11. 特製旅馬車の居心地はいかが?
朝露がまだ草を濡らしているうちに私は旅馬車の扉を開け、外に出た。
焚き火の名残が、ほんのりと地面に温もりを残している。
「ロアさん、そろそろ出発の……」
と、言いかけたところで、すぐそばに立っていたロアさんが、妙にばつが悪そうな顔で頭をかいていた。
「……おはよう。ちょっと、報告がある」
「まあ、そんな真面目な顔をされると、緊張してしまいますわ」
「……昨日の夜、俺の馬……逃げちまった」
思わず私は目を見開いた。
「えっ、逃げた?」
「実はアイツ、街で買った時からあんまり俺に懐いてなくて。夜中に蹄の音がしたと思って飛び起きて、探したけど今朝になっても見つからなかった」
ロアさんは、いつもの飄々とした態度を崩さないようにしていたけれど、どこか申し訳なさそうに視線をそらす。
「馬がいないと、しばらく移動が不便だ。どうするかな……次の街まで、悪いが馬車に乗せてくれないか?」
「もちろんですわ」
私は笑顔で即答した。
「むしろ、ロアさんが馬を連れていなかったなら、最初からそのつもりでおりましたのよ。お一人で歩かせるには勿体ないほどの護衛ですし」
「……相変わらず言葉が柔らかくて、強いな」
「ふふ、それは褒め言葉として受け取っておきますわ」
私は手をひらりと振って、馬車の扉を開けた。
「さ、お乗りになって。MIKAN WORKS特製旅用馬車『MIKAN Base-One』へ、ようこそですわ」
ロアさんは一瞬だけきょとんとしたあと、素直に一段踏み出し、馬車の中へと足を踏み入れた。
「お邪魔します……」
そして、次の瞬間。
「……なんだここ、馬車ってレベルじゃねぇ!」
驚きの声が素直に漏れるのを、私はくすっと笑って受け止めた。
「そう言えばロアさん、初めて会った時と随分口調が変わりましたわよね」
「ああ、あの時は初対面だったし……女一人のとこに話し掛けるなら、丁寧な口調の方が安心するかなって……悪いな、男ばかり中で生きて来たから、口が悪くて」
「いいえ、構いませんわ。ロアさんの楽なようになさいまし」
そう言って笑いかけると、ロアさんは安心したように肩の力を抜く。その態度に、「真面目な人なんだな」と改めて胸があたたかくなった。
「さあ、ご覧ください。女性は荷物が多いもの。収納は大切ですから、このように……」
私は馬車の側面に取り付けられた折りたたみ式の収納棚を開く。
中には調味料入りの小瓶がきちんと並べられ、上段には調理道具、下段にはハーブティーの小袋が整頓されている。
「ほんと、たっぷりだな。これ、本当に馬車か? 外見からは想像もつかない内部だ」
「あら、馬車に見えませんか? まぁ、お父様の設計メモをもとに、執事のセバスチャンが特注で仕上げたものですのよ。ほら、こちらには折りたたみ式の調理台もございます」
私は側面の小扉をぱたんと開いて、軽くテーブルを展開してみせる。真鍮製の脚がスムーズに伸び、天板が自然に水平を保つ。
「ここで朝食も薬草の記録も全部できますの。旅は道具が命ですから」
テーブルには磁力プレート付きで、走行中も食器が滑らないように出来ている。
「馬車の中でキッチンが開くとは思わなかった……」
「まだまだございますわ。窓は断熱強化ガラスですし、内側には魔力遮断の薄膜フィルムを貼っていますから、冬でも結露知らずですのよ」
ロアさんは半ば呆れたような顔で笑った。
「床も……冷たくないな」
「ええ。特殊な樹脂板と魔法繊維で構成された二重床でして、断熱仕様ですの。深夜でも床に座って紅茶を飲めますわよ」
「はあー……」
