2. 最初の焚き火と、謎の男の登場ですわ
旅に出て二日目の夕暮れ、私は初めての『本格的な野営』を迎えた。
「……なるほど。丘の上は見通しも良く、風通しもよろしい。安全性も申し分ありませんわ」
馬車を停めたのは、王都を出てしばらく進んだ先の緩やかな丘。
視界の先には街道が伸び、遠くにぽつんと村の灯りが見える。これまでの私なら、あの明かりのほうに自然と足を向けたはず。
けれど今の私は違う。
お父様――元日本人であり、『MIKAN WORKS』創業者の血を継ぐ者として、この野営という冒険の第一歩を踏み出さねばならない。
馬車の後方には折りたたみ式のテーブルが引き出せるようになっていて、風よけの板を起こせば即席の調理スペースに早変わり。MIKAN WORKS謹製の高効率火炉に、着火用魔石をかざす。
パチリと火が点る。
「ふふ……これが、お父様の技術の結晶ですのね」
煮込み鍋に入れたのは、今日買った地元野菜と干し肉、そして調味料ポーチに入っていた特製ブイヨン。じっくりと火にかけていると、ほのかな香りが周囲に漂い始める。
「んん……これは、間違いなく美味ですわ」
思わず小さく頷いていた時、背後で不意に足音がした。
「……誰?」
立ち上がりつつ、腰の短剣に手を伸ばしかける。
藪の向こうから現れたのは、ややくすんだ旅装束に身を包んだ青年。ぼさぼさの栗色の髪に、垂れ目気味の目元。けれどその立ち姿は、どこか場慣れしている印象だった。
「驚かせて悪い。近くで焚き火の匂いがしたから、つい」
男は手を上げて穏やかに笑った。
「別に悪さをするつもりはないよ。ただ、野営してる人が珍しくてね。こんなところで女性が一人とは」
「あなた……旅人ですの?」
「まあ、そんなところだ。モンスターの調査とか、ついでに魔石拾いとかもしてる」
何だかあまり頼りにならなさそうな、まぁ簡単に言えば『弱そうな』青年に、モンスターの調査なんて出来るのかしら? と疑問が浮かぶ。
「あなたが調査……ですの?」
「少し剣が使えるだけの、しがない放浪者だよ。ロアって呼んでくれればいい」
ロア、と名乗った男は、勝手に馬車のそばに腰を下ろした。
「君、王都の人間だよね? それも……育ちがいい」
私を一目見て、そう断言する。その言葉に、私は少しだけ口角を上げた。
「さあ、何のことでしょう? ただの旅人ですわ。それを言うならあなたこそ、ただの旅人ではなさそうですけれど」
火を見つめるロアさんの目が、一瞬だけ鋭くなる。
「それは……気のせいだよ」
ロアさんはそう言って、肩を竦めた。
けれどその所作。腰に吊った剣の重さを無意識に気にするような動き。私には、それがとても『しがない放浪者』のものとは思えなかった。
「……まあいい。匂いに釣られてきた手前、何かお礼でもするよ」
ロアさんは立ち上がり、背中の袋を漁る。そして取り出したのは、見事な大きさのキノコ。
「さっきの森で見つけたんだ。焼いて食べたら旨い」
「まあ……そんなに立派な……」
素直に驚いた私は、ロアさんに少しだけ心を開いた。だって食材は多いに越したことがありませんもの。
火炉の片側に、大ぶりなキノコを並べる。じりじりと焼き色がつきはじめた頃、ロアさんが腰の袋から取り出したのは、小さな瓶だった。
「これ、塩と乾燥バジルの混合。風味づけにいいよ」
素朴な笑みを浮かべながら、それを指でつまみ、キノコにぱらりと振りかける。香ばしさの中に、草のような清涼感が混ざり合い、空気ごと胃を刺激する。
その匂いに、私は自然と目を細めた。
「まあ……香りだけでも、ごちそうですわね」
焼きあがったキノコをひとつ、そっと口元に運ぶ。ぷりっとした歯応えののち、舌の上に広がるのはじんわりとした旨味。肉厚でありながら繊維が柔らかく、調味料の加減も絶妙。
「……おいしゅうございます……」
小さく感嘆の息をもらし、手元の食器を整えながら思わず頬を緩めた。
「食材の旨味をここまで引き出すとは。あなた、只者ではありませんわね」
「たまたま。運が良かっただけさ」
ロアさんは軽く笑って肩をすくめる。その曖昧な笑みに、私は心の中で小さく『ふふん』と鼻を鳴らした。
(……やはり、この方、謎ですわ)
