5. お名前は、ミーコ……ですか?
翌日――昨日の夜市の余韻がまだ街中に残る中、私はミルクターボを曳いて再びクローナの市の通りを歩いていた。
提灯は片付けられていたけれど、広場には朝市が立ち、店の軒先には新鮮な野菜や旅道具、衣類、薬草など様々な品が並んでいる。
昨夜感じた屋台の香ばしい匂いの代わりに、朝のパンとハーブの良い香りが漂っていた。
(……旅先でこういう市に出会えるのも、嬉しいものですわね)
のんびりとした気分で歩いていた、まさにその時だった。
「ねぇ、あれ……本物なの?」
「っていうか、こんなとこでMIKANが安売りって……ありえる?」
通りすがりの二人組の冒険者らしき青年たちが、囁くように話していた。
――MIKAN
耳慣れたその音に、私は思わず足を止めた。視線を向けると、小さな道具屋の露店の前に数人の客が集まり、ざわざわと騒いでいた。
「MIKANって……あのMIKAN WORKS?」
「見た目は似てるけどさ、刻印が甘くない?」
「しかも、値段が三分の一とかおかしいだろ……」
店頭には、見覚えのある形の火炉が数台並んでいた。けれど、その作りは明らかに粗い。
私は人垣の隙間から一歩踏み込み、棚の火炉にそっと指を添えた。
外見は似ている。けれど、指先に伝わる質感が違った。
(この重さ、ほんの少し軽い……)
手の中で軽く回してみる。内部の構造にわずかなズレを感じた。
(やっぱり……)
真鍮ではなく、安価な合金に似た鈍い響きがする。刻印の彫りも浅く、わずかにずれていた。
それはまるで――玩具の楽器のよう。弾けばすぐに分かる。奏でるべきものを、何ひとつ宿していないと。
「すみません、こちらの店主様はいらっしゃいます?」
呼びかけると、店の奥から戸惑いの表情を浮かべた中年の男性が姿を見せた。
「は、はい。何か……?」
私は少しだけ声の調子を落とし、なるべく柔らかく尋ねた。
「この火炉、MIKAN WORKSのものとして販売されておりますが……失礼ながら、正規品ではないと思われますの」
「え……?」
店主は驚いたように目を見開き、私の顔と商品を見比べた。
「ですが、私は間違いなく『MIKANの品』だと聞いて仕入れたんです。黒い外套の若い商人で、箱もそれらしくて……確かその商人の名前は……リゼンとかいう……」
「……リゼン、ですのね」
私は店主に深く頭を下げた。
「申し訳ありません、少々口出しをしてしまいましたわね。でも、こちらは明らかに模造品ですの。そして、恐らくはあなたも騙された側ではありませんか?」
店主はしばらく無言だったが、やがて苦しげにうなだれた。
「……正直、よく分からなかったんです。安くて見た目が似てるなら、喜ばれると思って。けど……そうか、やっぱり……」
その言葉を聞いて、私はそっと口元を綻ばせた。
「誠意ある方のようで安心しましたわ。被害に遭われたのは、あなたも同じ。大切なのは、これからの対応です」
「……ありがとうございます」
しん、とした空気の中、誰かがぽつりと呟いた。
「……今の火炉、触っただけで気づいてたよな」
「余程のMIKAN愛好家か、それとももしかして……流通監査局から来た、臨時査察官?」
「そうだな、あれは普通の旅人じゃねぇ……やけに品のある話し方だし……」
私はそっと振り返り、彼らに聞こえる声で言った。
「そのような肩書きなど持っておりません。私はただの旅人ですわ」
半信半疑、そんな表情を浮かべた人々を前に、私は声を上げる。
「皆様、くれぐれも誤解なさらないでくださいませね。こちらの店主様はこの模造品の被害者。非難すべきは、偽りの品をばらまいた、そのリゼンなる者ですわ」
声が静かに広がる。ざわめきは、少しずつ尊敬と共感の色に変わっていく。
ふと、広場の外れ――昨日スープ屋台を出していた青年の姿が目に留まった。
彼は驚いたような顔でこちらを見ていたが、すぐに目を細め、深く一礼を送ってくれた。
(……あら、昨日の)
私も軽く会釈を返し、店主に向き直る。
「よろしければ、この後の対応、ご一緒いたしましょうか? 私も、可能な限りお力になりますわ」
「……ありがとうございます!」
何度も頭を下げる店主の目に浮かんだのは、深い安堵と感謝だった。
私は胸の奥でそっと呟く。
(お父様。あなたの作った品が、こうして大切にされていること――きっと、喜んでくださいますわよね)
空は澄んでいた。風がミルクターボのたてがみを軽く揺らし、広場にまた賑わいが戻りつつあった。