ロアさんに座ってもらう座席がわりのソファーは、スライド展開式でシングルベッドサイズに変形可能だと、実際に動かして見せた。
「ちょっと待て、こんなに隠しスペースが?」
下部には衣類や旅道具、保存瓶などが収まる収納庫付きだ。
「この引き出しには、夜に読む旅日記や筆記用具も入っていて、私のドレスも、お鍋も、全部こちらに入っておりますのよ」
「……なんだか、貴族の引っ越しみたいな旅だな」
「ええ、婚約者から逃げ出した、元・伯爵令嬢の旅ですわ」
そう言って私がウィンクすると、ロアさんは笑いながら、隣に立って馬車を見上げた。
「本当に貴族だったのか……なるほど、色々訳ありってわけだ。ま、せっかくだ。これだけの装備があるなら、俺も使い方を覚えないとな」
「ようこそ、『MIKAN WORKSプレゼンツ快適旅生活』へ。今日も一日、よろしくお願いいたしますわね」
馬車の車輪がのんびりと草道を転がる音が、耳に心地よく響いている。外では鳥がさえずり、森と草原の境を縫うように、私達の旅は続いていた。
静かで穏やかな午後。今朝初めてこの馬車に乗ったロアさんは、窓のそばで景色を眺めている。
私はというと、小さな手提げ籠から針と糸を取り出していた。
「何してるんだ?」
ロアさんが不思議そうに尋ねてくる。
「ちょっとした手直しですわ。このクッション、使いすぎて中綿が偏ってきましたの。MIKAN WORKS製ですが、どんな道具も、手入れは必要ですから」
私は膝の上の布地に丁寧に針を刺し、ふわりと整えながら縫い目を調えていく。
窓から入る陽射しの中で、淡い青の布がやわらかく光って見えた。
「裁縫もできるのか。器用だな」
「元・伯爵令嬢ですもの。お裁縫は花嫁修業の基本ですわよ」
くすくす笑いながら答えると、ロアさんは照れたように眉を顰めた。
「……そうか。貴族の世界は、色々と大変だな」
「ええ。だから今は、気楽で心地良い暮らしを目指しておりますの。旅先でも、自分の手で整えることが心の余裕に繋がりましてよ」
ちくちく、ちくちく。リズムよく針が動く音に、私自身も心が和らいでいく。ふと、思いついて口を開いた。
「そうですわ。ロアさん、お手元が空いているなら、こちらの紅茶をお淹れしていただけません? 使い方は今朝教えた通りですわ」
「おう。やってみるか」
彼は戸棚からカップを二つ取り出し、湯気の立つポットから紅茶を注ぎ始める。少し手つきがぎこちないのが微笑ましい。
「零してないか? 紅茶なんか、自分で淹れたのは何年振りかな」
「合格ですわ。今日は『午後のリラックスブレンド』ですのよ。カモミールとオレンジピール入りで、午後のぼんやりとした眠気に効きますの」
ロアさんは一口飲み、うんと頷いた。
「……確かに、すごく落ち着く味だ。こういうの、旅先でも味わえるんだな」
「旅先だからこそ、ですわ。心がゆるんでいるときにこそ、美味しいものが沁みますもの」
二人の笑い声が馬車の中にそっと広がる。
手元のクッションがふんわりと形を整え終わり、私は針を仕舞いながら、軽く背伸びをした。
「さあ、これで準備完了ですわ。今夜は快適に座れますことよ」
「その前に、昼寝してもいいか?」
ストンと座席に背を預けたロアさんは、紅茶の香りに包まれて目を細める。
「ええ。用心棒も休息は大事ですから。安心してお休みになってくださいまし」
「こんな時間を、俺が持つ日が来るとはな……」
ロアさんはそれだけ呟いて、目を閉じてしまう。
馬車は緩やかな傾斜を登り、ゆっくりと丘を越える。優しい風がカーテンを揺らし、私達の旅は、静かに続いていく――