06
──────カナメはひと月登城しない。
そう言われてから三週間。
あと一週間すれば、王子妃教育から王太子妃教育に切り替わるそれをしに、カナメはほぼ毎日、役目のために登城するシルヴェストルと共にやってくる。
教育の時間は思っているよりは少ない。しかし突然変わった教育はカナメに大きなプレッシャーを与えるだろう。
教育に当てられている時間が、数字以上の時間に感じるような大きなプレッシャーを。
マチアスはその日を思い、目の下にクマを作っていった。
それは日に日に濃くひどくなっている。
眠れないのだ。
カナメの心を守る方法が思いつかない。
守りたくても、守る自信もない。
そんな為体でどうするのだと言った父の顔をした国王に、怒鳴ったのは昨日だったか。マチアスはぼんやり思い出している。
約束をしたはずだと、だからカナメでいいと言っただろう!と、怒鳴ったのだ。
この、マチアスが。
王太子になるのなら、カナメへの思いを封印した。
今更自分でカナメ以外に選ぶ事は出来ない。代わりを選べと言われたって選べない。
王太子になるのなら、なると決まったその時に俺に言わずに相談せず、今までの王族同様相手を決めてくれればよかった。
どうして今、今更こんな事を言うんだよ。
どうしてカナメを解放しない。どうして俺に、国のための婚約者を改めて用意しないんだ。
この国を守る王族の一人として、第一王子という身で、何を言っているのだと言われても仕方がない発言だろう。
それでもマチアスは言わずにはいられなかった。
婚約を白紙にしてほしい、無かった事にしてほしい。泣きながら懇願しても父は国王の顔で出来ないといい、父の顔ですまないと謝る。
マチアスの知らないところで、弟であるエティエンヌもこれに意見をしたのだとマチアスに話に来た。
エティエンヌはその時泣きながら「淡々と出来ないと言われただけだった」と言い、何も出来なくてごめん、とマチアスに抱きついた。
兄が好きな、兄を尊敬しているエティエンヌも二人が好きだ。
幸せそうに笑って「王になったエティを支える」と言ってくれる二人がエティエンヌを好きだと言うように、エティエンヌだって二人が好きなのだ。
「でも、こんなところでじっとしているわけには、いかない」
マチアスはくまのある顔で、けれども目に力が戻った。
自分の未熟さを痛感したし、この先もするだろう。
「どうにかして、カナメが苦しむような事を回避しなければ……なんとか、苦しませないようにしなければ……。俺はいい、王子だ。心を押し殺すなんて出来ない事じゃない。でも、カナメにはそんな事、させたくないんだ。アルノルトも、分かってくれるだろう?」
切なそうに笑うマチアスに、従者アルノルトが泣きそうになる。
この人はどんな方法を持っても、最後にはカナメと別れる気だと。そう感じる決意の目を見ても、それを見ているだけしか出来ない自分に、あの日のアーネ同様歯痒い。
十も下の子供の決意が哀れで悲しくて──────、アルノルトだって貴族であるのだから身を裂かれるような決断をする事もあるだろうし、そうしなければいけないと“家”が決める事もあるかもしれない。それでも、王族だからこそ公私共に支えてくれる愛している人と過ごしてほしいと思うアルノルトだからこそ、マチアスの気持ちを思うと辛かった。
マチアスの従者となったその時からずっと、マチアスの小さな背中を守ってきた。どんな時だって王族だと背筋を伸ばし強くあろうとしたその背中を。
甘い事を考えていると思われたって、思わずにはいられない。口に出さないのだからいいじゃないかとそう、アルノルトは思っていた。
「マチアス殿下。まだ早いです」
思いが強かったのか、気がつけば口を出してしまった。
その珍しい事にマチアスは首を小さく傾げる。
「話し合ってください。一人で考え決める前に、カナメ様と。今までもそうなさってきたではありませんか」
それでなんとかなっていた今までと状況が違う。それを分かっていても、アルノルトは言わない選択が出来なかったのだろう。
マチアスは息を呑んで「そうだな。でも、今の俺は、情けなくもそれすら怖いさ」と片手で顔を覆った。
