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9. もう一度歩き出すために、エスコートをお願いしますわ


 霧が濃くなってきた。


 それは単なる天候の変化――そう思っていたのは、森に入って間もない頃の話。


 今私の目の前に広がる景色は、先ほどと同じ森であるはずなのに、何かが明らかに違うと感じられた。


 音が消えている。風も、鳥のさえずりも、虫の羽音すらも。


(……世界に置き去りにされたみたいとは、まさにこのことですわね)


 私はMIKAN WORKS謹製のコンパスを手に、深く息を吸った。

 ただ『方角を示す』だけでなく、『精神の均衡を保つ』機能を持つこのお守り機能付き特製道具は、父が最も力を入れて作った品の一つだ。


 けれどその針さえも、今は微かに震えたまま動かない。


(やっぱり……普通の森ではありませんわね)


 足元には無数の落ち葉が敷き詰められていた。一歩進むたび、さく、さくと音がするはずなのに――その音が耳に届かない。


 代わりに時折聞こえてくるのは、人の声。誰かの足音。笑い声。そして……泣き声。


 私の知らない誰かの感情が、この森にじっとりと染みこんでいるようだった。


(……これは、『誰かの記憶』?)


 その言葉が、ふと頭に浮かんだときだった。


「……っ!」


 視界の端に、人影が揺れた。こんな霧の中で、あれだけはっきりとした姿――それは、誰かに……または何かに、意図的に見せられている。


 私は慎重に、しかし迷いなくそちらへ歩みを進めた。


「あれは……」


 やがて霧の向こうに浮かび上がったのは、背の高い一人の男性の影。見覚えがある。


 そう、彼は旅の途中、偶然出会った『変わった旅人』。


(……ロアさん?)


 その名前を口にしかけた瞬間、ゾクリ、と背筋が冷えた。


 彼の周囲には、無数の『幻』がいたのだ。


 楽しげに笑う男達、肩を叩き合う仲間達――だけどその誰もが、ロアさんの存在には気付いていないように通り過ぎていく。


(あ……)


 私は気付いてしまった。彼が『今』を生きていないこと。今の彼が見ているのは、『過去』の中の風景。


 ――ロアさんは、囚われている。自分では抜け出せない、『記憶の迷宮』に。


 そして私も、そんな繊細な造りの迷宮に迷い込んでしまった。


(……私が踏み込んでいいのかしら。彼の心は、この記憶は、きっととても大切で、壊れやすい場所にある……)


 胸の奥がきゅっと痛んだ。


 それでも――放っておけない。ロアさんとのあたたかな時間は、短くとも確かに私の記憶の中に刻まれているから。


(だからこそ、私が)


 息を詰め、そっと一歩を踏み出す。


(ロアさん。あなたがそこから抜け出せないのなら……迎えに行きますわ)


 私はMIKAN WORKS謹製の『位相波探知盤』を鞄から取り出した。

 かつてこの世界来たばかりの頃に特殊なダンジョンで痛い目に遭ったというお父様が開発した、空間の歪みや思念濃度を検知する特殊な測定器。

 

 まさに『念』の為と、旅の護りとして持たされてきた。いわば私のお守り二つ目だった。


「……やっぱり、反応していますのね」


 盤面の中央にある水晶が、柔らかな光を脈打つように震わせていた。円を描くように光が拡がり、中心が静かに引き込まれていく。


 私はしばらくの間探知盤を見つめ続けた。水晶の光が強く脈を打つたび、胸の鼓動も重なるように響く。


 今はもう再び霧に飲まれて見えないロアさんの姿。それでも確かに存在は感じる。


(この奥に……ロアさんがいる)


 そして、今も過去の中に囚われている。


(ロアさん。あなたのこと、ほとんど何も知りませんわ。それでも……あの時、焚き火の夜に並んだだけなのに、なぜか心に残っていたのです)


 私はそっと手を胸に当てた。


 黙って笑って、何でもない風を装っていた人。どこか遠くを見ていたような目をした人。


 でも今は、その『遠く』に閉じ込められてしまっている。


 私はもう一度、深く息を吸った。


「きっと、戻れるはず。回帰の一点……思念が、最も強く縛られている場所があるはずですわ」


 地面に膝をつき、探知盤に指を添える。精密に組まれた測定針が、円の一点を指してぴたりと止まった。


(……あそこ)


 私は立ち上がり、霧の奥へと歩き出す。踏みしめた落ち葉は、今度こそ小さな音を立てた。


(世界が、私の存在を認識し始めている……)


 やがて私は彼を見つけた。立ち尽くしている。まるで人形のように動かず、前を見たまま。


「……ロアさん」


 その背中に声をかけた。けれど彼は、まるで聞こえなかったかのように動かない。


 近付く。そして気付いてしまった。彼の足元に、何かがあるのを。


 それは――剣。血の滲んだ鞘。裂けたマント。そして、無数の手が、彼の足を掴んでいる。


(幻……でも、これは)


 誰かの『思い出』、誰かの『後悔』。そして、ロアさん自身の『罪悪感』。


 何故そう思ったのかは分からないけれど、確かにそうだと確信出来た。


 私は静かに膝をつき、ロアさんの足を掴む手の一つに指を重ねる。触れられないはずの幻が、一瞬、冷たく感じられた。


「ロアさん、聞こえますか? これは……あなたの記憶。あなたが閉じ込めた、痛みですわ」


 ロアさんの肩が、微かに揺れた。私は迷わず言葉を続ける。


「どうしても目を背けたくなることって、あります。逃げたくなることも、あります。でも……」


 私は彼の横顔を見上げた。その瞳には、遠い遠い過去が映っていた。


「誰かが知っていてくれたら、少しは軽くなる傷もあるんですのよ。私、知らないふりなんてしませんわ。あなたが、どんな人だったとしても」


 ロアさんの唇が、微かに震えた。彼の掠れた声が、耳を刺す。


「……やめろ」


 低く、苦しげな声だった。それでも私は首を振る。


「なぜ?」


 その瞬間、周囲の霧が微かに揺れた。世界が変わる。空気が震える。


(……ロアさん。あなたが心から『戻りたい』と願えば、きっとこの霧は晴れるのです)


