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20. 婚約者から逃げ出した私を優しく包み込んでくれる夜


 グランデルへ向かう街道の途中、小さな森のそばで馬車を停めた私達は、今夜の野営地をここに定めた。

 

 空はすっかり夕焼けに染まり、風が森を撫でていく。葉擦れの音がまるで古い絵本のページをめくるように静かで、心が自然と落ち着くのだった。


 ロアさんが起こした焚火の火がようやく安定した頃、私は馬車の側面で「カラン」と乾いた音を聞いた。


「……あら?」


 見ると、馬車の外側にある収納の取っ手がぽろりと外れていた。


「これ、固定金具が緩んでいたのかしら……」


 私は備え付けの道具箱を開き、小さな革ポーチから針金と細工用具を取り出す。


「何してんだ? ミコト」

「ちょっとした修理ですわ。幸い、予備の留め具がありましたから……何とか。お父様のメモにも『収納部の負荷に注意』って書いてありましたの。一応気を付けてはいたのですけれど。これはもう少し改善の余地がありそうですわね」


 私はしゃがみ込み、針金を細かく折りながら、新しい取っ手の軸を作ってゆく。こうして黙々と指先を動かしていると、不思議と心が落ち着いてくる。

きちんと手入れされた道具は、まるで旅の相棒みたいに、私を見守ってくれている気がするから。

 

 ロアさんは焚火の向こうからそれをじっと見つめていた。


「……ミコトって、何でも出来るんだな。喋り方や外見はその辺の令嬢より令嬢らしいのに、やることは全く令嬢らしくない」

「えっ?」


 思わず手を止めて顔を上げると、ロアさんは小さく笑った。


「いや、それでも……なんつーか、やっぱり貴族らしい気品がある。綺麗に無駄なく、迷いがなくて、誰かの為に何かをしてるのが楽しくて堪らないって感じが、ミコトっていう人間なんだよな」


 思いがけない突然の言葉に私は一瞬だけ戸惑い、それから照れ隠しに笑った。


「でしたら、貴族社会で言われる『馬鹿なくらいが可愛い』令嬢とは、少し違う道を歩んでいるようですわね」

「それでいいんじゃねぇか?」


 ロアさんは、落ちた取っ手を拾って橙色の火にかざしながら言った。


「……こうやって自分で道具を直して、諦めずに旅を続けてくってのは、すごいことだと思う。初めて会った時は、正直貴族の変わったお遊びみたいなものかと思ってたんだ。でも違った。ちゃんと、ミコトの旅が形になってるって証だ」

「そんなに褒められたら舞い上がってしまいますわ」

「お世辞は苦手だ。これは……俺の本心だからな」


 そう言って笑うロアさん。よく考えてみれば、初めて会った時と今では、全く印象が違う。


「ありがとうございます。一緒に旅をしていく上で、お互いの印象が変わってきたということですわね。ロアさんだって、初めて会った時はもっと澄ました話し方でしたわ。まるで貴族の令息のような」

「……そうだったか? まあ、そう言われればそうだったかもな。第一印象というのは案外当てにならないってことだ」

「確かに……人の第一印象というのは当てに……」

 

 私はふと、かつて婚約者だった伯爵令息と初めて顔を合わせた時のことを思い出す。


(思えば、初対面からおかしな人だったわ。人を値踏みするような視線がねっとりと全身に纏わりつくようで……)


「どうしたんだ?」


 言葉途中で急に黙り込んでしまった私を心配したのか、ロアさんが真剣な眼差しでこちらを見ていた。


「いえ、ただ……思い出していたんです。私の元婚約者は、第一印象からしておかしな人だったなと」


 苦笑いを浮かべた私に、ロアさんは手に持った取っ手を置いて向き直る。

 

「そういえば、前にそんなことを言ってたよな。そいつから逃げる為に旅を始めたんだろ? その婚約者様って、どんな奴だったんだ?」

「その方は古くからある名家の跡取りで……外見だけなら整っていて、評判もそれなりに良かったんですのよ。でも……」


 私は視線を下げ、焚火の揺れる炎をじっと見つめた。


「……初対面の時から、どこか違和感がありましたの。挨拶より先に、私の髪の色を語り出して、『これはまさに理想通りだ』と……まるで品評会のように一つ一つ、私の容姿をなぞるように語って……」

「……物扱い、か」

「ええ。しかも、私の返事なんて、聞いていなかったのです。その方の中では、すでに『理想の私』が完成していたみたいで……私はただ、その枠にぴったり嵌まるかどうかを見定めるだけの存在だったのだと思います」


 炎がぱちりと音を立てる。私はゆっくりと息を吐いた。


「それで……ある日求婚の証として渡されたのは、私にそっくりの……等身大の人形。七体目だと聞かされた時には、もう背筋が凍りましたわ」


 ロアさんが思わず眉を顰めたのが分かった。


「七体……?」

「ええ。最初のものは、表情が硬すぎたから早々に改良したと。しかもその人形達が、皆『将来の私』をシミュレートしていると仰って。食卓に並べたり、ドレスを着せ替えたり……その為の記録ノートまでありましたのよ」


