9 ゆっくり、ゆっくり。けれど、着実に。
これまでのことを思い出したのか、アーロンは、はあ……と深いため息をついている。
そんな婚約者の姿を見て、マリアベルは。
「……友人。ミゲル様の、婚約者。苦労を共有する仲間……」
とアーロンが口にした言葉を繰り返す。
アーロンからは哀愁とも呼べるなにかがにじみ出ており、とても嘘を言っているようには思えない。
合同授業の際、親し気に話していた女性はあくまで友人で、同じ苦労を抱えているから親しくなった、という話は本当なのだろう。
「そっ、か……。そう、だったんですね。私は、つい……」
「つい?」
アーロンの言葉に、マリアベルが顔を上げる。
視線の絡んだ彼は、ふふ、と愛し気にはちみつ色の瞳を細めていた。
「っ……! な、なんでもありません!」
あなたの特別が、他の女性なのかと思って、もやもやした。
それを素直に言うのは、なんだか恥ずかしい気がして。
マリアベルは、怒ったふりをしながらそっぽを向いた。
なんだか、今日はアーロンから顔を背けてばかりだ。
これまではマリアベルのそんな態度にショックを受けた様子のアーロンだったが、今は違う。
マリアベルが照れているだけだと理解しているようで、彼は面白そうに笑っていた。
「不安にさせてしまったのは、申し訳なかったけど……。まさか、きみが嫉妬してくれる日がくるなんてね」
「しっと……?」
「あれ、違った?」
「嫉妬……。嫉妬……?」
彼の言葉に、マリアベルはうーんと首を傾げた。
自分が抱いた感情は、嫉妬だったのだろうか。
言われてみればそうかもしれない、と思うが、初めてのことゆえに、それで正解かどうかわからない。
その答え合わせがしたくて、マリアベルは自身が感じた想いを、彼に語り始める。
マリアベルは魔法の名手。だが、ただ才能があるだけでは、この年齢でそこまでの熟練度にはならない。気になったことは突き詰めていく、研究者のような性質も有しているのだ。
「私はあのとき、アーロン様が他の女性と親しくしているのを見て、なんだかもやもやして……。それ以上見たくないのに、目が離せなくて……。リリーナ様が婚約者候補だったという話も聞こえて。私のほうを見て、婚約者は私なのに、と思ってしまったのですが……。これは、嫉妬、なのでしょうか」
さっきは言いよどんだことを、結局、アーロンに語ってしまった。
傍らに座るアーロンはと言うと、ぐっとなにかをこらえる様に、胸を押さえている。
「まっ……待ってベル……。これ以上は僕のキャパが……」
「ただの友人、という言葉が本当のようで、安心もしました」
「畳みかけるね……!」
「……あの。アーロン様の婚約者は、私、ですよね……?」
「っ……! ソウ、ソウダヨ……!」
青い瞳を不安げに揺らすマリアベルに、アーロンは完全にノックアウトされた。
二人が出会ってから、もう10年ほどの時が経つ。
マリアベルに長年の片思いを続け、彼女の手の甲や髪にキスをしても、照れてすらもらえなかった男、アーロン。
ただの友人であることに安心した、婚約者は私なのに、といったマリアベルの言葉からは、アーロンを他の女性に取られてしまうのでは、という不安や、嫉妬心、独占したい心などがうかがえて……。
彼女にとって自分が「特別」「他の人にとられたくない存在」であることを理解することになり、アーロンはもだえ苦しんだ。
恋心が伝わらず、彼女の言う「好き」も自分と同じものではなさそうで。ずっとずっと片思いしていた男には、威力が高すぎたのである。見事なオーバーキルであった。
「ベル……。大好き……。ありがとう……。そんなふうに思ってもらえたなんて、嬉しいよ……」
あまりのことに、アーロンはぷるぷると震えながら両手で顔を覆い、「大好き」「ありがとう」「嬉しい」と言うだけになってしまって。
マリアベルは、なんだか変になってしまったアーロンの隣で、おろおろすることしかできない。
「あ、あの。アーロン様……?」
大丈夫ですか、という気持ちを込めて、そっと彼の肩に触れる。
すると、マリアベルからの接触にぴくっと反応したアーロンは、自分の顔を覆っていた手をそっと外した。
「……ベル」
「は、はい」
それから、真剣な瞳でじっとマリアベルを見つめていたかと思うと――。
今度は、彼女の肩にそっと腕をまわして、優しく抱き寄せた。
「っ……! あ、アーロン様!?」
アーロンの腕の中で、マリアベルはあわあわとしながらも頬を染める。
暴れる、というほどではないが、慌てたマリアベルはそれなりにもぞもぞと動いていた。
「……ダメ、かな」
「そ、そういう、わけでは……ありませんが……」
けれど、耳元から聞こえる彼の声のせいで、なんだか力が抜けてしまって。
大好きな――そう、マリアベルは彼のことが、大好きなのだ――アーロンの逞しい腕に抱かれて、体温も、吐息も、すぐそばに感じられて。
破裂してしまいそう、と思うぐらいに心臓がどくどくいっているけれど、こうしてくっつくことを嫌だとは思わなくて。
すっかり大人しくなったマリアベルは、自身の手を、彼の腕に添えた。
そうすると、ドキドキするけど、安心できて、なんだか幸せな気もして……。と、不思議な気分になる。
「……アーロン様」
「……ん? なんだい?」
そう答えるアーロンの声は、とても穏やかだ。
ずっとマリアベルを見てきた彼は、わかっているのだ。マリアベルが、自分にこうされることを嫌がってはいないと。
彼女との距離が、確実に縮まってきていると。
マリアベルは、ちょっとだけ迷う様子を見せてから、えい、と自分からも彼に身体を寄せた。
彼女のその行動に、より近くなった体温に、アーロンは一瞬だけ、驚きに瞳を瞬かせて。
けれどすぐに愛おしさと喜びが押し寄せてきて、愛しい人を抱きしめながら目を閉じた。