 そう確信した私はそっと、慎重に、彼の手を取った。


「あなたがこの世界に戻ることを、誰かが願っている。それが、今のあなたには信じられないかもしれませんけれど……私は、信じていますわ」


 その手が、僅かにピクピクと動いた。


「……やめろ……もう、呼ぶな……」


 低く、震えるような声。あまりに切ない、そのこえに、私は胸の奥がきゅっと締めつけられたような気がした。


「ロアさん、あなたはここにいては駄目ですわ。これは、過去の記憶に過ぎませんの」

「……じゃあ、何だっていうんだ。ここにいるのが……今の俺だ」


 ロアさんの声には諦めと怒り、そして痛みが滲んでいる。


「ここにしか……過去にしか、もう居場所なんてない。仲間を見殺しにして、『俺はたまたま運が良かった』って誤魔化して……それしか残ってない」


 ――「運が良かった」


 それは彼が、自分の心を守るためについた、たった一つの嘘。


(違いますわ。あなたは、誰かの死の上に立って生き延びたわけじゃない。生き延びたのは、あなたが生きる意味をまだ失っていなかったから)


 けれど、それを言葉にするにはまだ早い。今の彼は、それを受け入れる心の余裕を持っていないのだから。


 私は手元の探知盤を見つめ、静かに告げた。


「……ここは恐らく『思念の迷宮』。あなたの記憶と後悔が作り出した、閉じられた空間ですわ」


 探知盤の針が、一つの方向を指して脈動を強めた。


「そしてここには、『回帰の一点』――出口が、必ず存在しますの。あなたが『戻りたい』と願うなら、きっと……その出口を見つけられるはずですわ」


 ロアの背中がわずかに動いた。


「……戻る? 誰のところへ?」


 その質問には答えなかった。けれどその沈黙の中に、きっと私の気持ちははっきりと滲んでいた。


(あなたには、まだ誰かと出会う未来があります。例えば、私とか……)


 私はそっと近づき、ロアさんの隣に立った。


「……あなたの本当の声、本当の想い。それを、誰かが知っていては困りますの?」


 その言葉に、ロアさんの肩がぴくりと揺れた。


 彼の目が、ゆっくりと私を見る。霧の中に差し込む光のように――その視線はほんの僅かに、過去から『今』へと向けられていた。


「誰か……? 誰が?」

「例えば私でもいいじゃありませんか。少なくとも私は、あなたに戻ってきて欲しいのですよ」


 その視線はまだ不確かで、どこか戸惑いを孕んでいた。けれど確かに『過去』に閉じこもったままではないと、私にははっきりと分かった。


(……届き始めていますわ)


 私は探知盤をもう一度確認した。中心の水晶が大きく波打つ。まるで『心の鼓動』をなぞるように。


「ロアさん。あなたが誰かを失った痛みを、私には完全には分かりません。けれど――」


 言葉が喉でつかえた。けれど、それでも。


「あなたの強さは、その傷を抱えてなお、立ち上がっていることですわ。逃げずに、今を生きている。美味しい物を食べ、寝て、命を大切にしているのです……それだけで、十分すごいことですのよ」


 ロアさんは目を伏せた。手のひらで顔を覆うようにして、何かを耐える仕草を見せる。


「く……っ、うう……」


 私は、そっと彼の腕に手を置いた。


「世界にはたくさんの人がいるのです。一人で耐えることが強さではありません。誰かに支えられてもいい。前を向こうとすること――それが、本当の勇気です」


 その言葉に、ロアさんの肩がはっきりと震えた。


「……俺は、誰かに支えられる資格なんて……」

「あら、誰がそれを決めますの? あなたを責めた仲間はいましたか? あなたを見捨てた人は?」

「それは……」

「そうでしょう? それに……今、私がここにいますわ」


 私は一歩、彼に近付いた。探知盤の針がくるりと回転し、光の輪が広がる。


 濃い霧の奥に、一つの光の縁が現れる。霧の奥、朝露を孕んだ薄明かりが差し込み……それは、過去と未来の境界だった。


(――見つけましたわ。あれが、『回帰の一点』)


「ここが出口ですわ、ロアさん。でも、開くのはあなたの意思です。あなた自身が、『戻りたい』と願わなければ」


 ロアさんは長く、細く、息を吐いた。そして静かに私を見つめ、微かに首を横に振る。


「……まだ、怖い。あそこへ戻って、また誰かを失うのが」

「それでも……」


 そこまで言って、私は真っ直ぐにロアさんを見た。


「……それじゃあ、一緒に歩いてくださいますか? 私と。私の旅は、まだまだ始まったばかりですのよ。だからあなたに、エスコートをお願いいたしますわ」


 沈黙が、風のように過ぎていった。そしてロアさんは、ゆっくりと手を差し出してくる。


「……分かった。君がそう言うのなら」


 私はその手をしっかりと取った。


 霧が、音もなく晴れていく。闇を割って差し込む光の中、私達は並んで歩き出す。


(……ようやく、戻ってこられましたわね)


 ロアさんの横顔は、もう『遠い過去』だけを見ていなかった。

 


 

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