 そこまで話して、私は軽く首をすくめる。


「逃げたくもなりますわよね。ええ、気が付いた時にはもう、セバスチャンにこの旅馬車の準備を頼んでおりました」


 少し冗談めかしてそう言ったつもりだったけれど、ロアさんはしばらく無言だった。

 やがて、ゆっくりと、けれどはっきりした声で言った。


「……ミコト。それは、正気の人間のやることじゃない。逃げて正解だ」


 その短い言葉が、焚火の温度とは別の温もりを胸にくれた気がする。


「あの人形の瞳には、感情も体温もありませんでした。私という人間は婚約者からあのように見えているのだと思うと、とても複雑な気持ちですわ」

「ミコト……」


 そんな私の言葉に対してロアさんが困ったように、眉を下げるのが何故かくすぐったい。

 

「けれど今、こうして笑い合える誰かと囲む焚き火は、生きていると強く思えますの」

「……生きている実感が無ければ、死んでるも同然。本人の意思と関係なく、他人が『そうあって欲しい』と願う事の罪深さは、俺もよく知ってる。ミコトの選択は間違ってなんかない……絶対に」

 

 自分が選んだ選択肢に自信が持てなかった事もあった。本当にこれで良かったのかと、何度も自問自答して来た。

 それをロアさんは、いとも簡単に認めてくれた。間違ってなどいないと、肯定してくれるその言葉が、どんなに心強いか。

 けれども同時に、ロアさんの心の奥に棲まう暗い感情にほんの少し触れた気がして、いつか私も彼を救う言葉を掛けられたら……と願わずにはいられない。


「ありがとうございます。でも……たまに不安になってしまいますの。私は『枠に嵌まらない』人間。本当は誰かにとって『変わり者』に見えるのかもしれない、って」

「確かに変わってる。でも、俺はその『変わってる』ミコトだからこそ魅力的なんだと思うぞ。きっと身近な人間は皆そう思ってるさ」


 火の粉がふわりと宙に舞い、夜の闇に吸い込まれていく。

 ロアさんは照れ隠しのように笑い、もう一度取っ手を拾って私に手渡してくれた。

 その笑顔には、先程感じた仄暗い気配がすっかり霧散している。


「さ、取っ手の修理は頼んだ。俺はそういう細かい作業は昔っから得意じゃないからな」

「ふふっ……了解いたしましたわ、用心棒さん」


 そう返して笑った時、胸の中に残っていたざらついた記憶が、少しだけ、優しくほどけた気がした。


 やがて、取っ手の修理が終わった頃には、夜の帳がすっかり落ちていた。

 遠くでフクロウが低く鳴く。小枝の上をリスのような小動物が跳ねる音がして、私は思わず目を細めた。

 

 馬車の横に腰を下ろし、焚火の前で手を温めながら、ふうっとひと息吐く。オイルランプの明かりがほのかに揺れ、木々の影を柔らかく染めていた。


「直ったか?」

「ええ。明日もちゃんと旅を続けられそうですわ」


 ロアさんがスプーンを焚火の脇で軽く温めてから、スープをそっとかき混ぜる。香草がふわりと浮いて、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐった。


 そしてコッヘルを手に、手製のそれを注いでくれる。干し野菜と豆、それに旅の途中で手に入れた香草を少し。

 さらに木の皿を差し出してきて、そこに丁寧にパンを並べる。見た目は素朴でも、何よりあたたかい。


 何も特別なものではないけれど、それでも心がほっとする味だった。


 あたたかい湯気を頬に受けながら、私はふと思う。


 もしあのまま婚約を受け入れていたら、私はこうして焚火の灯りの下で、道具の手入れをする夜なんて、一生知らずに終わっていたのだろうか。


 風の音も、焚火の香りも、優しい食事の味も――それらを分かち合う相手がいることの幸せも。


「……旅って、いいものですわね」


 何気なく零したその言葉に、ロアさんはちらりとこちらを見て、少しだけ目を細めた。


「そう思えるなら、きっと正しい道を歩いてるってことだ」

「ふふっ……ええ。私、逃げただけじゃなかったんですわね。何かを捨てて、それでも得たいと願ったものが、確かにここにある」


 空を見上げると、木々の合間から星が瞬いていた。


 この旅は、たぶんまだ始まったばかり。何も予定がなく、何も急かされない夜。こういう夜のために旅をしているのかもしれない。

 けれど確かに私は、今日という夜を、自分の足で選んでここまで来た。


 手のひらには、修理を終えた金具のぬくもり。

 心の中には、揺るがぬ一つのの確信。


(私はこの世界を、私自身の目と手で感じて、生きていく)


 焚火の薪がはぜる音に、遠くで虫の羽音が重なった。誰かの声が響かない時間が、こんなにも心地いいだなんて、王都で暮らしていた頃には知りもしなかった。


 頬に触れる風が少しだけ冷たくて、けれどその冷たささえも心地よかった。空を見上げれば、枝の間からこぼれる星々。

 静かな夜の下で、誰にも急かされず、誰の期待にも縛られず、ただ『私』として息をしている。

それが、こんなにも幸せなことだったなんて。

 

 自然に身を任せつつ、MIKAN WORKSの製品で私らしい旅を――そうやって、この世界で『私だけの地図』を描いていく。


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