女の反応の意味を測りかねながら、静かに待った。
やがて——足音が戻ってきたそしてドアがひらいた。
「……戻ってくださったんですね」
兼がそう呟くと、わずかに沈黙が返った。
「すみません。私のような者が、この施設で職務に就いていること、驚かれたかもしれません。
また……都会の施設とは比べものにならないような、環境の違いも……」
そう言いかけたときだった。
彼女の震える声が、兼の言葉をやさしく、しかし確かに遮った。
「違うのです……」紗枝は声を振りしぼるように言った。
「私は……藤花紗枝です。あなたのお兄様に、命を助けていただいた……。ごめんなさい」
その名前を聞いた瞬間、鋭い矢が胸の奥深くに突き刺さったようだった。
一瞬で呼吸を奪われ、世界の音がすべて遠のいていく。
兼はその場に凍りついたように立ち尽くした。
その名前は、兼にとって決して消えることのないものだった。
心の深い場所に、いつもそっと仕舞われていた名——
兄・直樹が命を懸けて救った、あの少女の姓。
「藤花さん……兄貴が、救った……」
思わず漏れた言葉は、兼の中で凍っていた記憶を一気に呼び覚ました。
脳裏に、母親の陰に隠れていた幼い少女の姿がよみがえる。
震える肩、小さな手。
十数年の時を超えて、失われた縁が、今ふたたびこの場所で繋がったという現実。
兼は驚きと戸惑いの中で、言葉を探した。
しかし、胸の奥が波立ち、感情が押し寄せて、うまく声にならなかった。
一方の紗枝もまた、強く揺れていた。
思い出すまでもなく、その名はずっと彼女の胸の奥に刻まれていた。
命をもらった少年の弟——その事実の重さが、いま全身にのしかかっていた。
沈黙が、ふたりの間に降りた。
だが、その沈黙は決して冷たいものではなかった。
それは、再会の衝撃を胸に受け止めながら、
互いに言葉を探し、感情を整えようとする、静かな時間だった。
ようやく、兼が小さく息を吐いた。
そして、静かに、けれど心の奥から滲むような柔らかい声で言った。
「こうして……また、お会いできたことを、嬉しく思います」
その声がどこから届いているのか、紗枝にははっきりとは分からなかった。
けれど、それはまるで、窓の外からそっと吹き込んでくる春のそよ風のようだった。
やさしく、あたたかく、そしてどこか懐かしい。
その瞬間、胸の奥がふるえる。
——お兄さんが、そばにいる。
そんな感覚が、言葉ではなく感情のかたちで、紗枝の中に広がった。
兼もまた、ふと顔を窓の方へ向ける。
風にそよぐ桜の気配の向こうに、彼もまた何かを感じていた。
「兄貴……」
心の中で、そっとつぶやく。
言葉にしなくても、ふたりの心には確かに直樹の存在があった。
もう姿を見ることはできないけれど、その気配は、光のようにそっと寄り添っていた。
見えなくても、聞こえなくても、そこに“いる”と感じられる確かな温もりが、春の空気に溶けていた。
——ふたりを、再びめぐり合わせたのは、きっと偶然ではない。
その場に吹いていた風も、きっとそれを知っていた。
夕暮れの堤防に、兼はひとり腰を下ろしていた。
日が落ちかけた空は、淡い朱を帯びながら、ゆっくりと夜の気配をその身にまとい始めていた。
見えはしない。だが、空の広がりや、時間の移ろいは、風の温度、頬に触れる湿り気、草いきれの匂い——そうした感覚のすべてが彼に教えてくれていた。
耳を澄ませば、遠くで鳥の声がかすかに響く。子どもたちの笑い声がやがて家路へと静まり、代わりに虫の音が顔を出す。そんな一日の終わりの音色の中で、兼はひとり、自らの心の奥と向き合っていた。
思えば、兄がいた日々も、この堤防の景色も、自分の目にはもう映らない。
だが——その記憶は、なお鮮やかに心に刻まれていた。