けれどそれでも、今この焚き火の傍は心地よい。
香ばしいキノコの香り、温かなスープ、ほのかな風の匂い。
それら全てが交わって、旅の始まりにふさわしい、小さな祝福の時間となっていた。
ロアさんは焚き火のそばでくつろぎながら、ふと馬車の後部に目をやった。その視線は、ごく自然を装っているようでいて、どこか執拗だった。
「……君、そのコンロ。火炉の構造が特殊だな。内部に風の魔石、二重断熱層……あと、あれ。食材保存庫か?」
指さしたのは、私が使っている冷却式の収納庫。蓄冷結晶と風魔導線を組み合わせ、電力に頼らず冷気を循環させる――MIKAN WORKSが誇る旅人用の高級装備だ。
「ええ。MIKAN WORKSのものですの。旅人や冒険者の間では、ちょっとした憧れの的ですわよ?」
さらりと口にすると、ロアさんの目がわずかに見開かれた。
「……やっぱり。それを手に入れようとした奴ら、何人も知ってる。けど、大半が『高嶺の花』だって言って諦めてたよ」
ロアさんは感心したように唇を噛んだあと、ぽつりと呟いた。
「すごいな……まさか現物を、こんなにたくさん使いこなしてる人間がいるとは思わなかった」
「……そう言われるのは、少し嬉しいですわね」
微笑みながらも、ロアさんの観察眼に一瞬だけ警戒心を抱いた。
(この人、やはり……ただの旅人ではありませんわ)
けれどその興味は悪意あるものではない。むしろ、道具そのものへの敬意に近い。
あたりがすっかり暗くなり、焚き火の揺らめきだけでは足りなくなってきた頃。私は馬車の側面に備えられた小型のラックから、ひとつのランタンを取り出した。
「こちらはMIKAN WORKS製『ナイトグロウ・ランタン』。風に強くて、光が柔らかいのが特徴ですのよ」
軽くひねると、淡い琥珀色の光が静かに灯る。まるで月明かりをそのまま閉じ込めたかのような、目に優しい灯り。
風が吹いても炎はまったく揺らがず、どこか神秘的な雰囲気すら漂わせる。
ロアさんが、その灯りを見て目を細めた。
「……こいつも、ずいぶんと上等な代物だな。夜目に優しいし、何より燃料が揮発しにくい。どうやって作ってるんだか……」
「さあ? 案外、とんでもない発想から出来ているのかもしれませんわね」
私はそう微笑んで、焚き火の向こうにいるロアさんの顔を、ふわりと照らし出す。
もう一度、お父様が作った旅道具に目を向けた。磨かれた金属に映る焚き火の光が、旅の先をほんのりと照らしている気がした。
(誰かの敷いた道ではなく、私の足で進む。この野営の夜風は、その証のように思えますわね)
「本当に良い代物だな……これ」
ロアさんが呟く。私のような人間が、MIKAN WORKSの品を多く手にしているのを不審に思っているのだろうか。
「快適に旅をするなら一流の道具を揃えませんと」
「……まぁ、確かに。それは一理ある」
焼きあがったキノコの香りが、焚き火の熱とともに空気を包む。ふとロアさんが火越しにこちらを見た。
「そういえば……君の名前、まだ聞いてなかったな」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。名乗っていなかった。それどころか、旅に出て誰かに名乗るのは、これが初めてだった。
旅に出て二日目。王都を離れ、改造馬車での移動を続けてきたけれど、人とこうして言葉を交わすのも、焚き火を囲むのも、これが初めて。
胸の奥が、そっと震えた。
「私の名前は――ミコトです」
自分で言いながら、その響きにどこか不思議な感覚を覚える。貴族にしか許されぬ姓は、今の私には、少しだけ重たすぎる気がした。だから今は、名前だけでいい。
こうして名前だけを名乗る今が、少しだけくすぐったい。
けれどロアさんは、すぐにその名を受け取ってくれた。
「ミコト、か。うん……似合ってる」
彼の声は、静かで、どこまでも自然だった。
あたりまえのように、その名を呼ばれることが、どうしようもなく、嬉しかった。
──そしてこの出会いが、後に私の旅にとって大きな意味を持つとは、この時まだ知る由もなかった。
静かに風が吹く丘の上。焚き火の赤が揺れる中で、私の新たな物語が、確かに始まりを告げたのだった。