6. 教えてもらったのは、おとぎ話の魔女の森
クローナの街を発った私は、穏やかな丘陵を越えた先の野営地に馬車を停めていた。
夕暮れは既に過ぎ、夜の帳が森を染め始めている。
焚き火を囲むようにして、私はMIKAN WORKS謹製の『スウィングフレーム・クックスタンド』を組み立てていた。
三脚構造のこの調理台は、軽量かつ頑丈で、風の強い野外でも安定して鍋を吊るすことができる。
「ふぅ……今夜は少し、手をかけてみましょうか」
私は旅の鞄から、MIKAN WORKSの保存食シリーズ『ノーブル・プロビジョンズ』を取り出す。
その名の通り、『貴族の食卓』にも並べられることを想定して開発された高級保存食。
無添加で栄養価も高く、何より味が極めて良いのが特長だ。
その中で今日使うのは、『セントラルハーブ仕込みの白豆と仔羊のラグー』。
真空パウチを湯煎するだけでも美味しくいただけるが、今夜は少し手を加える。
MIKAN WORKSの『クイックセラミック鍋』に香草バターと刻んだキノコを入れ、香りが立ったところで保存ラグーを加えた。あとは弱火で煮込むだけで出来上がり。
香ばしさとともに立ちのぼる深い肉の香り。森の夜に満ちるその匂いは、まるでどこかの屋敷の厨房から洩れてきたかのようだった。
そして仕上げは、同じくMIKAN WORKSの保存シリーズから取り出した、『雑穀と干し果実のリースブレッド』。
しっかりした弾力があり、火に軽くあぶると、外は香ばしく中はふっくらと膨らむ。干し杏と胡桃が織り込まれた風味は、肉料理に合わせると絶妙な調和を生んだ。
「ふふ……贅沢ですわね。旅の夜とは思えませんわ」
小皿に盛った仔羊のラグーから立ちのぼる湯気を感じながら、私はリースブレッドをちぎり、ソースをすくって口に運んだ。
――とろけるような旨味に、キノコの香り。噛むほどに広がる白豆の優しい甘み。
身体の奥までじんわりと温まるその味に、私は思わず目を細めた。
MIKAN WORKSの保存食は、単なる非常食ではない。それは『旅を豊かにするための食』であり、道中でも失われることのない品格と滋味の象徴だった。
火の粉がぱち、と跳ね、夜の空に小さく弾ける。
(……お父様。あなたの名が刻まれたこの製品は、こうして今も旅人の食卓を彩っておりますわ)
静かな夜。私は一人きりの食卓で、誰にも見せることのない微笑みを浮かべた。
いつの間にか焚き火の炎が落ち着いてきた頃、森の奥からパキパキと小枝を踏む音が聞こえてきた。
「……どなたかしら」
身構えかけた私の前に現れたのは、年配の男性を先頭にした三人組の冒険者だった。
全員、装備はくたびれ、泥や煤にまみれている。
「おや……嬢ちゃん、俺の名前はゴンザ。そしてコイツらはマリアとレスだ。ここ借りていいかい? ちょっと休ませてくれると助かるんだが」
リーダー格らしき男性は、疲れ切った目元と伸びた顎髭を蓄え、礼儀正しく頭を下げた。恐らくは父と同じくらいの年齢に見える。
後ろには快活そうな赤い髪の女性と、泥まみれになった若い青年の姿もあった。
「ええ、もちろんですわ。お疲れのようですし、よろしければ温かいスープでもいかが?」
私はMIKAN WORKSの保存スープ――『白胡麻と根菜の滋養ポタージュ』を鍋にかけ、人数分をよそった。
「あったけぇ……これ、ほんとに保存食なのか?」
「嘘でしょ、何これ、めっちゃ美味しい!」
冒険者たちは目を丸くしながら、嬉しそうにスプーンを口へと次々に運んでいた。
特にレスという名の若者は、余程お腹が空いていたのか、何度も咽せながらがっついている。
「私の父が言っていたのです。『旅とは、知らぬ土地の誰かと火を囲むこと』と」
「へぇ! かっこいい親父さんだな!」
胸の奥が、じんとあたたかくなる。お父様の言葉をこうして誰かに伝えられるなんて。
「そんなこと……ございますわ」
お父様のことを褒められて、否定も謙遜もせずにそのまま受け入れた。
社交界では決して許されない『本音の語り合い』、これがこの旅の醍醐味でもある。
「……そういえばさ」
女性の冒険者がふと、思い出したように言った。
「この先の森、気をつけた方がいいかも。『旅人が入ると、なぜか道に迷って戻れなくなる』って噂があるのよ」
「まあ、俺たちは団体だったから何ともなかったが……あそこ、何かがおかしい」
私はスープをすする手を止め、そっと顔を上げた。
(……迷いの森、ですの?)
風が一瞬だけ焚き火を揺らし、辺りの闇が濃くなった気がした。
「道に迷って戻れなくなる……とは?」
私が問い返すと、年配の冒険者が手元の湯気を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「名前がついてるわけじゃないがな。正確には、峠を越えたあたりにある、森に続く小道だ。何度も通ったはずの道なのに、いつの間にか方向が分からなくなるって話が、昔からある」
「方向が……」
「ああ、実際に俺の知り合いもな、三日ほど迷って出てきた。まぁあの時は、運が良かったんだろうよ」
隣でスープを啜っていた女の冒険者も、静かに頷いた。
「動物の気配が薄くて、妙に静かなのよね。そのくせ風は強いし、木の影が道を分かりにくくするの」
彼らの言葉に、私はゆっくりと眉を顰める。
(まるで昔読んだおとぎ話の中の、魔女の森のようですわ。あぁ、とっても気になる……けれど、ただの偶然や自然の悪戯かもしれませんし……)
悩みながらも、魔女という存在に憧れを抱いている私は、どうしてもその場所を自分の目で見たくて堪らなくなっていた。
「それで? 嬢ちゃん、次はそっち方面に行くつもりなのかい?」
年配の男が問いかけてくる。私は微笑み、こくりと頷いた。
「はい。特に急ぎの旅でもありませんし……不思議なものに、興味がありますの。でも、情報をいただけて助かりましたわ」
「なら、これも持って行きな。あの辺りの簡単な地図だけど、俺が前に通った時に作ったやつだ。多少は役に立つかもしれん」
差し出されたのは、手書きの地図だった。粗いながらも目印の木々や小川の位置、そして曲がりやすい地点に印がついている。
「……ありがとうございます。こういう旅先でのご親切が、なによりありがたいものですわ」
私はMIKAN WORKSのティーポットで淹れた『夜の静寂ブレンド』をカップに注ぎながら、微笑んで言った。
干しラベンダーと林檎皮を使ったこのハーブティーは、穏やかな香りで心を落ち着け、疲労した体をゆっくりと癒してくれる。
「わぁ……いい香り……」
「こんな旅ってあるんだな……なんだか、贅沢だ」
彼らの肩から、自然と力が抜けていくのが分かった。
(お父様。あなたの工房で学んだことは、やはり旅の力になりますわね)
夜は静かに更けていく。焚き火の揺らぎと、森の風の音。
明日は、噂の森へ――私はそっと地図を胸元にしまった。