兄と肩を並べて歩いた土手道。ふたりでキャッチボールをした広場。夕暮れに染まる空を、ただ黙って見上げた日々。
それらはもう、視界ではなく、心の中で輝きつづけていた。
そんなときだった。
「花坂さん!」
秋の風にのって、どこか切実な女性の声が堤防に響いた。
その声には、ただの呼びかけ以上の想いがこもっていた。
少し息を切らした気配が近づいてくる。彼には見えないはずの姿が、風にのって輪郭を持ち、確かに胸の奥へ届いてくる。
兼は、ゆっくりと白杖を手に立ち上がった。
白杖の先が堤防の縁をやさしくなぞりながら、彼は音のする方へと一歩ずつ、確かめるように足を運んだ。
その足音に呼応するように、もう一つの足音が近づいてくる。
やがて彼の前に立った彼女が、そっとその手を取った。
柔らかく、しかし揺るぎのない温もりが、指先から胸の奥へと染みわたる。
言葉はなかった。けれど、その静けさの中にこそ、すべてがあった。
兼は、小さく頷いた。
「この堤防は……兄と、よく歩いた場所なんです」
「僕の中では、今でも……夕焼けの空が、見える気がして」
目には見えなくなっても、心の中には色褪せぬ光がある。
それを、彼はたしかに感じていた。
紗枝は静かに頷いた。
彼の言葉が、まるで自分の胸にも静かに流れ込んでくるようだった。
彼の目が映していた景色——それは、彼女の心にも、まるで映画の一場面のように広がっていく。
かつて、兄が命を懸けて守った命。
そして今、その弟が、誰かの心に寄り添い、希望を灯して生きている。
それは奇跡ではない。けれど確かに、「意味」のある運命のような巡りだった。
沈黙がふたりの間に流れる。
それは気まずさでも、戸惑いでもない。
深いところで結びついた心が、互いの鼓動を感じ合うような、静かで温かな時間だった。
やがて紗枝は、もう一度そっと兼の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
秋の風がふたりの間をやさしく吹き抜け、川辺の木々から舞い落ちた紅葉が空をひとひら舞っていく。
澄んだ空気の中に、乾いた葉の香りと、夕暮れの冷たさが混じっていた。
そのとき、兼はふと顔を上げた。
見えないはずの空の向こう——そのどこかに、兄の笑顔がある気がした。
懐かしく、あたたかく、そしてどこまでも優しく。
「……兄も、きっと笑ってると思います」
そう呟いたその声に、紗枝は胸がいっぱいになり、何も言えずに頷いた。
彼の言葉が、まるで兄の声のように聞こえたからだ。
目の前を、川が流れていた。
あの日と変わらず、何事もなかったかのように。
ただ、静かに、黙って、絶え間なく。
遠くへ、遠くへ、すべてを包みこむように流れていく。
夕暮れの光はもう見えなかった。
けれど、ふたりの胸の中には、確かにあの日の空が燃えていた。
それは、誰の目にも映らない。けれど、決して消えることのない光だった。
そして、秋の風の中——
ふたりは静かに歩き出した。
それは、終わりではなく、静かな始まりだった。
この物語を書きながら、私がずっと意識していたのは「見えないものの中に宿る力」でした。
視覚を失った青年・兼と、かつて命を救われた紗枝。二人が再び出会うことで、失われた過去が“悲しみ”ではなく“希望”へと変わっていく——その瞬間を描きたかったのです。
人は誰しも、大切な人を失ったあとも、その存在と共に生きています。
目には見えなくても、声を聞かなくても、心の中に残る温もりは確かに息づいている。
それが「絆」というものの、本当のかたちなのかもしれません。
読んでくださった方が、この物語を通して、どこかで自分の大切な人を思い出し、静かな優しさを感じていただけたなら——それが何よりの喜びです。




