09
あの日──────、ダンスレッスン中に泣いたあの日から、カナメは家でも時々泣いていた。
我慢していた栓が、きっとどこかへ行ってしまったのだろう。
時折ハラハラと泣く姿が痛々しくて、シルヴェストルもデボラも胸を痛めていた。
──────こんなになっていてもなお、あの子を婚約者として縛り付けていなければならないのですか。
デボラは何度もそうシルヴェストルに言ったが、シルヴェストルだって同じような事をロドルフに言っている。
その答えはいつも同じだ。
「それは出来ない」
このままで求められる王妃になれるわけがない、と詰め寄っても何も変わらない。
デボラは泣いているカナメを抱きしめて“説得”もした。
私がなんだってするから婚約者を辞退しましょう、と。
そんな事は実際不可能だけれども、カナメが死んだと思わせて逃がそうと思うくらいの気持ちはある。
もしかしたら祖父を頼れば逃げれるかもしれない。それも何度も考えたし、カナメにも話した。
カナメの性格をよく知るデボラだ。このままでは“諦め受け入れるだけの人”になってしまうと、彼女はその嫌な予感が頭の中から拭えなかった。
けれどカナメは泣きながらでも言うのだ。
もう少しがんばりたい。がんばって、だめだったら、お母様に助けてって言う。
三日おきに、規則正しくシルヴェストルから無言の抗議が入る。
彼の纏う魔力が、周りを“刺激”するのだ。気圧され壁に縋りついたものもいると報告がされるくらいに。
取り繕うのがうますぎるはずの男の無意識での行動は、まさに無言の抗議のようだった。
同時に宰相グラシアンが何か言いたげになる事も増えたし、カナメにつけた教育係からは総じて「勉強に夢中になりすぎる姿勢が空恐ろしくなってきた」と報告が来る始末。
ロドルフは頭を抱えた。
そうしてついに、カナメが、カナメも気が付かぬうちに限界を迎えたのだ。
気がつくと、カナメは庭の一部を氷漬けにしてしまっていた。
周りにはマチアスとマチアスの従者に護衛数名、そしてカナメの従者がいたが、誰も被害に遭わなかった。これは庭の状態を見ると、まさに不幸中の幸いだったろう。
マチアスがその場で「カナメの魔力が先ほどの授業で受けた影響で今更膨れ上がり、若干暴走したのだろう」と言い切ってそう言う事にしたので、そういう事になっている。
確かに、先の授業では幼い頃から二人に魔術を教えている教師である王宮魔術師団員であるヘインツではなく、薬草学をメインとしている教師から魔法と薬学についての関係の講義を受けていた。
その際、魔力が薬で一時的に上がる仕組みについて聞いた上で、それを体験したのだ。
一度体験すれば万が一強制的にそのような薬を飲まされた際に体の違和感を感じ取る事が可能になり、自分では抑えられないような暴走を防ぎ、かつ正しい対応が可能になるからである。
そしておあつらえむきに、カナメは授業中その効果を一切感じる事が出来ず、教師もマチアスもカナメも揃って「なぜ?」なんて首を傾げていたばかり。今遅れて発現したと言っても誰の責任にもならないだろう。
なにせ、そう言う授業をして良いと許可を出したのは、この授業で起きるかもしれない危険を理解して“決”とサインをしたロドルフなのだから。
庭を氷漬けにしたカナメは城に用意されているカナメの部屋にあるベッドの上で上半身を起こし、両手で湯気の立つカップを握り込んで今起きた事を思い出していた。
意味もなく泣きそうになり「これはだめ、泣いたらだめ」と思った瞬間、ああなっていたのだが、カナメにはどうしても理解出来ない。
「おれ、なにもしてない」
ベッドの横に椅子を置き、それに座っているマチアスに言えばマチアスも驚いた顔だ。
「本当に、おれじゃない。もしヘインツ先生がいたら、きっと、違うって思ったと思う。おれは本当になにもしていない。だっておれ、あんな事、出来るわけない」
「じゃあ、誰が?」
カナメはゆらゆらと視線を動かし、それに応えるようにカーテンが揺れる。
窓は空いていない、風が入り込んでいる様子もなくこうなるのは、カナメと契約した精霊がそれをしている時だけ。
カナメと契約した精霊はカナメや時にはマチアスやサシャたちの言葉に、こうした形で反応した。
「精霊が?なんのために?」
「わからない……でも、泣きそうになったから、おれから意識をべつにむけるため、とか?」
「まさか……そんなはずは」
ない、という言葉はイチゴの形の氷の出現で消えた。
ポン、と落ちてきたそれに肯定の意味を見たマチアスは決意をした。
そして今日はここに泊まっていくと良いと言って、退室する。
彼は何より、カナメの幸せが一番なのだ。
何よりも、どんなものよりも。
マチアスが向かったのはロドルフの執務室。
“今回の件”の報告として時間を用意してもらっていた。
入室を促され入れば国王の父がいる。
「失礼致します」
言って入り、ロドルフが勧めた椅子に腰掛け求められるままに淡々と報告をした。
