7. 囚われの森の美青年
夜が明け、私達はそれぞれの旅路へと戻った。
地図をくれたゴンザ達に礼を言い、私は野営地を出て北東の小道を進み始める。
朝靄のかかる森の縁は、まるで異世界への入り口のように静まり返っていた。鳥の声も、風の音も、木々の葉擦れさえも遠くなるほどに。
(……本当に、迷う人が続出する森、ですのね)
けれど私の足取りは思ったよりも軽かった。
なぜなら私はこの場所に、少しだけ『憧れ』を抱いていたから。
ふと、胸元のポケットに指を差し入れる。そこには、銀色に輝くMIKAN WORKS謹製の携行具――『記憶式遭難信号灯』が収まっている。
これはいざという時、使用者の記憶情報と位置座標を魔導転送で発信できる高機能ビーコン。
父が私にだけこっそり持たせてくれた、MIKAN WORKSの試作限定モデルだった。
――「何があっても、これを握っていれば、必ず帰れる」
そう言って微笑んだ父の顔を思い出し、私はそっとビーコンに触れる。
(……ええ、大丈夫。帰れる道があるなら、私は安心して、迷うことができますわ)
この森の奥に何があるのか。
人が口にする『迷い』とは、本当に道を見失うことなのか――それとももっと別の意味があるのか。
私の中で、旅の地図にはない新しい冒険が静かに始まろうとしていた。
「では、参りますわよ。迷いの森さん」
私は一歩、森の中へと足を踏み入れた。背後の光が遠のき、音が吸い込まれていくような感覚と共に、世界が少しだけ違う色に変わっていく。
そして森の入り口をくぐった瞬間、空気が変わった。
ほんの一歩、ただそれだけのはずなのに、周囲を包む空気がひんやりと湿り、昼間とは思えないほどの薄暗さが木々の間に広がっている。
高く伸びる木々はまるで天を遮るように枝を重ね、そこから差し込む光はわずかに揺れる緑の雫のよう。
風が止み、森の中の音が吸い込まれていく。
(……しん、としていますわね)
耳に届くのは自分の足音と、小さな靴が落ち葉を踏む音だけ。
さっきまで感じていた胸の高鳴りが、少しずつ冷えていくような感覚。
けれど、そこにあるのは怖さだけではなかった。奥へ進めば進むほど、私はむしろ、自分が物語の中に迷い込んだような気さえしていた。
(……もし、この森の奥に『何か』があるとしたら……それは、私の知らない世界。けれどずっと憧れていた世界、かも知れませんわ)
MIKAN WORKSのブーツが、湿った苔の上で小さく沈んだ。
通りすぎた小道は、気付けば消えている。
さっき目にした倒木が、今度は別の場所にあるような……そんな錯覚の繰り返し。
「……ふふ、なるほど。これが『迷いの森』というわけですのね」
誰にともなく呟いた声が、やけに遠く感じられた。
それでも私は歩みを止めない。たとえ、周囲の景色が静かに変容していったとしても。
ふと気づけば、胸元の『記憶式遭難信号灯』が微かに脈を打っていた。
それはまるで、私が『過去』とすれ違おうとしていることを警告するかのように。
深く吸い込んだ空気は、どこか懐かしい匂いがした。
思い出せない誰かの声、温かな記憶――けれどそれは確かに、『今』ではないもの。
(……何かが、私を覗いていますわ)
目に見えない気配が、森の奥からゆっくりと手を差し伸べている。
それは魔女の手か、記憶の影か。まだ分からないけれど私は、怖さよりも好奇心が勝っていた。
「もう少しだけ、進んでみましょうか」
旅の途中で出会う『不思議』を、私は一つ一つ自分の目で確かめてみたい。
それがたとえ、『迷う』という形であっても。
そしてこの先で――私は出会った。
「あら……? あれは……」
過去に囚われたまま、森に閉じ込められた、一人の青年と。