けれどきっとこの主人はそれをするのだろう。愛しい婚約者のために、それをなすのだろうなとアルノルトは思い頭を深く下げた。
カナメと顔を合わせる事が叶ったのは、まさしく二人の教育が切り替わるその日である。
それよりも前に会う事はやはり叶わなかった。
どうしても送ると言ってカナメをエスコートする形になったのは、サシャである。
父とカナメと共に登城した、その表向きの理由は彼が卒業後務める事になっている対外関係部門の主席顧問に挨拶をすると言うものだ。
元々父シルヴェストルが就いていたのが、対外関係主席顧問の主席補佐官だ。それを宰相が引き抜いた形で今の地位に立っている。
優秀な嫡男として有名でもあるサシャは卒業後に対外関係主席顧問の下に就き、然るべき時間をかけたのち父が担っていた対外関係主席顧問の主席補佐官に就く事になっている。
それを理由にサシャは堂々と登城したのだ。
「アル様」
「待っていた」
互いの親と宰相、そしてエスコート役として強引にこの場に居座ったサシャの前で、二人は久しぶりに顔を合わせた。
場所は謁見の間ではなく、今回も先の時同様、“王妃の庭”。もちろん遮断した上で、である。
二人の顔を見てサシャはさまざまな──────、いや主に怒りの感情がしゅんとしぼみかけた。
カナメの顔が状態良く見える理由をサシャは知っている。そしてそのカナメと同じような顔を、マチアスもしていたのだ。
(思えばそうだ。二人はまさに“相思相愛”だったのだから)
サシャがマチアスを観察している間に、親と親の話し合いが終わってしまった。
マチアスとカナメは一言も発しておらず、ロドルフもステファニーそしてシルヴェストルも執務があるために、そしてデボラは自身の侍女と先に帰るために、それぞれのこの先の予定のために国王は魔法を解いて解散の宣言をする。
サシャも表向きの理由のために場を辞さなければならない状態だが、その前にカナメにそっと囁いた。
「何があっても、私はカナメの味方だ。話し合いだけは諦めるな」
ぼんやりと、マチアスでも誰でもなくどこかを見ていたカナメは、やっとサシャを見た。
大丈夫だ、と昔からしている“おまじない”のひとつ、頭頂部へキスを落としてサシャはシルヴェストルと庭の向こうへ去っていく。
魔法が解けると互いの従者がすっと後ろについた。
従者同士も見慣れた相手、しかし互いの目に浮かぶ複雑な色を認め揃ってその目を伏せた。
黙ったまま、いつまで居ても良いと言われていても微動だにしない二人は、やっと視線を合わせる。
思わずマチアスがカナメの目の下を擦った。
「すまない」
マチアスの指の先には、ひどいクマを誤魔化すための化粧がついている。
対してカナメは自分に気を使う“余裕”があるように見えるマチアスから、そっと視線を落とした。
悲しんでいたのは自分だけなのか、こんな気持ちで苦しんでいるのは自分だけなのか、とそう感じたのだろう。
そのカナメの思いに気がついても何も言わないマチアスに、影が落ちた。
太陽を雲が隠したのだ。
突然ふっと影に入った事に視線を上げたカナメは、マチアスの顔も自分と同じだと気がついた。
(そうだ……アル様が考えていないなんて事、ないはずなのに)
自分への気持ちを伝えるのだって真面目で、自分との将来を驚くほど真剣に考えて、けれど不器用な彼は周りにそれと知らないようにと立ち回った結果、今もまだお互い婚約者がいないと言う状況しか作れなくて
(婚約者としていられる時間は、あれほどおれに、思いを伝えてくれていたのに)
マチアスが苦しまないわけない。彼だってあの日苦悩していた。突然の事にあれほど苦しそうに謝っていた。マチアスのせいなんかじゃないのに。
「アルさま。ごめん」
自分だけ苦しいって思ってごめん。何も思っていないんだと思ってごめん。
多くの意味を込めた謝罪に、マチアスの目の下の化粧が崩れる。
カナメも同じように化粧が崩れていく。
突然ザッと降り出した雨の下、二人は従者が慌てた風に傘を差し出すまでの間、それが原因だと言うように互いの顔から化粧を取り去った。