(それなら私はもっと遠くまで、この道を進んでみたくなりましたわ)
それから私は、店主とともに市の商工詰所へと足を運んだ。
石造りの建物の中は、朝の光に照らされ、帳簿をめくる音と羽根ペンのかすれる音が静かに響いている。
「いらっしゃいませ。何かお困りでしょうか?」
窓口にいた若い職員が顔を上げると、店主は手に持った帳簿を差し出した。
「こちらの仕入れに、偽物が混じっていたようでして……」
職員が帳簿に目を落とす横で、私は軽く一礼し、口を開いた。
「失礼いたします。こちらの火炉は、MIKAN WORKSの正規品ではございません。素材、刻印、仕上げ、いずれも明確な差異がありますの。店主様はそのことを知らずに仕入れておられ、帳簿には相手の名と取引日時も記録されております」
職員の視線が私に向く。その目に浮かぶのは、ほんのりとした困惑と警戒――そして、次に出てきたのはお決まりの言葉だった。
「……もし差し支えなければ、お名前をお伺いしても?」
私は軽く笑みを浮かべて名乗る。
「ミコト・エストレーリャと申しますわ」
「えっ……ミーコ? ミーコ、ですか?」
ミーコって、猫じゃあるまいし。でも、いつもそう呼ばれてしまうのは慣れっこ。
お父様の国の言葉は、この世界ではとても発音が難しいのだから。
「いえ。ミコト、ですわ。でも、いつもそう呼ばれてしまいますの。構いません。お好きにお呼びくださいませ」
その瞬間、職員の背筋がぴんと伸びたように見えた。
「し、失礼いたしました……ミ、ミーコ様、もしかして、流通監査局の……?」
「いいえ。ただの旅人ですわ。ただ──このMIKAN WORKSを広めた者の娘でございますから、多少は見る目に覚えがございますの」
そう言って微笑むと、職員はあたふたと頭を下げた。
「し、失礼いたしました! すぐに記録を整えます。帳簿の写しも取って、中央への照会が可能なようにいたします。模造品の流通についても、上層へ報告を……!」
「ありがとうございます。取引証明の控えも、店主様にお渡しくださいますか? 今後の交渉のためにも必要になるかと存じますわ」
「か、かしこまりました!」
慌てながらも真面目な職員の応対に、私は安心して頷く。店主は何度も深く頭を下げていた。
「本当に……ここまでしていただけるとは思いませんでした……」
「いいえ。私、旅の途中でたまたま通りかかっただけですの。でも、我が家の教えにございましたのよ――『知っていて黙っているのは、知らぬより罪深い』と」
職員が思わず手を止め、目を丸くする。
「……本当に、ただの旅人でいらっしゃるのですか?」
私はくすりと笑って答えた。
「旅人ですわ。でも、ほんの少しだけ、人の役に立てる知識があるのなら……それを使うことに躊躇はいたしませんの」
窓の外から吹いた春風が、机の帳簿をぱらりとめくっていく。
(お父様。今日もまた、あなたが作った名前が、誰かを守ってくださいましたわ)
クローナの市での滞在も、そろそろ終わり。
私は夕暮れの光に照らされながら、旅馬車の整備をしていた。ミルクターボのたてがみを軽く梳き、荷台に積んだ装備の点検を終えたところで、ふと彼がぴくりと耳を立てる。
「……どうしたの? 何か気になりますの?」
問いかけると、ミルクターボはしばらくじっと通りの方を見つめていたが、やがて鼻を鳴らして頭を戻した。
(……気のせい、ですわよね)
けれど私は無意識に、その視線の先を追っていた。夕暮れの街角。石畳の隅、細い路地の入口にちらりと動いた黒い布の影。
一瞬、誰かの視線が背を撫でたような気がして、私は無意識に肩をすくめた。
(何だか……背中がゾクゾクしますわ。風邪でも引いたのかしら)
旅が始まったばかりでの体調不良を心配しつつも、微かに脳裏をかすめるのは今朝聞いたばかりの名前。
――リゼン。
街の市で模造品を売りつけ、騒動の元となったという謎の商人。
(……まさか。でも、まさか、ですわよね)
そんなに都合よく、まさにご都合主義のように姿を現すような相手ではない。
けれどほんの僅かに残る胸のざわめきは、なかなか消えてくれなかった。
「……行きましょう、ミルクターボ。明日には、また次の地へ」
私は声に出してそう言いながら、自分に言い聞かせるように小さく息を吐いた。
旅は、まだ始まったばかり。
誰と出会い、何を知るのか。
その全ては、これから――風の向こうにある。