其の93 覚悟
彼はわたしの言葉を聞くとその場で項垂れてしまいましたが、その顔はどこかほっとしている様にも見えます。こうなることがわかっていたのでしょうかね?
わたしの周りの者達からは、言葉こそ発しませんでしたがソワソワする気配が漂って来ます。わたしの続く言葉を待っているのでしょうか。
誰もが大人しくしくその場を動かなかったのですが、突然、彼の側に居た年嵩の者が彼の元を離れ、こちらにやって来ます。
明らかにわたしを目指していますが知らない方です。どう対応しようか考えていましたら、レニーが突然わたしの横を通り過ぎ、彼の元へ進んで行き話し掛けました。
「久しいな、エルハルト侯爵。……いや、今は公爵だったか。まだ現役だったのだな」
「レニー。お前こそ引退したのではなかったか?」
お互いに知り合いの様です。ならば彼に任せましょう。そのまま大人しく彼等の会話を聞いていることにしました。
「娘のために、最後にひと働きをしようと思ってな」
「娘? ……お前の娘は確か……そうか、そういうことか……」
彼は話しながらわたしに視線を移して来たのですが、小難しそうな顔付きにも関わらず、その目は敬愛に満ちた澄んだものでした。
「私もこれを機にと考えていたのだが……まだ現役を退く訳にはいかなくなった様だな……」
「だとすると、もうアチラはよいのだな?」
レニーが彼の座っていた方へと視線を移したのでわたしも釣られて見たのですが、彼の姿は既にそこにはありませんでした。
……可哀想なことをしましたかね……。
今後の彼のことを思うと少しだけ心が痛みましたが、わたし達にした仕打ちに比べれば命があるだけマシでしょう。それにわたしこそこの後が大変なのですから、彼のことになって構っている暇はありません。すぐに彼のことを頭から追い出しました。
今後のことについて逡巡していたわたしに構うことなく、彼等は話し続けています。
「……そもそも我々が仕えているのはあくまで国だ。それはこれからも変わらない」
「そうか……」
二人とも話し合う前は険しい顔付きでしたが、いつの間にか穏やかな表情となっており、共にこちらに向くと、エルハルトと呼ばれていた者が突然わたしの前に跪き頭を垂れて来ます。
「誠に勝手ながらお声掛けを失礼致します。私めはエルハルト・クレインと申す者にて候。先の騒動につきましては関わりがあった者にて御座います。それ故、お目汚しとあらば即座に打ち捨てて下さりたく存じますが、お手を汚されることを厭われるのでありましたら、即座にこの皺腹切り裂いてご覧に入れましょう。しかしながら僭越では御座いますが、どの様な些細なことにてもこの身をお使い頂けるのでありましたら、生い先短い身なれど、この命尽きるまで粉骨砕身お仕えし、貴女様のお力になることをここに誓わさせて頂きたく存じます」
あまりの仰々しさに面を喰らってしまいました。はしたなくも目を大きく見開いて驚いてしまったのは仕方がないことでしょう。
しかし流石にこれはわたしの手に余ります。レニーに視線で助けを求めると、小声でこっそり「……宰相まで務めた者だから、何かと目端が効く筈だ。役に立つぞ」と教えてくれました。
周りを見渡すと期待に満ちた視線が刺さります。頭の中からも応援する声が聞こえて来ました。
……もう覚悟は決めましたしね……。
椅子に座ったまま、杖を取ってもらいます。何もないよりマシでしょう。
「エルハルト、その言葉に偽りはないですね?」
「ハッ!」
「わたしは聖人君子ではありませんから全てを水に流すことは出来ません。しかし若輩者ながらも愚者ではないと自分では思っています。己の感情の赴くまま無闇に踏み潰す様なことは致しません。この国の為に尽力を尽くすというのであれば、今一度誓いなさい」
王杖の代わりに杖を持ち上げると、持ち手の部分を彼の肩に乗せます。
「私ことエルハルト・クレインは残りの生涯をかけ、ミリセントさまと、この国に対し虚心坦懐にお仕えすることをここに誓います」
「その言葉、わたしミリセントが聞き入れました。ではお立ちなさい」
「ハッ!」
……これでもう後が無くなりましたね……。
こうせざるを得なかったのは、全てアンナのせいです。本当に一体何を考えていたのですかね?
(はぁ? もう一度お願いします)
(だからね、一億人だって。これ、アタシが前に住んでた国位の人口だねー)
(アンナさま……)
(いやほら、夢は大きく持たんとな!)
(バカじゃないですか?)
思わず本音が漏れましたが撤回も謝罪もしません。本当にバカだと思います。
当時の人口は百万人に満たなかったそうです。なのにそこまで大きく出たとは……一桁二桁間違えたのではないですかね? 目の前にいたら即座に張り倒していたことでしょう。
……現在のラミ王国の人口は凡そ一千万人程。それの十倍ですか……。
流石に現実的ではありません。絶望的です。これでは残りの人生、アンナを責めながらこの四人でやっていくしかないのでしょうか。目の前が真っ暗になって来ました。
先程美味しく頂いたお菓子の余韻なんて吹き飛びました。目の前にいる彼のこともすっかり忘れて暫し呆然としてしまいましたが、アンナがとんでもないことを言い出して目が覚めました。
(じゃがな、今のお主ならば不可能でもないかも知れんぞ?)
(余り冗談が過ぎると、そろそろ本気で起こりますよ?)
徐に怒気を高めていると、アリシアが間に入って来ましたので慌てて抑えます。
(そうでもないみたいよ?)
(本当ですか?)
悪戯に謀られていた訳では無さそうですから、怒るのは一旦辞めてあげましょう。
(……何故ワシのいうことは信用されんのじゃ……)
短期間でその数を十倍にすることは必ずしも不可能ではないとのことです。
(ここの大陸には幾つか国があるでしょ? そこをぜんぶラミ王国にしちゃえばいいのよ)
そうすれば丁度一億人に届くらしいです。
(……)
あまりにも荒唐無稽なことを、さも当たり前のようにいわれてしまうと、思わず思考が停止してしまうものなのですね。良い経験をしました。
……彼女もおバカなことを忘れていました。むしろこれは能天気というのでしょうかね。
いずれにしても戯言に付き合っている時ではありません。まだ彼と話をしている最中です。しかし躾はこの場でキッチリしておきませんと、今後も長い付き合いになりますから良くありませんよね。
(イザベラさま。例の恋文、暗唱出来るくらい覚えていらっしゃいますか?)
(えぇ! もちろん!)
(では、それをわたしには聞こえない様、彼女達に暫く聴かせてあげて下さい。えぇ、わたしが良いというまでずっとです。辞めてといわれても続けて下さいね)
……二人とも、精々のたうち回るといいですよ!
(ま、まったまった! ちゃんと話しを聞いとくれ!)
(えぇ、わたしはいつもちゃんとお話しを聞いています。ふざけてらっしゃるのは貴女方ではないですか!)
(ふ、ふざけてはおらんぞ! 現にお主も知っておろう!)
(はい?)
(ほれ、お主の生まれたリモ領。あそこもかつてはゼミット国の領土じゃったんだが……)
かつてラミ王国に割譲されて今に至るのだそうですが、その時と同じことをすれば良いのだそうです。
詳しい話しを聞き、思わず頭を抱えたくなりましたがこの場でそんな真似は出来ません。表情だけは懸命に平静を取り繕います。
(……そんな簡単なことでですか?)
出来る出来ないは別として、それはとても単純なことでした。
(簡単じゃといいよるが、それが最も大事なことなんじゃぞ?)
少し考え込んでしまいました。