最後に「人払いを」と王子の顔で頼めば皆が退室し、ここにいるのはロドルフとマチアスの二人きりだ。
「このままではカナメは何もかもを失いましょう。どうか婚約の白紙を願います」
「ならん」
「では、国王陛下は、私の隣に立つ正妃が心病み全てを諦め全てを割り切り、『己の存在意義はこの国から求められた正妃としての自分』だけでいいという、そんな人形でいいと、そう言う物であっても構わないと考えている。そう考えでお間違いではありませんね?」
父に向けるでも国王に向けるでも、どちらに向けるにしてもおかしいほどの視線にロドルフの背筋がゾッとする。
答えを間違えると、マチアスもそうなるとそう直感した。
「私はかまいません。そうなると分かっていて手放せないと、嘘でも言えない、それだけは無理だと言ってしまう私の落ち度です。ここまでカナメに想いを向けそれを捨てられない私の咎でしょう。若いからと言えばそれまでかもしれませんが、私が手放してやれないからカナメをそうしてしまうのだという、罪でありましょう。私は、そうなったカナメを支え愛していけます。ですが、王妃としてはいかがです?それでも構わないというのでしたらかまいません。ええ、そうでしょう?」
「お前は何を言っているのか、分かっているのか」
「ええ、分かっています。むしろ陛下のおっしゃっている事が私には理解出来かねます。だってそうではありませんか。何も理由を言われないままに、あのように傷つき続ける人を見ているのですから。私は王太子になります。それが命ですから。ですが王妃がお人形では、どうしようもないと思いますが?」
「お前は、カナメを手放してやれるというのか?」
「カナメの平穏以上に、幸せ以上に、私が望むものなどありましょうか」
薄く笑う息子の姿にロドルフは首を振った。
「ならん。お前には言えないが、どうしても、お前には言えぬが、それはならん」
「どうしてです?何が言えないのですか!あんなふうになっていくカナメを縛り付けてでも王妃しなければいけない理由はなんですか!私の後ろ盾となる人間は、他にもいましょう!!」
「いえぬと言っておるだろうが!!」
机を叩き立ち上がった尋常じゃない様子の父親を見て、マチアスは素直に驚き椅子から腰を上げた。
今まではマチアスの事を思い、そしてこれまでカナメが受けてきた王子妃教育を思い、もし国王ではなく父親としても思いも含んでいるのであれば、そこに二人がお互いを想う気持ちと努力を思って、婚約を白紙にしないのだと言っているものと思っていた。
しかし感じた。
これは違うと。何か違う、理解出来ないようなよく分からない何か、自分達には否定する事が叶わないような何かが働いているのだと。
「父上……」
椅子に座り直したマチアスは言う。
「俺は、カナメの幸せのためならばなんでも出来ると、カナメを支え助けていくと何にだって宣言出来ます。でも、俺にとって一番大切なのはカナメが幸せである事。それを父上も理解しているのに、つまり、もう、そうしなければならない──────俺やカナメが何をしようともそうしなければならない理由があると言う事なんですね?それは、父上や母上、グラシアンおじさんではどうしようも出来ないような事で」
マチアスは私的な場ではグラシアンを『グラシアンおじさん』と言う。それは彼がそう言うように求めたからだ。
「すまない」
「父上と母上は、俺が何をしてもカナメを守り支えると思っているのでしょう?たしかに、まだ十四の俺ですが、そうしようと心から思っています。でも、カナメを支えるには俺の手は、悲しいけれど小さい。時間をください。逃げませんし、カナメを逃しも……いえ、俺が逃がせないでしょう。だから自分には覚悟が──────、そういう覚悟が出来る自分が確かに自分の中にいるのだと、それを信じられるような努力をします。自分には『覚悟が出来る強い自分』がいるのだと自信を持つために、努力をします。最初は先のように言えば、他の誰かを用意するかと思ったのです。王妃が人形じゃあ、役に立ちませんからね。カナメを解放するかと」
「解放……たしかに、解放だろうな」
「ええ」
「お前は……わたしが思う以上にカナメを愛しているのだな。理由がなんであれ、カナメがいるのであればと思っていたが、お前はそれよりもカナメの幸せを選べるか」
「ええ。ですがそれは出来ないんですね?俺を王太子にしなければいけない。俺もまだ、子供でした。カナメが苦しむくらいなら逃したい、そのために何が出来るかを考えていましたから……。でも出来ないのであれば、俺は何かをしなければいけないわけですね。何かに、立ち向かわなければ、いけないのでしょう?」
言ってマチアスは立ち上がる。
「ですが、カナメを王妃にしなければいけないのなら、俺が──────、万が一、俺が覚悟を決める事が出来たら、前例を作ってもいいですね?」
ロドルフは力強く頷いた。
「ありがとう、父上。父上の子としてこの俺は、精一杯、足掻いて見せましょう」